不気味な微笑み
ムイが後ろへと一歩、下がる。それに合わせるように、男は歩き出し、ムイへと向かってくる。あっという間に詰め寄られて、ムイが身を翻そうとしたところで、身体を奪われてしまった。
「ムイ、会いたかったぞ」
「お、お離しくださいっ」
太い腕が身体を拘束し、ムイには身動きが取れなかった。
「ムイ様っ」
ユリアスが手を伸ばして駆け寄ろうとすると、ムイの身体をひょいと肩に乗せ、男はひらりと後ろへと下がった。
ムイは一生懸命、男から身体を離そうともがく。
「お離しくださいっ」
「ムイ、お前はどうしていつも俺から逃げようとするのだ」
「そのようなこと、……ハイド様、お願いです。降ろしてください」
「相変わらず、お前は軽いな」
ムイを抱え直すと、男は目を細くして、にやりと笑った。
「ハイドさまっ、私はもう、ムイ=リンデンバウムとなりました。名前も新たにいただいたのです。あなたの思うようにはまいりませんっ」
叫んだ。ありったけの声を上げて。
すると、その言い方で男の怒りを買ったのか、地面にどさっと落とされて、ムイは腰を地面に打ちつけた。その拍子に、足首に痛みが走る。
「ふはは、そんなことは関係ない。お前の真の名は、俺が握っているのだからな」
にやと笑う不気味な顔に、ムイの心臓がざわっと騒いだ。胸を手で押さえる。
「真の名はもう捨てました。もう覚えてもおりませんっ」
「国王陛下は騙せても、俺は騙せないぞ」
「騙すも何も、本当に覚えていないのです‼︎」
身体の奥底から声を出し叫んだ。あちこちに痛みがあるが、構ってはいられないと、ムイは大声を張り上げた。
「もう私はただの女に過ぎません」
「……ならなぜ、リューンはあんなにも必死になってお前を捕まえようとしているのだ?」
「私がただの女だとしても、リューン様は私を、」
「愛しているからだ」
声がして振り返ると、我慢していた涙が、ムイの目から散った。
「リューンさま、」
リューンが大股で歩いてくる。その威厳に慄いたのか、男が身じろぎ後ずさった。
「お前は何者だ」
「…………」
「何者だと訊いている」
「…………」
「俺の妻に何をした」
腹の底からの低い声が、不気味な雰囲気の漂う墓地に響く。
けれど、男は無言を貫き通した。
そしてその内、男は踵を返して、墓地を出ていった。
「ムイ、大丈夫か?」
リューンが手を伸ばしてくる。ムイはそれにしがみつくようにして、支えられた。
「ん、」
足首に痛みが走る。それをぐっと堪えるが、ぐらりと身体は倒れようとしている。
「ムイ、無理をするな」
ぐいっと腕を引っ張り上げられ、身体を抱き上げられる。ムイを抱き上げたまま、リューンは大股で墓地を抜けていく。
遠目に見ていたユリアスが、「ムイ様、大丈夫でございますか?」と、慌てふためいた顔で駆け寄ってくる。
「このような目に遭わせてしまい、申し訳ありません。ムイ様のお仲間の方が、まさかあのような暴力を振るうとは思ってもみませんでした」
「ユリアス殿が使いの者を寄越してくれて良かった。ムイ、あの男は何者なのか、後でゆっくりとお前に問うぞ」
リューンの厳しさを含む声よりも。
(どうしよう、ハイド様はまたやってくるだろうか)
『お前の真の名は、俺が握っている』
不安は大きく膨れ上がるようにして、ムイを巻き込んでいった。