自覚する気持ち
「ムイ、ムイは大丈夫なのか」
アランが血相を変えて、ベッドへと寄ってくる。
「ムイ、すまなかった。俺がお前を城まで送っていけば……」
ムイは、ふるふると顔を横に振った。
(私が……勝手に走り出して迷ったんだからいけないの)
こんな時にでも、喋れないということは、本当にもどかしいものだと思う。育ての男の家では、主に家事や掃除、子守りなどをさせられていたが、そういった仕事に『声』は必要なかった。だから、喋りたい、話したいなどと思ったこともなかった。
(自分の思ったことを、相手に伝えたいと思うのは、初めてのことだ)
ムイは、思った。
(さっきも、リューン様の耳に、私の声が届いたらいいのに、って)
愛しい名前を呼ぶことが、どれほど重要で素晴らしいことなのかを、ここへ来て思い知ったのだ。
(愛しい?)
ムイは、改めて、アランを見た。
(私が、愛しいと思うのは……)
すると、アランの表情が一瞬にして、がらっと変わった。
「なんだ、これは……」
アランの視線が、自分の喉元に釘付けになっている。
(そういえば、青あざがあるって、)
思うが早いか、アランががっと立ち上がって、リューンを振り返った。
「あんたが、やったのか?」
リューンが、書棚に手を伸ばしている後ろ姿に、アランが低く声を掛けた。
「俺じゃない」
「ムイはあんたが連れ戻して来た。ムイがザイラの森で倒れていたところを、あんたが見つけたと聞いた。じゃあこれは一体、誰がやったと言うんだっ‼︎」
アランが、ゆらっと立ち上がった。そして直ぐに書棚の側に立つリューンに突進していった。
「くそっ、俺との結婚を決めたのは、あんただろうっ‼︎ それなのにどうして、ムイを殺そうとしたんだっ‼︎」
その言葉で、ムイはようやく理解した。アランは、リューンがムイの首を締めたのだと思っている。
アランがリューンの胸ぐらを掴んで、書棚に押しつける。リューンの背中が当たり、数冊の本がバサバサと落ちた。
「どうしてだっ、どうしてなんだっ‼︎」
ムイは、ぎょっとして、ベッドから飛び降りた。アランの背中に抱きつくと、後ろへと力一杯に引っ張った。
けれど、体躯の大きな男を、小さな少女がどうにかできるものでもない。それでもムイは、びくともしない背中を、リューンから引き剥がそうと必死になって食らいついた。
「ムイっ、離せっ」
「おい、乱暴するな」
リューンの控えめな声も混ざる。
(アラン、違うっ。これは、ザイラの森に惑わされて、私が自分で……)
心が叫んでいた。声が出ないという事実とその痛みを、完膚なきまでに思い知らされ、そして叩きつけられている。
ぐらぐらと揺れる背中。目をぎゅっと瞑り、腕にも力を込める。
「ムイっ‼︎」
アランの怒声が聞こえたかと思うと、アランがくるっと身体を翻し、そしてムイの身体を抱え上げた。
(あ、アランっ)
肩の上に担ぎ上げられ、そのままアランはベッドへと、ドカドカ床を鳴らしながら大股で歩いていく。
ベッドの上にムイを放り投げると、そのままムイに覆い被さった。
(え、なに?)
アランが唇を、ムイのそれに重ねてくる。唇が深く重なり、ムイは驚いた。跳ね除けようとする腕は、アランの両手で押さえつけられ動かない。
ムイには何が起こったのか、さっぱり理解できなかった。
けれど、身体が、頭が、心が悲鳴を上げて、全身で拒否している。
(アラン、やめてっ)
アランが一瞬、口を離した。けれど、顔の向きを横にずらして、再度口づけてくる。次にはもっと、深い繋がりだった。
(リュ、リューンさ、ま)
愛しいということを、こんな形で、知るなんて。
目を瞑ると、涙がぽろっと溢れた。
「……やめろ」
遠くで、声がした。さらに、口づけが深くなる。
「アラン、やめろ」
次には強さを持つ、命令。声は抑えているが、地を這うような低い声だった。
アランの唇と身体が離れていって、ムイはそろっと起き上がった。その拍子に、涙が頬を伝った。
見上げると、アランは立ち上がり、はあはあと肩で息をしている。
「……俺は、ムイの夫になるんだ」
「…………」
「ムイを愛してる。ムイと結婚するのは、俺だ」
「アラン、出ていけ」
「ムイは俺のものだ」
「アラン、出ていくんだ」
「俺のものだっ」
そう吐き捨てながら、リューンの命令に従い、アランは出ていった。
「ムイ、お前も部屋へ戻りなさい」
弱々しいのか、強い意思が込められているのか、判断のつかないリューンの言葉。
ムイがベッドの上で、呆然と座り込んでいると、リューンが背をつけていた書棚から離れ、ふらとデスクに手をついた。もう一方の手で、前髪を搔き上げる。
「そうか、お前には俺の命令は効かぬのだったな」
動かないムイを見ることもせず、「なら、俺が出ていこう」そう言って、リューンは部屋から出ていった。
ムイは、そのまま動けなかった。ぼんやりとした目で、書棚から落ちた本を見つめている。けれど、頭の中はクリアだった。
この時ムイは、自分の気持ちをはっきりと、理解していたのだった。