秘める
(アランの差し入れは、手をつけてあるのだな)
ほとんど空になったビンとスプーンが置きっぱなしだ。
ふ、と苦笑する。
(ローウェンは、こういうところには、気が利かぬ)
執事としては完璧なローウェンだが、色恋沙汰にはとんと無遠慮で無頓着、機微の欠片もないという。
つと、ビンの隣に置いてあるチョコレートの小箱の蓋を開けようとして、躊躇した。手が止まる。
(こんな些細なことが、怖いと思うとはな)
ローウェンのことを笑えないと、自分の愚かさにも失笑を重ねた。
昨日、何か食べるものをと思い、城の外へと出た。城のすぐ側に店を構えている未亡人のミリアの店を思い出し、ふらっと近づいた。
「あらあ、領主さまあ、リューンさまですよねえ」
店の中から声を掛けられ、リューンは引き寄せられるようにして、中へ入った。
「久しぶりだな」
迂闊に名前は呼ばないように気をつけている。
握り込む名前は、生まれた時に授けられた真の名前で、姓と名の両方と決まっているので、ミリアと名だけを呼んだだけでは、支配することもない。
この城以外の住人で「名前を握る領主」を恐れないのは、それを分かっていて、長年の付き合いでもあるミリアくらいだろう。
「珍しいこともあるもんだねえ。買い物ってことも、ないだろうし」
「いや、その……買い物だ」
鼻の頭を指先で掻く。
「あらあら、その様子じゃあ、好きな子へのプレゼントって感じですね」
わははと豪快に笑って、ミリアが言った。
「いや、そういうんじゃないんだ。ただ、唇と口の中を怪我をしている者がいて……何か、食べやすいものを、と」
「だからって、リューンさまがわざわざ?」
「ああ、ローウェンも忙しそうだったからな」
「そういうことにしておきましょう」
ミリアが笑って、手元の棚を探る。
「そうだなあ、これなんかどうでしょうか?」
それは、綺麗な小箱に入ったチョコレートだった。
「これなら口に入れやすいし、傷があってもしみないから食べやすいんじゃないかな」
「そうだな」
手に取ると、ムイがチョコレートを食べている姿を想像することができた。
「ごはん食べられなくて、体力も落ちてるでしょ」
「あ、ああ」
「チョコレートなら栄養価も高いし、糖分もあるから、元気出ると思うよ」
買い物などはここ何年かはなかったが、気さくに話してくれるミリアの人柄にも助けられ、代金を払い買ってきた。
(俺のものは、口にしてはくれないだろう)
箱の蓋を開けなくとも、それは分かっていたはずだ。
髪飾りを、自分があげたのだと名乗り出ない自分にも、きっと落胆している。
(いや、落胆なんてものじゃない。怒っているだろうし……恨んでいるのだろうな)
小箱の蓋をそっと指で撫でる。
(俺は、嫌われている)
嫌われている。
認めたくはなかった気持ち。けれど、今回の事件ではそれは浮き彫りとなり、自分自身、もう認めざるを得なかった。
(嫌われている。恐れられているのだ)
ベッドに近づくと、すうすうと寝息を立てて眠っているムイを見る。
(お前は……アランのような優しい男が、好きなんだろうな)
そう思った瞬間、心が冷えていくような気がして、胸が絞られた。
(当たり前だ、俺はお前に酷いことばかり……けれど、)
「……俺を、嫌わないで欲しい」
いつの間に。
そう声に出ていて、自分でもぎょっとした。
踵を返して、慌てて部屋を出る。ドアの前で、高鳴った胸を鎮めるようにして、深く息を吸った。
(なんてことだ、俺はムイに惚れているのか?)
手で口元を覆うと、少しだけ気持ちが落ち着いたような気になる。
けれど、もう……。
(……そうだ。認めたところで、何になる。ムイとはもう、こんなにも絶望的な関係だというのに……俺という人間は本当に……本当に滑稽だな)
ドアに背をもたせかけて両手で顔を覆うと、さらに自分が情けなくなった。