破かれたもの
「ここを知っているとは……もうお前の方がこの城に詳しいんじゃないか、ムイ?」
リューンが苦い顔をすると、ムイも顔を少し傾けて、苦笑した。
城の二階廊下の突き当たり、質素な扉を開けてさらにその先へと伸びる細く長い廊下。
ムイは、その時にこうむった苦い思いと一緒に、思い出していた。
あの、リューンに渡そうとしてごみ箱に捨てられていた、手作りのマドレーヌをエプロンのポケットに、そっと隠した時。
そして、リューンとの短いやり取りがあった後、悲しくて悲しくて、出はしない声を上げて泣き叫びたかった、あの時。
ごみ箱のすぐ横にある、いつもは気にも留めない小さな扉のノブに手をかけた。
大きな観葉植物によって、その姿は隠されていて、このような場所なら倉庫かなにかぐらいの認識だった。
(どこか、ひとりになれる場所、)
瞳に溜まった涙の量からいって、中庭を通り越さねばならぬガゼボまでは遠く、途中で誰かに声をかけられる可能性が高い。
(ここでいいか)
小さなドアを開けると、その先は細く狭い廊下が続いていた。緩やかなカーブを描いたその廊下を、深い悲しみの中、ムイはふらふらと歩いていった。
(こんな風になっているんだ)
先へ進むと、そこにはまた小さな扉。豪華な城の装飾とは対照的な、質素で簡易なものだった。
そのドアを開けた途端、ムイは、あっと思った。
(すごい、)
目の前に広がるのは、大きなマニ湖の湖面。沈みかけている太陽の光が、その湖面をオレンジ色に照らしている。湖面に立つ小さな波がキラキラと輝いて、その光が時々、目を眩しく瞬かせる。魚でも跳ねているのだろうか、パシャっと小さな音が耳に届き、そしてその動きが、さらに水面を震わせ、ゆらゆらと揺らす。
(静かだな)
湖の向こうから吹く風も、優しいものだ。
ムイは、溜まっていた涙が、いつのまにか消えて無くなっていることに気がついた。涙が乾いて頬は引きつったが、ムイの中にあった悲しみはその素晴らしい風景が、癒してくれた。
(ここ、好きだな)
よく見ると、小さなバルコニーのようなものになっているが、古びた手すりなどに歴史を感じて、この城の歴代の領主がここでこっそりと、湖面を眺めて心を癒したのではないか、と思えてくる。
(リューン様もここに来ているのかも)
そう思うと、手作りのマドレーヌをごみ箱で見つけた悲しみも何処かに去った。
それ以来、ムイは時々、ここに足を運んでいる。
そして、今。
その古びた手すりに両肘をついて、リューンが湖面を眺めている。
(リューン様もやっぱりここにきていたんだ)
「お前はもう、この城のガイドでもできるくらいだな」
その広い背中が丸まっていて、いつもより小さく見えた。
ムイはエプロンのポケットから、封筒を取り出した。新しい便箋は、結局は買えなかった。今手にしているのは、以前にリューンから貰った花柄のものだった。
「ここからの景色は本当に美しい」
リューンが、ほう、と息をついた。
「母上と俺だけの秘密だったのだが……お前も仲間入りだ」
ムイは、その丸みを帯びた背中を見て、思った。
(どうしてこの人を怖いなどと思っていたのだろう)
ムイが初めてこの城に来た時、バラに枯れろと命令した背中と、同じ背中だというのに。
自分の想いは、その頃と全く違う。字を書くことができる今、ムイはもう自分の意思や気持ちを、こうして手紙に書いて伝えることさえできる。
その内容いかんでは、リューンを怒らせることもできるのだ。
(……そして、喜ばすことだって、)
「なんだ、それは」
気がついて顔を上げると、リューンがこちらを振り返って、見ていた。
ムイは、手にした封筒を差し出した。
(喜んでくれるのだろうか)
差し出された封筒を受け取ると、リューンは封を開け、中から便箋を取り出した。そして、四つ折りにされた便箋を開け、視線を這わせた。
(……喜んで欲しい。そして、それで良いぞと言って欲しい)
リューンのその表情は、逆光で薄暗く、よくは見えない。
(良かった、と言って……笑って欲しい)
けれど、すぐに。
ムイの胸は、短剣で刺し抜かれたような衝撃に襲われた。それは心臓が、鷲掴みにされるくらいの痛み。
(り、リューン様……)
リューンは、一通り読んだ手紙を、その場で破った。三度、繰り返し破ると、風に乗せて捨て去ってしまった。
(……笑って、……欲しかった)
びゅうっと吹く風に弄ばれながら、破かれた便箋はくるくると弧を描きながら、流されていく。
「字が、上手になったものだな」
そして、破かれた手紙はそのまま湖に落ち、水を吸って湖底へと沈んでいくのだろうか。ムイは空っぽになった心を持って、後ろ手にドアの取っ手を探した。