混乱
「ムイ、お前は最高の女だ」
そして、無気力なムイを抱き締めると、「愛している、ムイ」囁きながら、何度も頬にキスをした。そして、そのハイドの唇がムイの唇へと重なった時。
どんっと衝撃があった。
身体が大きく揺れて、ムイは正気を取り戻した。
「ハイド、さま?」
ハイドの身体もぐらりと傾き、ムイが咄嗟に両腕で抱えるが、その重みは支えきれない。二人はもつれてその場に崩れ落ちると、ムイはハイドの顔を覗き込んだ。
「は、ハイド様っ」
「……な、なに、が、起き、た」
ハイドの口から鮮血が噴き出して溢れる。その血は、ムイの白いドレスを真っ赤に染めた。
「あ、」
ムイが顔を上げた先には、ユリアス神父がぞっとするような冷たい表情を浮かべて立っていた。
「ゆ、ユリアスさ、ま」
ハイドの身体がどっとムイへと倒れ込んできた。
ムイがその身体を抱えると、その背中に剣の鍔のようなものが刺さっているのが目に飛び込んできた。
もちろん、ハイドの背中もその剣の鍔を中心に、真っ赤に染まっている。
「あ、あ、ああ」
ムイが恐怖の声を上げた。
「……ムイ様、大丈夫でしょうか? このように下劣な者に、その唇を許してはいけませんよ」
ユリアスが近づいてきて、ムイに覆いかぶさっているハイドの腕を引き上げる。ハイドの重みがすっと無くなったかと思うと、ユリアスはハイドを引きずっていき、バルコニーの手すりの前へと放った。ハイドの身体がどさっと横たえられる。
「これでもう、大丈夫ですよ」
そして、ユリアスはそのままムイに近づいてくる。一歩一歩がスローモーションのように、ムイには見えた。
ムイは血だらけになった手で床を押し上げて、後ろへと退がろうとした。
「ユリアス様、どうしてこのようなことを……」
その一言を発するのにも、ガチガチと震える唇と歯に阻まれて、うまく言えなかった。
「ムイ様、もう邪魔者はおりません」
徐々に近づいてくるユリアスから逃れようと、なんとかして立ち上がる。けれど、足は震えて言うことをきかず、ぐらと倒れそうになるのをバルコニーの手すりに掴まり、なんとか耐える。
「大丈夫ですか、立てますか?」
優しい声が、逆にムイの背中に戦慄を走らせる。
「は、離して、」
ユリアスにぐいっと腕を掴まれ、ムイはその拘束から逃れようと、必死にもがいた。
「離してください、」
「ムイ様、どうかこの私の妻に。リューン様の代わりに、私がリンデンバウムの領主となりますっ」
「ユリアスさ、ま、」
くるっと身体をひねり回され、バルコニーの手すりに押し付けられる。観衆の姿が見える体勢に、ムイは顔を歪めて言った。
「やめてください、ユリアス様っ」
「さあ、真の名の力を。このユリアスが、リンデンバウムの新しい領主であると。さあ、命令してください。私が領主だと。そして、」
声を落として、言った。
「教会を軽視し、ないがしろにしているこの国の国政を……愚かな国王の過ちを断罪してくださいっっ‼︎」
がっと、背中を手すりに押しつけられ、溜まっていたムイの涙がその拍子に散った。