満たされて
「ムイ、あの時はすまなかった」
ベッドの中で囁いた。
ムイがまだ歌姫だった頃、そしてリューンの婚約者のサリーの心の病を治すため、リンデンバウム城に楽団を連れてやってきた日。
自分の名前を使って、リューンが自分自身に命令したことがあった。
この先、お前は独りで生きていけ、と。
「お前を、驚かせてしまったね」
「リューン様の名を握る力の喪失には、私の力が関わっているとお話くださいましたね。ローウェン様が、力と力で相殺されたのではないかと仰っしゃられている、と」
「ああ。確かに俺は、一度はお前の名前を握ったからな」
「最後にお会いしたあの時はもう、力を失くされていたわけですね」
「お前に何とかとどまって欲しくて、必死だったのだ」
「ふふ」
ムイがリューンの腕の中で小さく笑った。
「みっともない醜態を晒してしまったと……今さらだが、すごく恥ずかしいよ」
「そんな風に仰らないでください。けれど、私はその……すごく、驚きました」
「そうだな」
「心臓が止まるかと思いました」
口を尖らせているムイが可愛くて、リューンは抱き締めている腕に力を込めた。
すまない、どうしたら許してくれるのだ、リューンが困り顔を作る。
ベッドの中でムイを後ろから抱き締めているリューンが、ムイの頬に自分の頬をくっつけた。
「ムイ、お前を愛しているんだ」
「……は、い」
ムイの身体が、ふるっと震える。
「俺と結婚してくれ」
「……陛下のお許しがないと」
歌も声も捨てて、ようやくこの森で独り、暮らすことを許された。
けれど、国王はまだ、ムイの真の名前だけは手離せないようだ。王妃の病を治したのにも影響があるだろう。
そんな国王が先程のように、使いの者を定期的に寄越してくる。もちろん、この森も国王の領地の一部である。
この家に住まう許可と平穏な生活を、歌が歌えなくなったとの申し出と引き換えに、ようやく手に入れたのだ。
リューンに会うため、歌姫という地位を捨てた。
「では、国王陛下には俺が許しを乞おう。お前は何も心配しなくていい」
リューンが頬を擦り寄せてくると、ムイはこそばゆい、と少し逃げる。身体が小刻みに揺れて、ムイが笑っているのを感じる。
リューンは幸せでいっぱいになった。
小さな声とくすくす笑い。
「ムイ、愛してる」
「……私もです」
目を瞑る。
少しの間、そうしていると。
ムイが細く細く、息を吐いた。それは微かに震えていて、ゆらりゆらりと揺れて漂った。
リューンが覗き込むと、ムイは静かに涙を流していた。
「……リリー=ラングレーの……名のもとに、」
ムイの声が小さく聞こえてきて、リューンは堪らなくなってムイの首筋とうなじに口づけた。
「……真の名前をここに捨てて……永遠にリューン様のお側に、」
言葉が耳に届く。
リューンの胸に、熱いものが込み上げてきた。
「ムイ、お前は俺が必ず守ってやる」
「リューン様……」
「何があっても離さない」
ムイの肩がふるっと震えた。その揺れる肩に、リューンは口づけた。
「……リューン様、これで私はただのムイとなりました」
「そうだな、俺ももう名を握る力はないのだから、俺もただのリューンというわけだ」
その言葉に、ムイがふふ、と身体を揺らした。
「ただの無力なる人間とは、こんなにも良いものなのか。ムイ、リンデンバウムに戻ってきてくれ。城で一緒に暮らそう。結婚の許可は、俺が国王陛下から、なんとしてももぎ取ってやる」
晴れ晴れとした気持ちと、漂う幸せを噛み締めて、リューンはムイを抱き締めて、眠った。