手紙
「なんだこれは」
デスクの足元に白い紙が落ちている。メモか何かが落ちたかと思いながら拾い上げると、リューンは何の気なしに紙をデスクの上に放った。
けれど、紙は自分がいつも使っているメモ帳のものではない。
そのことに気がつくと、放った紙を手に取り、まじまじと見てみた。
ノートの端でも破ったようなギザギザの跡がある。
「ローウェンのものか?」
開けると、中には辿々しい文字が書かれていた。
『親愛なる、リューン様』
どっ、と胸が鳴った。今までにムイの字を目にしたことはほとんどなかったが、それがすぐにもムイの字ではないかと、リューンは思った。
「む、ムイが書いてくれたのか?」
そんなはずはないと信じられない気持ちもあったが、そうであって欲しいという願望がまさった。
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『きれいなかみかざり、あたたかいブランケット、おいしいチョコレートをくださって、感謝いたします』
「ムイからだ……あのチョコレートを食べたのか?」
ローウェンから、ムイが手紙を書きたいと望んでいることは聞いていた。それがアラン宛ではなく、自分宛に来たと思うだけで、胸が一杯になる。しかも、口にしてはくれないだろうと思っていたチョコレートも。
「ムイ、」
自然と、ムイの名前が口から出た。
手紙を持つ手が微かにふるりと震える。
『感謝のきもちをこめて、マドレーヌをつくりました。お口に合うかどうかはわかりませんが、召し上がってください。ムイより』
リューンは口元を手で押さえた。
「なんということだ、字も……とても上手に書けているじゃないか」
リューンは、デスクの上をきょろきょろと見た。マドレーヌはどこにあるのだろうか。手紙が落ちていた床も机の上も、丁寧に探してみる。
「どこにあるのだ、そのムイが作ったというマドレーヌは?」
二、三回りしながら探して見つけ出せなかったリューンは、部屋から飛び出して、廊下を大股でのしのしと歩き進めた。その廊下の突き当たりにムイを見つけると、リューンは歩を先に先にと進めた。
「ムイっ」
声をかけると、ムイが振り向いた。
「ムイ、こ、これを」
手紙を握りしめた右手を軽く上げ、振る。そうしているうちに、ムイの前に辿り着いた。
「お、お前が書いたのだろう」
ムイが、俯く。
「マドレーヌを作ってくれたのか。それは、どこにあるのだ」
高揚してくる気持ちを押さえて、リューンは問うた。ムイが、俯いたまま、悲しそうな顔を浮かべている。けれど、嬉しさのあまり、リューンはムイの様子に気がつかなかった。
「マドレーヌは、どこだと訊いているのだ」
少し。
自分の上ずった声に気づき、羞恥を覚えた。照れ隠しのように目線を下げると、ムイのエプロンのポケットが膨らんでいることに気づく。ビニールの先っぽが見えて、リューンは覗き込んだ。
「これか?」
エプロンに手を伸ばす。
ムイは、ポケットを咄嗟に押さえると、二三歩、後ずさった。踵がごみ箱に当たって、ガンっと音がした。
「ムイ、それではないのか?」
リューンがさらに、手を伸ばそうとして、ムイの身体がびくっと左右に揺れた。
「ムイ、」
ここでようやく、リューンはムイの様子がおかしいことに気がついたのだ。
(お、俺が……怖いのか、だから……机に置いておいたのか? いや、置いてなかった。手紙を書いたはいいが、やはり途中で嫌になってやめたのだろう)
ぐるぐると考えを巡らせれば巡らせるほど、鬱々と気持ちは暗くなっていく。
けれどもう、ムイを悲しませたり、怯えさせたりはしたくないと強く思っていた。
「いいんだ、気にしなくていい。そうだな、この手紙も返そう」
手に持っていた紙を、そろりと差し出す。
ムイが、震える手でそれを取ろうとした時。
「す、すまない。やはり、これは……」
リューンが声を絞り出す。
「これだけは、貰ってもいいか?」
手紙の手を少しだけ、引っ込める。すると、ムイも手を引っ込めて、俯いた。その拍子に、ムイの目から涙がぽろっと溢れ落ちた。
リューンは、その瞳を見ていた。ムイの目は、薄っすらとグレーに縁取られた薄緑だ。その瞳が涙でぼやけ、けれど光をたたえる宝石のように美しく、リューンには思えた。
「ありがとう」
素直な言葉が出た。
(きっと一生、この手紙を大事にする)
リューンは踵を返すと、廊下を歩いた。握った手紙を手に包んだまま心臓に当てる。
部屋に入ると、ベッドに転がりながら、手紙を何度も何度も指でなぞった。
「恋文。とは違うが、相手の気持ちがわかるということは、こんなにも嬉しいものなのだな」
はは、と力なく笑う。
リューンの目尻に涙が薄っすらと滲んだ。