覚めない悪夢
わあああっと歓声が上がった。
ムイが教会のバルコニーに立った瞬間だ。後ろには、二胡を持ったシバが控えている。
ムイは、周りを見渡した。
教会の敷地を埋め尽くす、人人人。
大木によじ登っている者もいれば、大人に肩車されて手を振る子供もいる。
大勢の人の前に立ち、ムイは心許ない気持ちでいた。それは、やはり何と言っても、リューンの不在によるものだろう。
(リューン様が居らぬのに、私は一体、ここで何をしているのだろう)
いつものように靴を脱いで裸足になる。
ひやりと足の裏に、コンクリートで出来たバルコニーの温度が伝わってきた。
息を吸う。息を吐く。
そうやって、気持ちを整える頃、観衆の声も水を打ったかのようにしんっと静かになった。
ムイは、ひときわ大きく息を吸った。
そして、歌った。
シバの二胡も後をついてくる。
歌い終わって、そして息を整えた時。
わっと、再度歓声が上がった。
「ムイさまああ」
「素晴らしい歌だったわ」
「なんて美しい声なんでしょう‼︎」
「リンデンバウムの歌姫だあ」
その歓声とともに、ムイの頭の中に響いてきたもの。
それは。
(リリー=ラングレー)
手離したはずの、真の名前。
今、自分の手の中にあると思うと、胸が、どっと爆ぜた。
そっと、口を開ける。すると唇が震え出し、半開きの口からはカチカチと歯の鳴る音が。
興奮で湧いていた観衆も、口を開けたムイがもう一曲でも歌うのか、いやもしかしたら何か話すのかも知れない、そう思って口を閉じ耳を澄ました。
ムイに視線が集まっていく。ムイもその視線を全身に感じ取っていた。
しかし、半開きの口からは何も出てこない。握りしめたこぶしの中で、じっとりと滲んでくる手汗。
息を細く吐きながら一度、震える唇を合わせた。乾いた唇を舐める。
そして、もう一度口を開けた。
「…………」
言いあぐねていると、後ろから小さな声がする。
「ムイ、勇気を出して」
心から信頼を寄せていたシバの声。その信頼が、今はもう脆く崩れ去って跡形もない。
そうなるともう、大切に思ってきたシバの声が、自分を短剣か何かで刺してくるような声にしか聞こえなかった。
ムイは、目を瞑った。
このような大それたことをして、この先何事もなかったかのように生きてはいけないだろう。
(けれど、もうこれしか道はない)
そして。
「リリー=ラングレーの名の下に、」
なんだなんだと、ざわざわとしていた観衆の耳に、ひとりの少女の名前がするりと入り込む。
「リンデンバウムの新しい領主、ハイド=シェレンベルクに、皆の忠誠を誓う」
一瞬、時間は止まった。
けれど、隣にすっと出てきたハイドが観衆に向かってお辞儀をすると、時は再び流れ出した。
どおっと歓声が上がった。
「ハイドさまあ、」
「新しい領主さまああ」
不自然な行為や行動にも誰ひとりとして疑問を持たず、観衆の、人々の目は、異様なほど輝いている。
ハイドは手を突き上げて、軽くふった。ハイドの一挙手一投足に倣って、観衆も大きく声を上げる。
ムイは、眩暈を感じた。よろ、と後ずさる。
退席しようと踵を返すと、ハイドの腕が伸びてきて背中を抱かれた。ぐいっと引きずられるようにして前へと出る。
ハイドと並ぶと、興奮した観衆の姿が目に入り、自分のしたことの重さに、尚のことショックを受けた。
「くくく、父親思いのことだ」
耳元で囁く。今度は吐き気を感じ、戻しそうになった。
口を手で押さえて、身体をくの字に折ると、さらにその身体を抱き締められる。
「ムイ、お前は俺のものだ」
ぞくっと、悪寒が走った。
耐えきれずに何度かごほごほとえずくと、口から出たものが嗚咽なのか吐き戻したものなのか、ムイはそのまま気を失ってしまった。