あなたが居なくなって
「シバ、リューン様はどうしていると思う?」
バルコニーの手すりに腰掛けているシバの後ろ姿に、ムイが話し掛けた。
シバは頭だけを振り返らせてムイを見ると、直ぐに頭を戻し、バルコニーから見えるバラ園を見渡した。
「寂しいわね、ムイ。けれど、仕事なのだから仕方がないわ」
「それは、わかっているのだけど、」
ムイの消えそうになる声を背中で聞いていたシバが、突然手すりからひらりと飛び降りると、ムイに寄ってきて、その身体を抱き締めた。
「最愛」
「なに?」
ムイが問うと、シバは身体を離して、ムイの両肩に手を乗せた。
「そういうのを最愛、というの」
「最愛……」
「引き離されても、魂は惹かれ合う」
「シバ、」
「リューン様とは惹かれ合っているのだから、いつか巡り会える。心配は要らないわ」
シバがにこっと笑う。ムイは、「最愛」の意味を知り、少しだけ恥ずかしくなって、顔を伏せた。
「し、シバにも、そういう人が?」
「…………」
答えが返ってこないのを不審に思い、ムイが少し顔を上げて見ると、シバは薄っすらと微笑んでいた。
「シバ……?」
「いるよ、」
え、という表情を浮かべると、シバはさらににこっと笑った。
「最愛の人」
楽団の人だろうか、ムイが在籍していた時を思い出す。けれど、思い当たる相手は浮かんでこなかった。
「誰なの?」
ふふ、と笑って、教えない、と言う。
「気になるわ」
「いつか、」
ムイの肩に置いてある手に力が入ったような気がした。
「教えてあげる」
そして、シバは振り返ると、バルコニーの手すりにひらりと乗った。
「シバ、危ないわっ」
ムイが側に駆け寄ろうとすると、シバの姿がすっと消えた。
「シバっっ」
バルコニーは二階にあり相当な高さがあるのだが、駆け寄って手すりから身を乗り出して見ると、シバはちゃんと着地していて手まで振っている。
「バラを見てくるわ」
シバが手を振りながら、走り出した。
「すごい。身軽なのは変わっていないのね」
ムイは手を振り返した。そして、それこそ身軽に駆けていくシバの後ろ姿を見つめていた。
「……最愛」
魂で惹かれ合う。
貧しさから一度目は実の父に、二度目は育ての養父に、捨てられた自分。その日一日、食べることにも苦労し、風呂にも入れず汚れきっていた自分を、リューンは汚れることも厭わず、抱え上げて風呂に入れてくれた。働けば給料をくれ、食事をくれ、学をくれ、そして喋ることすらできなかった自分に名前を与えてくれた。
(そして、この声も……)
ムイが喉をそっと触る。
リューンのために捨てていいとまで思っていた歌を、今はこうして好きなだけ自由に歌うことを、与えてくれている。
涙が。
溢れて落ちた。
(リューン様が私の最愛……)
結婚して妻となった。けれど、不安は募るばかりだ。
(……早くお戻りください)
ムイは何度も呟くしかできなかった。