滴る、血
ムイの居場所が分かってしまった。
リューンはローウェンに言うか言わまいかを迷うようになっていた。きっとあのガゼボは、ムイがほっとできる数少ない居場所なのではないか、そう考えたからだ。
「はあああ、悩みのタネが次から次へと……今朝のことでも、」
デスクの前で頭を垂らすと、もやもやとしたものが口から出てくるようだった。
それと同時に、今朝あった事件を思い出すと、怒りが沸々と湧き上がってくる。
「くそっ、思い出してしまったじゃないか」
ようやく、怒りも収まったというのに、
だ。
今朝、リューンは朝食の後、忘れ物をしたフリをして、食堂へと戻ってみたのだ。自分が贈った髪飾りを挿したムイを見てみたいと思ったからだ。
食堂に入る。
そこでムイが食器の後片付けをしているのを見つけ、皿を重ねているムイに声を掛けた。
「ムイ」
ただ、そう名前を呼んだだけのことだ。
だが、ムイは身体をビクッと跳ね上がらせ振り向くと、あろうことか、その手に重ねていた皿をすべて滑り落としてしまったのだ。
「あ、」
ムイの足元で、バリンバリンっと白い皿の相当数が割れ、破片が床に散らばった。それなのにムイは飛び退くどころか、そのままその場で固まっている。
その顔色はさあっと変わり、色白の肌が透明に見えるほどに、薄くなっていく。凍りついた表情。怯え、歪む眉。
けれど、リューンが驚いたのは、そのムイの唇だった。
それは見てわかるほどの震え。リューンの耳に届いたのは、ムイの歯がカチカチと小刻みに震える音だった。
「申し訳ありません! リューン様! すぐに片付けますっ」
マリアが食堂に続く準備室から飛び出して来て、ムイの足元で割れた皿をガチャガチャと片付け始めた。
「こらっムイ‼︎ お前も謝るんだよっ‼︎」
マリアの言葉に促され、慌ててムイはその場で座り込むと、両手を前について頭を下げた。
「あっ」
きゃあっと悲鳴があちこちで上がった。隣でマリアも慌てて声を上げる。
「ムイっ‼︎ あんた、そんなところに座ったらっ」
そして、リューンも。
「ムイっ、お前、何をしているっ‼︎」
リューンは割れた破片の上で土下座をしたムイの側に駆け寄ると、腕を掴んで乱暴に引っ張り上げ、その場に立たせた。
「……んっ!」
ムイの顔がその掴まれた腕の痛みで歪む。
リューンはムイの腕を掴む手に力が入り過ぎたことに気がつくと、慌てて手を離した。その拍子にムイの身体がぐらりと傾き、それを見たマリアが、すかさずムイを抱える。
「ムイ、あんた何やってんだ! 足は大丈夫かい?」
そのマリアの声に、リューンは直ぐにも視線をムイの両足に移した。
もちろん。足には数カ所、細かい傷ができていて、そこから血が滴り落ちている。
「馬鹿者! 割れた皿の上に座るやつがあるかっっ‼︎」
自分でも思いも寄らぬ怒号が出た。それほどに、憤慨していた。
愚かで突拍子もないムイの行動でムイ自身の身体に傷をつけたことに腹が立ったのか?
それとも、贈った髪飾りがムイの髪に、ついてないことに腹を立てたのか?
まるで分からなかったが、とにかく怒りが収まらない。
「この馬鹿者がっ‼︎」
さらに口から怒声が上がった。顔が赤く火照るのも分かるくらいに、自分の怒りは頂点に達していた。こんなにも我を忘れて怒鳴ったのは、久しぶりだった。
そんな狂ったような自分の様子を、侍女や調理人が遠巻きに見ていることに気がつくと、リューンはようやく冷静さを取り戻した。
「む、ムイ」
ムイはマリアに両肩を抱かれながら、ガタガタと震えている。顔は真っ青で色がなく、リューンは初めてムイがここへやってきた時のことを思い出した。
ムイがまた、こらえきれずに粗相をしてしまうのかもしれないと思った。ムイの足からは血が糸のように幾筋も細く流れている。
冷静になったリューンは極力、声のトーンを落として、声を掛けた。
「ムイ、足を……」
その時だ。
開いていた食堂のドアから一人の男が入ってきた。
「ムイ‼︎」
背は高くリューンと同等ほどあり、肩幅も負けてはいない。がっしりした体躯に純朴で真っ直ぐな性格が窺える、きりっと整った顔立ち。
男はムイの近くに駆け寄ってきて、その両足の怪我に目をやった。
リューンに向かって一礼する。と、男はムイを軽々と抱き上げた。
「なっ、なんだお前はっ」
「アランっ」
マリアが慌てて近寄ろうとしたが、男は素早くその場を離れると、ムイを抱き上げたまま、ドアから出ていってしまった。
「ま、待てっ」