死へと誘う
「何をしているんだっっ」
「ムイ、いい加減に上がっておいでって」
「こんな寒空の中、病気になっちまうよぉー」
バタバタと廊下を走る足音。そして遠くから聞こえてくる叫び声に、リューンは何事かと様子を見に裏庭へと出た。
(あれは……)
中庭へと続く向こう側の小道から、アランが血相を変えて走っていくのが見えた。その慌てようで、ムイに何かあったのだとわかり、リューンも足を進めた。
(なんだ、何があった?)
蓮の畑の周りで、マリアやユリたちが人垣を作り、うろうろとしている。
その中へとアランが分け入っていく。男らしく通った声で、叫んだ。
「ムイっ、何をしてるっ。早く上がってくるんだ」
そうだそうだと、口々に声が上がる。
リューンは、心配そうに右往左往しているユリの肩に手を添えて横へ押すと、前へと進み出た。
ぎくりとした。
ムイが泥水の中。
座り込んでしきりに手を動かしている。
ほぼ胸まで浸かった泥水でムイの白いはずのワンピースがまるでドブネズミのようだ。
歪んだ顔にも泥が飛び、今にも倒れそうなくらいに身体は左右にぐらぐらと揺れていた。
「む、ムイ……」
その唇。
真っ青だ。
その顔色に、リューンの心臓が跳ね上がった。
脳裏に浮かんでくるもの。
それは父親が亡くなりこのリンデンバウムの城と領地を継いで領主となってから数年後、最愛の母親までもが病で亡くなった時の姿。
「リューン、人の嫌がるようなことに、この力を決して使わないこと」
愛する母親の横たわる姿。震える唇は、血の気が失せ、紫色に変色していた。
「私、あなたを置いていってしまうのね。許して、リューン。あなたに、神のご加護を……」
死ぬ間際まで、息子の行く末を心配していた母。そんな母の、死に際の唇。ムイの唇は今、それと同じ色だ。
さあっと血の気が引いた。リューンの背中に、ぞわりと何かが這っていった。
「ムイっ、ムイっっ‼︎」
リューンは、人垣を掻き分けて、畑へと飛び入った。泥に足を取られ身体はぐらつくが、踏みしめるように足を前に前にと出す。
「ムイ、ムイ」
ムイの顔が、みるみる青白くなっていく。
着ている服が泥水を吸って重みを増していったが、リューンは一心不乱にムイへと手を伸ばした。
顔面蒼白で、今にも気を失いそうなムイを抱え上げると、泥水の中から引き揚げる。リューンやムイが歩き回ったため、蓮が花もろともなぎ倒されて、あちこちに無惨に浮かんでいる。そんな中、リューンは呆然と、ムイを抱いていた。
「ムイ、ムイ、なんてことを」
リューンは泣きたい気持ちになった。父母だけでなく、まさかムイまで失うことになってしまうなどと。
「助けてくれ、誰か……」
アランが同じように飛び込んできて、一緒にムイを引き揚げる。
「リューン様! 早く! 風呂場にムイを運んでください!」
ローウェンの叫び声で、リューンは正気を取り戻した。
アランとムイを畑から引き揚げると、リューンはムイを背中に担ぎ上げて、風呂場へと向かった。
サラがそこへ飛び出してきて、ムイ、ムイと、すがるようにして、名前を呼んでいた。けれど、リューンはそれには構わず、一心に風呂場へと向かった。
開け放たれているドアから入り、湯気が立つ風呂へと飛び込んだ。湯の温度で、冷えた身体が悲鳴をあげるほどに体温を上げていく。
「ムイ、ムイっ」
湯の中で軽くなったムイの身体を抱え直すと、ムイの顔についた泥を湯で拭う。
「ムイ、大丈夫か? 温かいか? もう、寒くはないだろう?」
あまりに弱々しい声が出て、自分でも愕然とする。
ゆらゆらと湯の中で揺れるムイの細い両腕。細いとは言っても、初めてここに連れられてきた時よりは、ふっくらと丸みを帯びている。
「ムイ、お前がここに来た時も、こうやって一緒に風呂に入ったな」
涙が流れていることに、リューンはまだ気づかない。透明な湯が、一気に灰色へと変色していくのにも、目には入らない。
ただただ、リューンの瞳には、ムイの安らいだ顔。
「ムイ、死なないでくれ。お願いだ、」
喉の奥から盛り上がってきて、言葉は嗚咽へと変わった。
リューンはムイを抱きしめた。ムイの頬に、リューンの頬が触れる。冷たかったその温度は、次第に温かくなってきたような気がしたが、リューンはムイをいつまでも離さなかった。