すれ違い
「ムイ、食べられるか?」
気がつくとリューンが傍にいて、何かの皿のようなものを持って立っている。
少し驚き、びくりとしたが、顔が痛くて痛くて、そして身体中が痛いのも相まって、そのまま目を閉じてしまった。
すると、リューンが息を細く吐くのが聞こえてきて、無視したことを少しだけ悪かったかも、と思った。
けれど、それどころではない。
目を瞑ると、マリアの顔が浮かんでくる。
あんなにも激怒したマリアやソルベを見たことがなかった。
(私が……盗んだと思っている)
あの花の髪飾りが、マリアの怒声で、リューンの母親の物だと知った。
それは、夕食の下ごしらえを進めていた時のことだった。
「なんだい、これは?」
首にかけていた紐がちらっと見えたのか、マリアが背後から声を掛けてきた。慌てて胸元を押さえる。
ムイが頬を染めたのを見て、
「なんだアランにプレゼントでも貰ったのか?」とソルベがからかう。
調理場からガチャンガチャンと大鍋を振るう音。料理長のソルベを筆頭に、料理人たちが夕食の下準備で切った野菜を炒めている。
その料理人が手を止めることなく、次々にムイに声を掛けていく。
「アランは良い男だぞ。俺が保証する」
「庭師としての腕もあがってきたようだ」
最近ではアランが料理室にまで顔をのぞかせムイに挨拶をしていくので、ソルベだけでなく、他の料理人にまでもからかわれるようになっていた。
(アラン、なのかなあ)
いつか機会があれば、アランに訊いてみたいと思っていたものを、ずっとその機会を逃している。ムイは胸にかけた皮の小袋を握った。
マリアが笑いながら言う。
「やっぱりアランからなんだね。見せてみなよ、何を貰ったんだ?」
ムイは磨いていたグラスを置くと、おずおずと中から花の髪飾りを出し、マリアに差し出した。
途端に、マリアの顔が先ほどのニコニコとした笑顔からは程遠い、厳しい表情へと変化していく。
「あ、あんた、それ……リューン様の、」
「なんだ、何を貰ったんだ?」
さすがに料理人たちは、ピンと来なかったようで、綺麗だの、アランのやつ奮発したなだの、言い合っている。
ムイが気になったのは、マリアの様子だ。見る見るうちに、険しい顔となり、身体をぶるぶると震えさせていった。
机を拭いていた布巾が、ぽとんと床に落ちたのにも気づいていない。
「あんた、……なんてことを。なんという大それたことを」
震えた声は、そのまま怒りの声へ。
「これは、……これはリューン様のお母様が身につけていたものだよっ‼︎」
その一言。世界ががらっと変わった。
料理人や給仕の者たち、男女ともに一瞬ざわっとしたかと思うと、次には驚きや怒りや焦りが入り乱れて、いつもは明るい料理室の中を混沌とさせた。
「マリア、それは本当かっ」
「ムイ、お前、なんてことをしたんだ」
「まさか、でもムイが……」
自分が置かれている立場がようやく理解できて、ムイは頭を振った。
(違う、これは盗んだんじゃない。私が貰ったもので、)
「ムイ、早くそれを寄越すんだよ」
マリアがいつもは優しく温かい、ふっくらとした手を伸ばしてくる。
(じゃあ、これをくださったのは……リューン様?)
「早く、渡しなさいっっ」
(でもこれは、私がいただいたもの)
そんな気持ちが態度に出たのだろう、マリアがさらに声を荒げた。
「ムイっっ」
髪飾りを握っていた手を引っ張られた。
ムイは力一杯、頭を横に振り続けた。手のひらに、髪飾りが食い込んでいるのだろう、鋭い痛みがある。
けれど、手は離さなかった。離さなかったのだ。
「マリア、落ち着け‼︎」
「やめろ、やめるんだ」
「ムイ、それを返すんだ!」
その時。
それらの声を突き破って「ムイっ、この恩知らずがぁっっっ」とソルベの太い声と、バシンという鈍い音が響き渡った。
ムイは頬を叩かれて、よろっと体勢を崩すと、調理台に掛けてあったタオルを掴みながら、床に倒れた。その拍子で、タオルに乗せてあった数枚の皿があちこちで割れて散った。
目の前がチカチカとしたかと思うと、次第に意識が遠くなっていく。
(マリアが、まだ怒っている)
そう思ったのが最後、そのまま眠るように意識を失くしてしまったのだった。
そして抱き起こされて、少しだけ意識が戻った時。
薄っすらと開けた目に、ローウェンとリューンの姿が飛び込んできた。
けれど、頭が割れるように痛く、指の一本すら、動かない。
(あの綺麗な髪飾りを、この人がくれた)
リューンの呆然と立ち尽くす姿が、ぼんやりと浮かぶ。ムイは、リューンがその場でこれが自分が盗んだものではない、と言ってくれるのだと思った。
(きっと、リューン様が誤解を解いてくれる)
だが、淡い期待は、マリアの叫び声で再び、掻き消された。
「も、申し訳ありません、リューン様。あああ、リューン様の、ご、恩を、、仇で返すようなことを……」
ああ。そうか。
(私のような汚いものに、プレゼントを贈ったと思われたくない、んだ)
そう思うとなぜか、胸が激しく痛んだ。苦しかった。
きっと涙も流れていたのだと思う。大声を上げて泣きたかったが、そのうち誰かに抱き上げられて、そしてまた意識が遠のいた。
(ああ、気持ちいい)
ベッドシーツの冷んやりとした滑らかな肌触りが、全身を覆う。静寂が戻って、ムイはようやく安堵した。
頬に濡れたタオルをあてがわれたのか、目の上にも冷たさを感じる。
(このまま、もう眠ろう)
すぐに眠気がきて、何もかもが真っ暗闇になっていく。
その時、耳に入り込んできた声。涙声のようで、弱々しい。
何を言っているかは聞き取れなかったが、髪を撫でられたのは覚えていた。