幻惑の森
「くっきりと手の跡がついてるな」
そっと触れた指先の体温を、首の辺りに感じる。
リューンの声で目を覚ますと、ムイは近づいて来たリューンの顔を見て、どきっと心臓を跳ね上げた。リューンの顔の位置からして、ベッドの横に置いた椅子に座っているようだ。
「ザイラは幻惑の森だ。幻で人々を誘う。これからは気をつけるのだぞ」
頷こうとするが、思うように動かない。その首の痛さに、ムイは顔をしかめた。
「ん、どうした? どこか、痛むか?」
リューンの顔が、心配そうに、さらに近づいてくる。
「熱でもあるのか、顔が真っ赤だぞ」
リューンも寝起きなのか、普段は上げている前髪が、いつもと違って額に下りている。リューンの顔をこのように近くでまじまじと見るのは、初めてだった。
ムイは恥ずかしくなって布団に潜り込んだ。すると、リューンがはあっと、細く息を吐いた。その溜め息に、慌てて顔を出す。
リューンは目を伏せ、優しさを帯びた声で「アランを呼ぶか」と問う。
驚いて、ムイは首を横に振った。
リューンはほっとした様子で、顔を離していった。
「そうだな、お前のその首の跡を見たら、きっと卒倒してしまうだろうな。お前の身体に、こんな青あざを作ってしまうとは」
けれど、突然、リューンは眉をひそめて言った。
「だが、どうしてこんなことになったのだ。この城を出て、何処かに行こうとしていたのかっ」
怒った声が、もう恐さを含んでいない。
ムイは、リューンを見た。初めて会った時は、あんなにも恐怖を感じたのに。粗相をしてしまうくらい、怖くて怖くて仕方がなかったというのに。
ムイがじっと見つめていると、リューンがさらに眉を吊り上げた。
「ムイ、お前は今、俺に怒られているのだぞ。なんだ、その顔は」
その言い方がなんだか可愛らしく、ムイはふふっと笑ってしまった。
「どうして、笑うのだ」
怒っていると主張はしているが、リューンの頬も口元も、やはりムイと同じように緩んでしまっている。
リューンは、ムイをじっと見つめて言った。
「もう一度、俺の名を呼んでくれないか」
ムイは軽く頷いてから、リューンさま、と唇を動かした。きっと、リューンは喜んでくれるし笑ってくれる、そう思って、ムイはリューンの反応を待った。
けれどリューンは、ムイの唇の動きを見ると眉をハの字に下げて、もう一度呼んでくれ、そう言って耳を近づけてくる。
(声は、出ない。聞こえない、のに)
ムイはそう思ったが、リューンの耳に向かって、リューンさまと口を動かす。
リューンの耳に、ムイの唇が触れた。
ごくっと唾を飲んだ音とともに、リューンが背けていた顔をゆっくりと戻した。そして、そのままお互いの顔が急接近して、ムイの心臓は止まりそうになった。
その瞳。リューンの、黒く澄んだ瞳。漆黒の瞳が、ムイをじっと見つめる。いつのまにか、ムイも見つめ返していた。
(リューン様)
リューンの瞳に吸い込まれそうになった時。
ガタっと、リューンが急に立ち上がった。
「……もう少し、眠ったほうがいい」
書棚の方へと足を向け、さっさと行ってしまう。その背中を見て、ムイは寂しさを覚えた。
(もう少しだけ、側にいて欲しかった)
その時、バタンっとドアが勢い良く開け放たれた。