捨てられたマドレーヌ
(あれ? これって……)
二階の廊下の突き当たる場所に、箱が置いてある。それは、一見してごみ箱とは分からないように、かなり豪華な装飾が施してあるのだが、れっきとしたごみ箱で、そこを通る際はごみが溜まっていないかを確認するのが、侍女の仕事の一つでもあった。
その中に見覚えのあるビニール袋。
手を伸ばして取った。
透明なビニール袋の中には、マドレーヌが三つ、ぎゅっと詰められていた。
(……マドレーヌ)
ムイはそれを持ったまま、その場で呆然としてしまった。けれど、そのうち悲しみがじわりと湧いてきて、鼻が痛みを帯びた。
じわりと滲んでくる涙。
ムイはそのビニール袋を、エプロンのポケットに入れると、こぼれそうな涙を手の甲で拭った。
(バカみたい。こんなもの、リューン様のお口に合うわけがない)
ごみ箱の前。少しの時間、動けなかった。
洗濯係から料理室の後片付けの係に戻り、マリアやソルベとも関係を修復したムイは、フィナンシェ係のトマスにマドレーヌの作り方を教わった。
「なんだ、誰かにくれてやるのか?」
口が悪く面倒くさいことを嫌う年配のトマスが、マドレーヌのレシピと作り方を一から教えてくれるという。ムイがよほど気に入られているという証拠であった。
「トマスが、えらいふんぞり返って教えてら」
うははは、と厨房に他の調理人の笑い声が鳴って、ムイも嬉しそうに笑った。その笑いの続きで、マリアがからかうような口調で言う。
「アランに食べさせてやるんだろ?」
「ムイ、お前もうアランの女房気取りかっ」
ソルベも声を上げる。その拍子にまた、笑いが起こった。
ムイは苦笑し、マドレーヌの型に生地を流し込みながら、顔を横に振った。
「え、アランにやるのと違うのかい?」
ムイが、こくっと顎を打つ。その、ムイの紅潮した様子を見て、勘のいいマリアがそろそろと訊いた。
「ムイ。お前、まさか、……リューン様に?」
ムイが再度、頷く。
厨房が、しんっと静まり返って、妙な感じの空気と沈黙が流れていった。
そんな空気感に気づきはしたが、ムイは唇を引き結んで、作業を黙々とこなし、出来上がったマドレーヌを袋に詰めた。
「ムイ、これ」
マリアの右手には、水色のリボン。可愛らしいリボンを手にして、ムイは喜んだ。
ありがとう、の意を表情で伝える。そのリボンで、袋を結ぶ。
早くリューンに渡したいと思う。急いた足取りで階段を駆ける。豪華なドアをノックすると、返事はなかった。
この昼下がりの時間、天気が良い日はリューンは決まって、中庭へと散歩に出る。そのことに気がついて、ムイはくるっと踵を返すと、後で渡そうと思い直し、ドアから離れようとした。
(あ、でも、置いておけばいいんだ)
名案のように思えて、嬉しさが込み上げてくる。ムイはドアから、少しだけ警戒しながらリューンの執務室へと入り、デスクの上にマドレーヌを置いた。堂々と真ん中に置けばいいが、遠慮の気持ちからか、デスクの端に置く。味はトマスのお墨付きがあるので、間違いはない。
(リボンも可愛く結べたし、喜んでもらえるといいな)
チョコレートや髪飾り、そしてブランケット。リューンは、ムイが喜ぶものを、用意してくれていた。そのお礼にと作ったマドレーヌ。
感謝の気持ちを伝えたい。そして。
(リューン様にも喜んでもらいたい)
もう一度、マドレーヌを置き直す。ドキドキと胸の高鳴りを落ちつけようと深呼吸し、いたずらっ子のようにこっそりと部屋を出た。高鳴る胸と高揚感をそこに置いたまま、その場を離れたのだった。
それが、どうして。こんなことに?
ごみ箱から拾い上げた、リューンへのプレゼント。捨てられたのだと分かっていても、その事実をなかなか認めることができないくらい、ショックを受けていた。
悲しみが次から次へと湧いてきて、ムイはどうしてこうなったのかを考えた。
(……美味しくなかったのかな)
エプロンのポケットを覗き込む。リボンは変わらず、結ばれたままだ。
(ううん、手もつけていない。きっと、)
俯くと、涙が溢れそうになり、ムイは天井を仰いだ。
(私なんかが作ったものなんて、口にしたくないんだ)
絶望的な気持ちになり、ムイはしばらくの間、上を向いたまま天井を見つめていた。