恐れ
部屋へとずかずかと不躾に入ってきたリューンが、大股でデスクの近くへと近づいてくる。途端に、ムイの様子がおかしくなり、ローウェンがその様を冷ややかに見ていた。
「リューン様、部屋へ入る時にはノックをしてください」
リューンにほぼ対等に進言できるのは、立場は違うが幼馴染とも言えるローウェンだけだ。
鉛筆を持っていたはずのムイの手が、持っていない方の手と固く結ばれているのを見て、ローウェンはリューンの無作法を諌めるように言った。
しかし、リューンはそれを無視するかのように、話し始める。
「進んでいるか、と訊いているのだ。もう話せるようになったのか?」
頭の上でわんわんと響く怒鳴り声に近い声が、ムイを萎縮させる。ムイは俯いたまま、目をぎゅっと瞑っていた。
「リューン様、勉学は今日始めたばかりですよ。昨日の今日で、何を学べと言うのですか。それにムイは喋ることができないのです。ですから……」
ローウェンの話の途中で、リューンがムイの手を払い、ノートを取り上げた。
「なんだ、まだこれだけかっ‼︎」
ビクッと身体が小さく跳ねる。バシッとノートをデスクへと落とすと、リューンはムイの肩に手を下ろした。短い黒髪が、ゆらりと揺れた。
「一体、何をやっていた」
腹に響く低い声に、ムイの顔色はさっと青くなっていく。耳を真っ赤にして、ムイは瞑っていた目をさらに閉じた。
「早く字を覚えるのだ」
肩に置いていた手にグッと力が入った。
ムイは固まってしまった。鼻の奥につんと痛みが走り、見る間もなく涙がポロと落ちた。
「リューン様、なるべく早く進めますゆえ」
さすがにムイが不憫になり、ローウェンが助け舟を出す。しかも、昨日のように、ムイが粗相をしてしまうとまた面倒な仕事が増えてしまう。
「ああ、そうだな」
リューンが納得したような表情で、部屋を出ていった。ローウェンはポロポロと涙を流してカタカタと小さく震えるムイを見て、どうしてそんなにもリューンを恐れるのかと、疑問に思った。
(第一印象が悪すぎたのか、それとも……)
昨日、初めてムイとその育ての男を前にした時。
お前はリューン様の操り人形になるのだよ、一生この城からは出られなくなるのだと、諭したことを思い出した。男がムイの腕を掴んで、契約書に無理矢理サインをさせた手。その時にはもう、彼女は震え、怯えていた。
(私が、脅し過ぎた、のか?)
失笑する。
(城の侍従たちは最小限の人数で回してきたというのに。喋れない、名前がない、読み書きもできない、とは……お荷物が一つ増えてしまったな)
ローウェンはムイの横に立つと、リューンがデスクに落としたノートを開き、ムイに鉛筆を持たせた。
「さあ、続きを書きなさい」
気持ちの表れであるのか、いつもよりその命令口調が厳しくきつい音を発したのには、ローウェン自身はなにも思うところなどなかった。