忘れてしまえ
サラという侍女は、リューンがまだ若い頃、若気の至りということもあって、適当に遊んでいた女だった。
リューンは遊びのつもりだったが、対してサラはリューンに本気になっていく。それが疎ましくなって洗濯係へと飛ばしたという経緯があった。
それからは、あまり顔を合わせていない。洗濯係とは、このように人目につかない仕事であることもあり、左遷という別の意味もあるのだ。
サラがきっと、自分との噂をあることないことムイに話すだろうと思うと、どんと落ち込み気が重くなる。
「ローウェンのやつ、わざと……くそっ」
こうしていつまでも、ムイの残像の残るバラ園を眺めていても、気分が滅入るばかりで、一向に気も晴れない。
リューンは上着を背中に羽織ったまま、部屋を出た。そして、バラ園を横切り、芝生の広場へと歩く。
ムイに会ったところで、甘い顔は決して見せてはくれない。もちろん笑顔など、自分には一生、見せてはくれないだろう。それどころか、自分を前にすればきっと、恐ろしさから震え、唇を噛み、涙すら流すのかもしれない。
(嫌われていると考えるだけで、これほどに辛く苦しくなるとは)
リューンは、胸が絞られるように痛みに、思わず顔を歪めた。
(けれど、さっきのように、遠くから見るだけでもいい)
会いたい。
「ムイに、会いたい」
迷う足を運んで、ようやく芝生の感触に辿り着く。遠くからガゼボを臨める場所へ来て、さっそく後悔した。
ガゼボには、ムイの黒髪と、ムイより頭二つ高いウェーブのかかった栗色の髪。
呆然としてしまった。空っぽの心を抱えて、二人を見ていた。
リューンは、すぐにもその場を離れて引き返したかった。ムイとアランが仲良く並ぶ姿なんて見たくはなかった。
アランが顔を寄せてしきりにムイに話しかけている。頭の角度から、ムイはきっと、恥ずかしそうに俯いて、そして。
(きっと……笑っているのだろうな)
動けなかった。足も腕も身体も言うことをきかない。そして、心も。
(ああ、お似合いだ)
アランならムイと歳も近いし、何よりアランは性格も良く、真っ直ぐで気持ちのすく好青年だ。
(そうだ、結婚でもなんでもすればいいのだ)
そう思った途端に、足がようやく動いてくれた。
(洗濯係なら、俺の目に触れることもないし、会うこともない。ローウェンが正しいのだ。これで、良い)
踵を返すと、バラ園を目指して、ずんずんと歩いていく。
(これで良い。顔を合わせなければ、すぐに忘れられる。そうだ、忘れてしまえばいい。全部、無かったことにして、)
バラの蔓に右手をぐいっと取られた。痛みで我に返る。見ると、右手の甲に引っかき傷ができていて、薄っすらと血が滲む。
「ムイに負わせた怪我に比べれば、これくらい、」
口元へと持ってきて、ぺろっと舐めた。
「どうってことない。そうだ、どうってことはないんだ。忘れてしまえば良い。忘れてしまえば、辛くなくなるはずだ」
血の味が、舌に広がっていった。