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正しき道


「まさか、」


今は不在のリューンの書斎に呼ばれて見た光景は、ムイには到底信じがたいものだった。ソファから立ち上がる男の姿が、まるでスローモーションのように見えるほど、ムイは自分の目を何度も疑った。


「リン、リン、」


一瞬、誰が呼ばれたのかわからなかった。それ程に、今のムイにはムイという名前がしっくりときていたのだろう。


少しすると、懐かしい名前がじわっと身体中に浸透していき、それと同時に実の父の顔も脳裏へと浮かんできた。その顔が今、現実に目の前にあり、そして弱々しい笑顔を浮かべている。


だが、ムイの反応が乏しいと見ると、その微量の微笑みが、すうっと引いていった。


「……リン、父さんを覚えていないのか?」


「ううん、……お父さん、覚えてる」


ムイが走り出して、リーアムの元へと駆け寄った。


「お父さんっっ」


リーアムの首に腕を回し、抱きつく。リーアムの腕もムイの背中に回されているのだろう、その背中に温かみと力強さを感じた。


「リン、お前には苦労を掛けてしまったな。すまない、リン、本当にすまない」


「お父さん、また会えるなんてっ」


「信じられないな」


「うん、信じられない」


ムイの目に涙が光る。


ローウェンが部屋から出ていったのか、ドアが閉まる音がした。


「お父さん、お父さん、」


頬に自分の頬をすり寄せる。髭を剃ったあとのざらりとした肌。その肌からは懐かしい匂いがして、ムイはさらに涙を増やした。


「お父さん、今までどうしていたの? 兄さんたちは?」


くっつけ合っていた身体を離すと、二人はどちらからともなくソファにゆっくりと腰を下ろす。


「話せば長くなるが……それよりリン、なんて立派になったんだ。大体の話は聞いている。リンデンバウムの領主様と結婚をしたんだってな」


「うん、そうなの」


「幸せなのか?」


「うん、幸せよ」


リーアムはにこっと笑い、ほっと胸を撫で下ろす仕草をした。けれど、直ぐに表情を暗くした。


「……兄さんたちとは離れてから連絡が取れないんだ。唯一、有名となったお前だけに連絡が取れたというだけで……リン、すまなかった。お前には苦労を掛けたね。けれど、あの時はお前たちを手離すしかなかった。あのままでは生きていけなかったんだ。本当に、すまない」


「ううん、お父さんのせいじゃないわ。それは、わかってる。あの時は本当に貧しくて、仕方がなかったから」


「満足に食べさせてやることも出来ずに母さんも死なせてしまった……情けない父親だ」


リーアムの目に涙が滲む。そんな父親の姿を見て、ムイは思い出した。


母を病気で亡くしてからは、貧しさに拍車が掛かり、その日の食事もろくに取れなかった日々が続いたことを。兄たちが倒れ、そしてムイが栄養失調で声を失った時、リーアムはついに子供達を手離すことを決めたのだ。


共倒れになるよりはと、労働力として、よその家へと預けた。


ムイはその養父と養母の元で子守りや家事など働きに働いて、そしてこのリンデンバウム城へと押しやられたのだ。養父はムイを売りつけると、僅かな金をせびってから、家へと戻っていった。


後になってふと、思ったことがあった。


どうして父親はそんなギリギリの貧しさの中で、自分の、ムイの真の名前を使わなかったのか、と。


ムイの真の名を使って人々に何とでも命令すれば、食べるくらいは出来たのでは、と思ったのだ。


けれど、父親はそれを決してやらなかった。曲がった道を無理矢理押し通すのには、父は正直者過ぎたのだろうと、ムイは思う。


そしてそのリーアムを父親として、人間として、ムイは尊敬してきたのだ。


だから、そんな父親が驚くべきことに、思いも寄らぬ言動に出るとは、これっぽっちも思わなかった。


リーアムは腕をムイの肩から首の後ろに回すと、もう一度ムイを抱きしめた。


「苦労を掛けて、本当にすまなかった」


何度も謝罪を繰り返すリーアムの背中に回した腕に、ムイも力を込めた。


「お父さん、」


そして。


耳元で。


「リリー=ラングレー」


どっ、と脈が跳ねた。


「お前の名前だよ、これからは大切にするんだ」


ムイが慌てて身体を離そうとすると、リーアムはそれを許さず抱きしめ続けた。そして、こうも言った。


「リリー、この名を捨てるなどという愚かな行為を、二度としてはいけないよ。お前はたくさんの人々の前で、歌を歌うんだ……」


ぞ、と全身が冷えた。


「これからも、ずっと。歌を歌い続けるんだよ」


耳にざらりと残る、父親の声。自分の覚えている、元来の正直者の父親の声ではなかった。誰かに操られているような、そんな疑いの声。


本物ではなく、偽物の。


慌てて、抱擁から身体を離し、リーアムの顔を見た。


けれど、そこにあるのは温厚な笑顔。その笑顔に悪意はない。


騙されていると直感した。言葉巧みに、操られているのだと。


リリー=ラングレー


その名が手の中に還る。


ムイは、真の名前の持つ恐ろしさを、それ程までに知っていた。

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