拾ったものは
トントンとノックがした。
リューンはいつもそうするように、ぶっきらぼうに「入れ」と言った。
書類の整理はいつも、終わりを迎えることがない。領地を治めるための権利者や契約書。新しく追加された書類にサインを終えると、次には過去の書類を引っ張り出して、必要なものに目を通す。
なかなか開かないドアを横目で見ながら、リューンはもう一度、「入れと言っている」と強く言葉を投げた。
すると、ぎぎっと軽く音を立てて、ドアは開かれた。
リューンが怪訝な目を向けていると、その大きなドアの陰から、ムイがそっと中を覗いている。
「む、ムイっ」
驚いて、立ち上がった。その拍子に椅子がガタンと音を立てた。いつもなら、あのローウェンでさえ、ムイにはよく逃げられていたというのに。今、そんなムイが目の前にいる。
リューンはどうしていいか途方に暮れて、立ち上がってはみたものの、すぐに椅子に座って、慌てて書類に視線を向けた。
挙動不審な自覚がある。
「な、何の用だ」
ぶっきらぼうな言い方になり、しまったと心で舌打ちする。
(こんな風ではだめだ、だめだ。また怖がらせてしまうではないか。もっと丁寧に優しく、優しく、)
頭の中は、スプーンでぐるぐるとかき混ぜられているスープみたいに混乱している。
「な、何の用だ、と訊いているっ」
そう言い放ってから、気がついた。喋ることのできないムイなのだから、返事がないのは当たり前だ。あまりの馬鹿さ加減に、自分を自分で殴りたくなる。
ドアの陰で、縮こまっているムイの姿。リューンは焦ってしまった。
「あ、いや、そうじゃない」
再度、立ち上がる。心を決め、デスクを避けて、ドアの方へと進んでいく。ムイがさらにその身を小さくしたのが手に取るようにわかり、あまり近づかないように距離を置いて立ち止まる。
すると、そんなムイが、何かを大事そうに抱えていることに気がついた。
「それは、なんだ?」
ムイがぐいっと差し出してくるのを受け取った。自分の上着だ。
「ああ、これは。……あの時、落としたのだな。今の今まで、気づかなかった」
リューンはあのガゼボのことを思い出した。仲良く並ぶ、ムイとアランの姿。蚊帳の外の自分が哀れに思われて足早に引き返したあのバラ園で、この上着を落としたのだろう。しかもそれに気がつかないとは。
「……お前が拾ってくれたのか、」
アランと別れて、ガゼボから帰る時に、バラ園を通り拾ったのだろう。
「……ありがとう」
ムイが、頷く。小さな唇がきゅっと引き締められている。女性にしては少し太めの眉。小ぶりな鼻、薄緑の瞳。そして。
頬の怪我が随分と良くなったことに気がついた。
「頬の怪我は、ずいぶんと良くなったようだ」
知らぬうちに、指先がムイの頬に触れていた。ひどく切れていた唇も、かさぶたがついていて、少し盛り上がっている。
「まだ、唇は痛むか」
そこをすうっと指で撫でると、ムイの身体がびくっと動いた。さっと指先を引いた。
「す、すまない。痛かったか?」
ムイは俯いていて、その表情はよく見えない。けれど、その流れで、リューンはムイに謝まらなくては、と思い立った。
「ムイ、その、……こ、この前はすまなかった。お前には、辛い思いをさせてしまったな。か、髪飾りはもうお前の物だから、そのまま持っていていい」
ムイが驚いたような顔をしてから、すぐにも素直にこくっと頷いた。その白い頬に沿って、黒髪がさら、さらと流れた。
心臓が鳴った。ぶわりと身体の奥底から、湧き上がってくる、感情。リューンの中を、「愛しさ」が、溢れ満たしていく。
「ムイ、」
名前を呼ぶと、さらに愛しさが増した。
「……ムイ」
ムイはアランを愛しているのだ。そう自分に言い聞かせて、自制しようとした。
けれど。
受け取った上着が、ぱさっと床に落ち、気がつくと、両手でムイの頬を包んでいた。