序章
「シバ、状況が変わったぞ」
生来の糸目をさらに細くしながら、ハイドが部屋へと入ってきた。
宵闇がそろりと足を運んでくる時刻ではあったが、シバはムイに一言断りを入れてから、外出していた。
「少し出てくるわ」
二胡を軽々と背負って、シバは靴紐を締める。ムイは心配そうにその背中に言葉を掛けた。
「もうすぐ夜よ、こんな時間に城を出るなんて。危ないわ」
「ふふ、大丈夫よ。もし暴漢が出たら、この二胡で叩きのめしてやる」
リューンとムイの結婚式の日に仲良くなった町の人と夕食の約束をしていると、シバは説明した。
不安顔のムイを残して、ハイドとの待ち合わせの宿屋に部屋を取った。
「ハイド様」
シバは、座っていたベッドから立ち上がった。
「リューンが国王の元へと乗り込んでいったらしい」
「やはり、そうでしたか。それでリューン様は?」
「陛下の元へ辿り着く前に、捕獲、ということだ」
「リアン宰相が?」
「ああ、そうだ。しかし……自ら赴くとは、なんとも愚かだな」
ハイドはテーブルの上の酒瓶を、取り上げた。コルク栓を抜くと、グラスになみなみと、そのワインを注いだ。
「だが、これは好機。念のためと思い、ヤツを連れてきた甲斐があったというものだ」
ペロっと酒瓶の口を舐めてからテーブルに置くと、グラスを手に取り一気にワインを飲み干す。
「ハイド様、彼の方は?」
「すぐそこの飲み屋で、何も知らずに飯を食っている」
「自由にさせていて良いのですか?」
「別に俺が捕らえているのではない。ヤツが望んでついてきたまでだ」
酒瓶を持ち上げ、次の杯を注ぐ。
「それはそうでしょう。私でも会えるなら、会いたいと思いますよ。肉親なのですから」
もう一杯を飲み干すと、ハイドはグラスに半分ほど注いでから、シバに差し出した。
シバは、それを受け取った。
「けれどハイド様なら、自らついてこなくとも、力づくで引きずってきたでしょうに」
ワインを口に含む。苦味が舌の上を転がっていき、酒の苦手なシバは顔をしかめた。グラスを戻す。
それを受け取ると、ハイドは高笑いをした。
「さあ、シバ。今ならリンデンバウムの城には邪魔な者は居ない。これなら簡単だ、リンデンバウムを乗っ取るのは」
「ハイド様、城内に住まう者たちの結託といったら、思いのほか強きにございますよ」
返されたグラスをテーブルへと置くと、酒瓶を倒して注ぎ尽くす。最後の一滴になると、ハイドはもう一度酒瓶の口を舐めた。
「そんなのは関係ない。こちらはムイの父親を握っているのだぞ。国王が熱望する歌姫を握っているのと同じではないか」
「そうですが、」
シバの言葉を遮って、ハイドは残りのワインをぐいっと飲み干すと、テーブルにグラスを打ちつけた。タンっと乾いた音が粗末な部屋に響く。
「シバ、俺たちが乗り込む手引きをしろ」
「かしこまりました」
頭を下げる。
そして、背中に背負った二胡を袋から出した。近くにある椅子を引き寄せて座ると、長い弓を弦に沿わせながら、ゆっくりと二胡を弾き始めた。
悲しみの旋律を奏でる。
「お前の二胡は本当に胸に響く」
ほろ酔いのハイドがのろのろとベッドにごろんと横になるまで、シバは二胡を弾き続けた。