かくれんぼのように
「あいつは本当になんなんだ」
ローウェンの手の内をすり抜けて、ムイが上手いこと勉学から逃げおおせていると聞いて、リューンは腹が立って仕方がなかった。
寝室をうろうろと行き来する。
「貸したブランケットも返しに来ないとは、無礼にもほどがあるな‼︎」
ベッドの横に置いてあるサイドテーブルの上には、小さな箱が置いてある。リューンはそれを掴むと、サイドテーブルの引き出しの中へと放り込んだ。
「母上の髪飾りでも、くれてやろうと思っていたのにっ‼︎」
引き出しをバタンと勢いよく閉めると、中でガランっと音が鳴った。
「くそっ、名前が無いと、このようにも不便なのかっ‼︎」
リューンはムイの真の名前を握っていない。
「ムイ」という仮の名をいくら呼んでもムイは現れはしないし、勉強をしろと命令もできなければ、名前を教えろと迫ることもできないのだ。
「いまいましいことだ」
リューンは、部屋の中をうろうろとしてから、ベッドにドスンと横たわると、天井を見上げて考えた。
「……そうか、ムイの部屋を直接、訪ねればいいのか」
ガバッと起き上がり、引き出しから小箱を取り出す。
この時間ならもう夕食の後片付けを終え、部屋にいるはずだ。ムイの部屋は他の侍女たちと違って、リューンの部屋と同じ二階に当てがってある。ローウェンの目が届くようにとの配慮もある。近くの小部屋に身の回りのものを用意して、そこに放り込んであった。
「俺が出向くなんて、今までに無いことだぞ」
言葉にすると、いまいましさに拍車は掛かったが、ムイに会おうと思うと、これしか方法は無い。
「くそっ」
小さく何度も呟きながら、部屋を出る。廊下を大股で歩いていき、小部屋に着く。
ノックをするのも更にいまいましい思いがして、ドアをガチャっと乱暴に開けた。
「ムイっ」
リューンは、大声で呼んだ。
部屋の中は空だった。テラスの窓が薄く開いている。リューンが窓からテラスへと出ると、テラスの手すりにカーテンか何かの布が垂らしてあった。
「なんだ、これは……まさか……あいつ、逃げたのかっ‼︎」
布を引っ張り上げると、所々結び目によって瘤が作ってあり、その先は中庭の方へと続いている。
(……いや、これは逃げたんじゃない。もしかして、)
リューンは、数週間前の早朝の散歩を思い出した。あの時、ムイは広場のガゼボで眠っていたではないか。
リューンは急いで踵を返すと、自室に置いてあるランタンを手にして廊下を進み、階段を降りた。
朝晩の肌寒さは変わらず、夜の帳が下りたこの時間、ひやりと冷たい空気が肌を刺す。
(まさかとは思うが、こんな寒さの中で……)
自ずと足が速まる。ジャリという砂を踏む音が、その内さくさくと芝を踏む音に変わったことにも、リューンは気づかない。
ガゼボに近づいていくと、やはりそこにはムイが眠っていた。
暗がりの中、リューンはランタンをかざした。
ほわりとオレンジの灯火が、ムイの頬を染める。そして、その細い身体に巻きつけているのは、数週間前にここで眠っていたムイにリューンが掛けたブランケット。
リューンは、少しの間、その姿を見つめていた。
繭の中で眠る蚕のように、足を抱えて眠っている。ここへ来てからの食事はきちんと与えられていて、頬もずいぶんと、ふっくらと丸みを帯びてきている。
そして、その短く整えられている黒髪には。
花は、挿されていなかった。
(このような夜だからなのか。それとも、ちょうどいい花が見当たらなかったのか)
リューンは握っていた小箱を開けて、中から貝殻で作られた花の髪飾りを取り出すと、そっとムイに近づいて、耳の上へと滑らせた。
ムイの白い肌と黒髪に、貝殻の虹色が浮かび上がって、その髪飾りはとてもよく、ムイに似合った。