領主の孤独
「字も読めないし書けないでは、どうすることもできません」
ローウェンがノートを一枚めくりながら、そのままノートの向きを変えると、目の前に座るムイの前へと進めた。鉛筆と消しゴムを入れた缶をノートの隣に置く。
その横に一冊の本を置くと、ローウェンは表紙をめくるように指示した。ムイが本を目の前に手繰り寄せる。表紙には、子ども向けのイラスト。簡単な絵本だということが分かる。
「まさか、こんなことになるとは……」
はあっと、大きく溜め息をついた。
「十六になるまであなたは一体何をしていたんでしょうか」
ムイの教育係を任されてしまった。
口を開けるとこんな風についつい愚痴が飛び出してしまうのは、通常の仕事内容に、この余計とも言える業務が追加されてしまったからだ。
ムイが下を向く。目の前に置いてある絵本を見ている風にも見えるし、怒られてうな垂れる仔犬のようにも見える。
はあっともう一度溜め息をつくと、ローウェンは絵本を開くように言った。
「さあ、字を一から覚えなさい。そうでないと、これからの仕事に差し支えますからね。まずは挨拶からです。『おはようございます』を10回、このノートに書きなさい」
ローウェンはそう指示すると、ムイがおずおずとノートに書き始めるのを見届けてから立ち上がり、窓辺へと寄った。
この執事室から見る中庭の景色。廊下の奥にあるリューンの部屋から見える景色とほぼ変わらない。
リューンが時々、中庭を散歩している光景を、ここから眺めたりしていた。
(リューン様は孤独だ)
その後ろ姿を見るだけで、憐れみが湧き上がってくる。家族は皆、とうの昔に他界し、他の地に遠い親戚はいるものの、天涯孤独に近い状態でもう数年が経つ。愛する人もおらず、そんな存在を自ずから見つけようともしないし、向こうからも一人としてやっては来ない。
(けれど、本当は……)
中庭に。リューンの姿を見つけて思った。
(本当は、心から欲しているのだ。「孤独」以外のものを。喉から手が出るほどに)
唇を噛む。
そして、踵を返すとデスクに戻り、ムイのノートをチェックした。
「よし、では次に『おやすみなさいませ』を10回」
絵本を指差して、促す。ムイは素直に鉛筆をたどたどしく動かした。
(リューン様は、ご自身の力を忌み嫌っている)
トントンと指を机の上で鳴らすと、ムイの身体がビクッと揺れた。鉛筆が止まる。それを遠い目で見ながら、ローウェンは息を一瞬止めた。
(いや。あれはもう、自分自身を嫌っていると言っても過言ではない)
「次、『ありがとうございます』だ」
何度か、同じことを繰り返しているうちに、ムイの運筆が少しだけ早くなった。
今日はここまでにしよう、と言いかけたところで、ドアが勢いよくバタンと開け放たれた。
「どうだ、進んでいるか」