第六十五話 義妹推参せり
「アルスラン」
その声はオレの姉上だった。
「おっと姉上か」
鞘を握っていた左手をオレは外した。
「ふふっえぇ、アルスラン」
そうだ。この落ち着いた優しい、そして時に凛として芯に力を纏う声色は姉上のものだ。
第六十五話 義妹推参せり
やや遅れて姉上の側つきの侍女により松明が持ってこられた。
その頃にはヤルバルも用足しから戻ってきており、オレはヤルバルに預かっていた彼の刀帯と刀を返し、持たせてやったというわけだ。
今や、オレの従者のヤルバルはその山高帽を脇に挟んで膝を折り、オレと姉上のすぐそばで静かにしゃがんでいる。姉上の従者である侍女もまたヤルバルと同じように礼節を弁えている。
ぽつり、―――っと。
「アルスラン貴方・・・そろそろ―――」
姉さんが口からこぼすように呟いた。そして、俺に振り向く。その漆黒の色をした深い色の眼―――。姉上の切れ長の黒い眼に吸い込まれそうだ。
オレの姉上―――姉さんの名前はスゥという。スゥそれが姉さんの名前だ。天山から湧き出る水のようにうつくしく清らかであってほしいと、既に亡くなっているオレの母、姉上とオレの実母アイリ・ハトゥンがそう自分の娘である姉上に名づけたらしい。父や叔父に聞いたところの話ではあるが・・・。そして、父や叔父―――叔父の名はコユンルというのだが、彼コユンルはオレの母上アイリの弟に当たる人物だ。その母方の叔父から聞いた話だが、オレの姉上スゥとオレは半分しか血は繋がっていないのだ。要するに姉上とオレでは父親が違うのだ。
「―――」
その上で、オレの姉上スゥは黒髪黒目の美しい女性で、その美しいところどころ編まれた黒髪は腰ほどまで伸ばされている。またその長い髪はところによって結われていない部分もある。その姉上の背丈はオレよりは低いものの、低すぎることはない。姉さ、、、姉上はオレの肩ほどぐらいの背丈だ。
美しい姉上を目当てに諸侯や、周辺の様々な有力な者どもの姉上への求婚が絶えないと聞く。だが、姉上がそれを全てかわしているのだ。理由は知らぬ。オレ自身も姉上に、なぜか?と訊いたことがない故な。
松明の皓々とした橙赤色の火の光で姉上のその赤い外衣の長衣がさらに引き立てられるかのように、鮮やかに映える。姉上がオレに振り向いた拍子にその長い黒髪と赤い長衣の裾がふわりっ、っと舞ったのだ。
姉上はオレの名前をその口に出し、貴方そろそろ―――と切り出したのだ。姉上の言いたいことはだいたいの予想はつく。
じぃっ、っと姉さんはオレを見詰めその口を続かせる。
「そろそろ―――イェルハに返事をしてあげなさい。あの子、アルスラン貴方の返事を待っているわよ」
「そのことか、姉さん」
解っている姉さん、時が来ればイェルハには言うさ。
「えぇ」
にこりっ、っと姉上が笑う。姉上スゥが言ったのは、すなわちオレとイェルハとの婚約についてのことだ。なぜだがな、それに関してイェルハ自身は嫌がっていないという、むしろ義兄であるオレとの婚約に関してはイェルハのほうが前向きで、しかも彼女イェルハは乗り気であるらしい。
「―――うむ。おいおい・・・時が来れば、なオレのほうから言うさ、姉さん」
しらぁ―――、っと姉上の目つきが白くなったのだ。
「もうっ貴方はいつもそればかり―――」
うっ、痛いところを突くではないか姉上よ。その姉上ははぁっ、っと呆れたように息を吐き、その自身のきゅっと括れた腰に片手をついた。
「―――貴方がそんなだと、イェルハは誰かに取られるわよ?いいのアルスラン」
「っつ」
それは、、、姉が言ったことが本当に起こるとすれば、はっきりといえばイェルハが誰かのもとへ嫁ぐのは嫌である。
オレとしては、イェルハは嫌いではないのだ。むしろ義妹のイェルハのことはかわいく思っている。俺の妻がイェルハとなるのか・・・。継母ソフィアの連れ子。オレ達黒髪黒目の草原の民の血は流れておらぬ、生粋のルメリア人である。イェルハと、オレは、か―――うむオレとして悪くは決してない。
「―――・・・善処しよう、姉上」
うむ。今一度、イェルハと二人きりでいられる、二人きりになれる機会を作ってみるか・・・。そこでイェルハにこの話をそれとなく出せればよいが。
「そう」
姉上の言葉はそよ風のように、そして風のように流れていった。おやすみ、っと姉上はオレに呟き、姉上スゥは、すぅっ、っと踵を返す。するとすかさず姉上の従者が進み出た。
「では、アルスラン様もあまりの夜更かしされませぬよう」
「ああ、分かっている。では、姉上のことはまかせたぞ」
「はい」
姉上の従者はオレの前で頭を垂れて、しずしずと下がっていった。幾人かの侍女を従える姉上は去る前に、
「じゃあね、アルスラン」
くるりっ、っと姉上はオレに振り返り、
「あぁ、姉さん」
最後に、にこりっ、っときれいな笑みをこぼしたのだった―――。
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その夜はなぜか寝苦しく感じられたのだ―――。眠っていた意識がふぅっと引き上げられるかのように浮上していく。まるで水底から水面へ浮き上がるように、、、。
「―――・・・?」
・・・身体が熱いのだ。―――それに自分ではない者の息遣いがすぐ傍から感じ取れ―――
「ッ」
敵襲か!? まどろみの中を浮遊していたオレの意識が急速に目覚めたのだ。敵がオレの天幕の中に潜んでいるやもしれぬ―――。オレは寝床から勢いよく跳びあがろうとしたものの、その考えに至り、息を殺して先ずは相手の出方を窺うことにした。
「――――――」
オレは自身が目覚めたという気配を殺し、、、薄目を開けて天幕の中を見回したが、そのような害意ある者の影も形も見えない―――。そのような敵意や悪意、害意といった類のものは感じ取ることはない。
まさか、悪い精霊か悪寒を齎す悪霊の類でも近くにいるのだろうか・・・。心の内に隙間風のようなそのような気持ちが宿る。
「―――いや、そのようなことはない」
オレはいつも天神や地神、風の神、雨の神、いろいろな神々にいつも礼節を尽くしているのだ。そのような悪意ある神々や精霊はオレに手を出すことはできないはずだ。
そう思うものの不安の募りで喉が渇いたため、毛氈ふかふかの寝床から身体を起こし―――
「ッ」
オレは起き上がろうとしたものの、オレの身体は何者かによって引っ張られ起き上がることができなかったのだ。それはなぜか?それはオレの身体が、がしっとまるで何かに掴まれているからだ。自身の頸元を確認しても刃物を突き付けられているような感覚はない。
「―――」
では、なぜそのような縛られた状態にオレは陥っているのだろうか。それは何者かがオレの身体にしがみ付いている所為だ。
「ふむ・・・」
イェルハのやつめ。そうだ意識すれば、オレの身体はぽかぽかとぬくもりを、やわやわとしたそのやわらかさを、オレはその身体で感じ取れているではないか。
羊毛の毛布、オレが身体に掛けるその毛布だ。暗闇の中、目を凝らしに凝らせば自身の身体よりもずっと大きくその毛布が膨らんでいる。
イェルハ―――、
「・・・」
また後宮を抜け出してオレの自宮であるこの天幕にやって来たのか。そして、そのままオレの毛布の中へ潜り込んできたのだな、イェルハよ。
・・・義妹イェルハは。イェルハはエヴルバリクにある後宮の天幕から度々こっそりと抜け出してきては、ときどきオレの寝所に忍び込んでくるのだ。姉さんに聞いたところによれば、イェルハは姉さんの寝所にもときどき行くらしい。
「イェルハよ」
きゅっ、っとイェルハはその手でオレの寝間着を握っている。
「・・・・・・」
すぅすぅと規則正しい息遣いをさせながら、そのイェルハはオレの寝台の中で眠っているのだ。イェルハはいつごろにオレの寝所に忍び込んでくるのだろうか・・・。以前イェルハに、『なぜだ?理由はあるのか』、と訊いたことはあるのだが、なにかはにかむようなかわゆい顔してはぐらかされたのだ。それより突っ込んでイェルハには訊いたことがない。それにあまり問い質すようなことはイェルハにはしたくない。嫌われてしまうやもしれぬからな。
だいたいオレはイェルハが俺の天幕にやって来るのを嫌ってはいないのだ。だから、イェルハに言う必要はない。
「――――――」
オレは、イェルハの肩に手を伸ばし、、、―――。いや、やはりイェルハを起こすのはやめておこう―――。
オレはイェルハの肩に伸ばした手でゆるゆると揺することでイェルハをその眠りから覚まそうかと思ったが。―――イェルハを起こすは悪いと思ったのだ。
じぃ―――っ、っとオレは安らかなイェルハの寝顔を見詰める。
「――――――」
「すぅ、すぅ、すぅ、―――」
すぅ、すぅ、すぅ―――、オレは自身の身体でイェルハの呼吸を感じ取れる。無論だ、イェルハがオレにくっついて眠っているからだ。
くっ・・・。
「・・・っ///」
すぅ、すぅ、すぅ―――、っとしたイェルハのその寝息がやけにオレの心をくすぐる。
「っつ」
寝る。もう一度さっさっと寝てしまおうっオレ自身が変な気分になる前に。
「―――・・・」
そうして、オレは眼を閉じたのだった。そうすればすぐに、安らかな眠りがオレを待っていることを信じて―――。




