上着とブーツを
「どうやったら意思疎通ができるのだ」
中庭をうろうろと歩きながら、リューンは思い耽っていた。
「字が書ければ、筆談もできるだろうに……」
呟きながら歩を進めると、ジャリジャリと足元の小石が踏みしめられて音を立てる。空気も気持ち良いほどに澄んでいる、早朝の散歩だった。
「はふ、」
まだ軽い眠気が残る、この時間。バラの花びらには朝露が降り、まだそう高くは昇っていない薄い太陽の光が当たって、キラキラと反射している。少しの肌寒さもあり、リューンは一枚のブランケットを羽織って、散歩に出ていた。
(イエスかノー、だけだなんてな)
その二つだけでは心許ない気がして、早く字の一つでも覚えて欲しい、と単純に思う。
「いやいや、別に何を話そうというわけでもないのだが……」
けれど、相手自身の自由意思での会話は、リューンにとって初めて、ということになる。つま先に、コツっと小石が当たり、あらぬ方向へと飛んでいく。
「まあ、名前を握っただけで、その者の意思や思考が無くなるというわけではないが、」
言葉を、つと切った。
(けれど、やはり俺が命令すると、皆一様にイエスと頷くしかなくなるのだから、ムイが持つイエスとノー、二つの返事の方が、選択肢が多いのは確かだ)
彼らにおいては無理矢理、頷かせているようなものなのだから、良い気持ちはしない。苦々しく思うと、リューンはバラ園を出て、広場へと向かった。
短く刈られた緑の芝生が広がっている。手入れが昨日あったのだろうか、草を刈った青臭い香りが漂っている。
その中心には白いガゼボが建っていて、その白さは芝のグリーンだらけの世界を引き締めている。
リューンは幼い頃より、その東屋に時々お茶やお菓子を持ってきては、ゆったりとした時間を過ごしていた。
今朝は何も持たずに出たが、散歩の立ち寄り所のようになっているため、そのままガゼボを目標にして歩いていく。
少しだけ休んでから戻ろうと算段をつけていたが。
なんとそこにはムイが眠っていた。
横長のベンチに、足を折り曲げた状態で横になっている。右腕を枕にして、すうすうと寝息を立てていた。
(まったく、なんだこれは。座る場所がないではないか)
リューンは計画を邪魔され、気分が損なわれたような気がして、腹を立てた。
けれど、どうしてこんな場所で眠っているのか。
その時、すうっと冷たい冷気が首元を掠めていった。
(こんな寒い場所でよく熟睡できるな)
白いワンピース姿。
けれどムイが初めてここにやってきた日と決定的に違うのは、その白さ、清潔さだった。
ワンピースの上には、白い清廉なエプロン。控えめにフリルが付いているのは、マリアが少しは女性らしくエレガントに見えるようにと、ムイのために選んだデザインだと聞いている。
(丸くなって、まるで猫のようだ)
跳ねてバリバリだった短い黒髪は、洗って櫛で梳けば、このような艶やかなものになるのだな、そう感心してから、リューンは肩に掛けていたブランケットをそっと、ムイの身体に被せた。
その場を離れ、時間をかけて自室に戻る。
戻ると、ローウェンが紅茶を用意して待機していた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
イスに座って、ティーカップを取り上げる。口につけると、ほわっと心地よい香りが鼻腔をくすぐった。
砂糖の甘い味と茶葉の苦味が、同時にリューンの舌を満足させる。
「温かいな」
その温度で軽く冷えた身体が温かく、ぬくもっていく。
「ムイに上着とブーツをやってくれ」
すると、ティーポットを片していたローウェンが振り返り、一瞬の間ののち、顎を打った。
「かしこまりました」
「あと、」
その言葉の続きを待つ。
「花の髪飾りを……あ、いや。やはりそれは良い」
「…………」
「自分で用意する」
リューンはカップを持ち上げると、窓の外に目をやった。ここからは中庭のバラ園しか見えず、芝生のあのガゼボは見えない。
ブランケットを掛ける時、気がついた。
ムイの髪に、白い花。
(自分で、挿したのか)
その時、なぜかムイを少しだけ不憫に思った。ムイも天涯孤独な身の上なのだと、気がついたからだろうか。
「カモミール、だったか」
思わぬ形でブランケットを取られてしまい、不服な気持ちがあったのだが、髪に挿した花を見つけた時、なぜか気分が少しだけ軽くなったような気がして、驚く。
(髪飾りは俺が買ってやろう)
そう思うと、やはり心が踊るような気がした。