その微かな香り
「チョコレートは食べられるか?」
リューンのベッドの上で身体を起こすと、ベッドの横からリューンがおずおずと箱を差し出してくる。中を見ると、規則正しく並べられた、真っ黒なもの。ふわりと甘い香りがしてきたが、今までに見たことも食べたこともないものだった。
ローウェンが奥で、タオルを絞っている音がする。
「唇が腫れているから、こういうものの方が食べやすいのではないかと、」
ムイは、顔を横に振った。
「……そうか」
リューンはすぐにベッドを離れ、サイドテーブルに小箱を置くと、部屋から出ていった。
入れ替わるようにローウェンが近づいてくる。
「もう少し、寝ていなさい」
横にならされて、タオルを頬の上に置く。
「まだ少し腫れているので安静にしていてください。他に痛いところはありませんか?」
その問いに答えたのは、ムイのお腹だった。ぐう、と鳴ったのを聞いて、ローウェンが言った。
「お腹が空いているなら、チョコレートをいただけば良かったんですよ」
少しだけ意地の悪いニュアンスが含まれている。
「アランが持ってきてくれたアロエの果肉でも食べますか?」
その言葉でムイがタオルをどかして顔をもたげると、ローウェンは呆れたように、はあっと大きく溜め息を吐いた。
「まったく、」
言いながら、サイドテーブルの上に置いてあった、ビンとスプーンを持ってくる。ムイは身体を起こし、それを受け取った。
「リューン様のベッドを汚さないように」
ビンには透明の果肉。それを掬うと口の中にそっと入れた。唇は痛むが、舌の上を滑る冷たい感触が美味しい。蜂蜜に漬けてあり、その甘さが身体に染み渡っていく。
「美味しいですか?」
ムイが頷くと、ローウェンはベッドの横に置いてある椅子に腰かけた。
「……どうして、髪飾りを手離さなかったのですか」
その言葉に反応し、ムイは顔を上げた。慌ててスプーンをビンに放り込むと、胸に手をあてがい、小袋の行方を探す。
首にかけていたものがない。涙がぽろっと溢れた。
そんな様子を見て、ローウェンはポケットを探りながら言った。
「ムイ、髪飾りならここにありますよ」
差し出された手の上には、革製の小袋。膨らんでいるところを見ると、中身は入っているようだ。
ムイは慌てて、手を伸ばした。
けれど、ローウェンはすぐに引っ込めて、待ちなさい、と言う。
「マリアに渡そうと思わなかったのですか?」
ムイが目を伏せる。その瞬間に、再度ぽろっと涙。
「マリアはこれを、リューン様に見つからないうちに、母上様がお使いだった寝室に戻しておこうと、考えたようです」
ムイは、はっとして顔を上げた。
「それが、あのような大ごとに……ソルベが、手を上げてしまったことを酷く後悔していました」
ローウェンが淡々と続ける。
「ムイ、お前が意地を張らずにマリアに手渡していれば、こんなことにはなりませんでした。いえ、それより何より、お前がきちんと勉学に励み、喋れないなりにも字を書くことができたら、このような行き違いもなかったのでは?」
ムイは、ビンを握りしめた。今回のことで、自分でも痛感したことを、ローウェンに指摘された形だ。
(字さえ書ければ、気持ちを伝えることだってできたはずなのに。名前を知られたくなくて、書けない方が良いのではと思って、字を習うことを避けていた)
ローウェンが枕元にぽんっと、皮の小袋を投げる。
「リューン様に貰ったとは、決して言わないように」
ローウェンはビンとスプーンをムイの手から取り上げると、サイドテーブルの上に置いて、代わりにいつも使っている絵本を枕元に置いた。
「それと、これからはきちんと学ぶように」
そう言って部屋から出ていき、ムイは一人になった。
(リューン様に貰ったことは、内緒にしなければならないんだ。じゃあ……)
ムイは小袋を取り上げ、そのまま首から下げた。
なぜ、手離さなかったのかと、ローウェンは訊いた。
嬉しかったのだ。嬉しくて嬉しくて、仕方がなかったのだ。
この花の髪飾りのように高価で美しいものを、今までに一度たりとも目にしたことがなかった。
それを贈られることの喜び。
布団を引っ張り上げて、横になる。
(やっぱり、……私が盗んだってことに)
じわっと目尻が熱くなる。悔しいのか、苦しいのか、辛いのか。
これ以上泣きたくなくて目を瞑る。と、途端に鼻が効いてきた。
なぜか、どこかから懐かしい匂いがしてきて、ムイは不思議に思った。
(なんだろ、この香り)
すんすんと、二度吸ってみる。けれど、何の匂いかは思い出せなかった。そして、その内にまた、眠ってしまった。