第一話 遁走の終焉
第一話
―――エヴラス大陸、中央エヴラス地方西部のとある森にて―――
ふぅっとまるで風が吹くかのように自然と目が覚めた。馬上での起床に、朝日が目に沁みて眩しかったのだ。オレは今日の朝日に、今日も幸福あれ、と一礼を拝したのだ。
「今日も綺麗な朝だ―――・・・」
空を見上げれば、すばらしく澄み渡る青天に朝日の赤が混じるとても綺麗な朝焼け空だった。だが、オレの心がこのように晴れることはなかった。そう、この綺麗な空の朝焼けを見るのは彼ら、すなわちオレの腹心の四名の親衛隊と別行動をとって三回目の朝だったからだ。彼ら四名からの連絡はいまだオレのもとにはきていない。
「・・・・・・」
それは先日のことだった。自国の奥深くまで攻めてきた敵軍の手に王の地位に就いていた父や同じく副王の叔父は斃れ、姉は行方知れず、自分に最期まで付き従ってくれた四名の親衛隊も、おそらく亡き今、オレに付き従ってくれる者はこの愛馬しか遺っていない。さわさわと愛馬の頸を撫でてやる。するとオレの愛馬は顔を上げてぶるると一回、嘶いて、再びもふもふと口を左右に動かしながら、夜露の水玉が付く下草を食む動作に戻ったのだった。
オレは愛馬から降りると自身の腰の帯にぶら下げてある小袋のうちの一つに手を伸ばした。小袋の中に入っている小さな木箱の中には薬草などを調合して作った傷薬が入ってある。
「ちょっと沁みるが我慢しろ」
オレは蓋を外して、彼―――オレの愛馬の脚にところどころできた小さな切り傷や擦り傷に塗り込んでいく。すると愛馬は尻尾を左右に振ったのだった。
「――――――・・・」
ほんとうにどうしてこのようなことになったのだろうか・・・。しばし、今に至るまでに自分に自分達の身に起こったことを思い出しながら、どれくらいそうしていただろうか―――みずみずしい下草をたくさん食べてもう満足したようで、オレの愛馬は頭を上げてオレを見つめた。
「行くか」
オレは頷いて愛馬に跨った。そうして両の手で手綱を取り、両の足で鐙を踏んだのだった。
数日後―――
「いたぞッ!!」
「追え、追えーッ!!」
オレは薄暗い森の中をひたすら愛馬を走らせていた。オレの居場所がついに敵の追手達に捕捉されたからだ。
「ハァ、ハァ、ハァ・・・―――」
川沿いの道なき道を外れて森の中。とくに道に迷ったわけではなく、川沿いは敵の追手から丸見えで目立ちすぎるのだ。かと言って森の中を目標があって進んでいるのではなく、とりあえずは、地形や太陽の位置を見ながら、オレは敵の追手から逃げきるために愛馬を駆けさせているのだ。
道なき道は藪漕ぎのような場所もところどころあり、身体のや顔のあちらこちらを小枝や葉っぱなどがかすめてそれらの掠り傷も体中にできていた。どうにかこうにかして敵兵達をまかなければ、オレに未来はないのだ・・・!!
それにこの森を抜ければ―――きっとどこかの国に亡命できるはずだ。この森を抜けた先、東方面の平原地帯には自分達の敵国であるルメリア帝国に敵対している国々は多いと聞いた。敵の敵は友である、という言い回しもある。
「くそ・・・!!」
敵の追手達から逃げ回っているだけでは埒が明かないかもしれない。敵兵一人ひとり、一人ずつ撃破していくしかないようだ・・・。
森の中を彷徨うこと数刻、敵兵達からは死角になるような丘の上で大木と大きな岩、その両方の条件が揃ったちょうどいい地形を見つけてオレは愛馬と共にその陰に入った。兵法はオレに仕えてくれていたイスィクという名の親衛隊隊長が教えてくれたのだ。彼はその四名の筆頭であり、もうすでにこの世にはいないと思われる。
「――――――」
岩陰に潜んで騎乗したまま、敵の長とおぼしき者を的にして左手で弓を持ち、右手できりきりと弦をしぼり、鉄製の鏃が付いた特別な矢を番える。左手の先に見える鉄の煌めきの矢先が敵兵の頸筋に重なったところで―――射る。鉄製の鏃が付いた矢はもう今までの逃亡中の敵兵との戦いで使いに使っていた。今射た矢も敵部隊の長を確実に仕留めるために取っておいた鉄の鏃の矢を使ったのだ。
「―――」
オレが射た矢はヒュンとまっすぐに敵兵目がけて飛んでいき、かの者の右頸に命中して悲鳴も出さずに串刺しにした。
動揺して慌てふためく敵兵達に向かって続けざまに、オレは今度は石製や骨製の鏃が付いた矢を使い射かけていく。一人、二人と・・・十人が悲鳴と共に地面にうずくまっていく。逃げている最中に矢をたくさん作っておいて本当に良かったと思える。次のオレの狙いはルメリア帝国製の槍を左手に持って剣を腰にぶらさげている将兵だ。
「・・・・・・」
左手で弦を握り締め、右手で鉄の鏃の矢を番えてキリキリと弦を引き絞る。狙うは奴の胸の上、首の下、つまりは急所だ。とそのときだった、そのルメリア将兵と目が合ったのだ。
「!!」
だが、もう遅い・・・オレは引き絞った弓から右手を離した。矢が風を切る音が聞こえた。オレが射た矢はみるみるうちに、敵兵に肉薄していく。オレは、自分の放った矢が将兵に命中すると思っていた。しかし、将兵が槍から手を離して腰にあった剣の柄を左手で握ったのだ。・・・まさか、こやつ―――オレの矢を払い落すつもりか?
その瞬間オレが放った矢は敵の将兵の円弧を描く斬撃の前に叩き落とされた。
「クソッ」
次の矢を矢筒から取り出そうとして―――瞬時の判断、やはり遁走したほうがいい。敵兵達の軍団から早く距離を取らなければなぶり殺しにされるだろう。オレは愛馬の手綱と鐙を執ると、愛馬と共に一目散に駆けだしたのだ。
「こっちにいたぞーッ!! 追え、追えーッ!!」
後ろ手にちらっと見れば、その者の声に気づいた敵兵の歩兵達がぞろぞろと集まってくるのが見て取れたのだ。
「クッ!!」
オレは馬を反転させて森の中を駆け逃げる。どうやら敵の軍団はここらの森一帯を広く散開していたようでオレは取り囲まれてしまったようだ。だが、おかしい。このように早くオレの居場所が見つかるということは、ここいらの原住民がオレを売った可能性が高い。まだ自分達が国を持っていた頃にはここいらに住む原住民は我々エヴルの民に服していたはずなのだが、なんと変わり身が早いことか。
「まだオレは死ぬわけにはいかない」
それにまだオレは死んではいない、天神によって生かされているのだ。
「ッ!!」
そのとき、オレの前に立っていた木々に敵兵達の矢がタタンっと小気味のいい音を立てながら数本が刺さったのだ。
「痛ぅ・・・!!」
そのとき脇腹に鋭い痛みが走ったのだ。自分の体躯がよろめいて落馬しそうになったのだが、改めて手綱を掴む手に力を込めた。しばらくして脇腹の鎖帷子がすぅっと紅く染まっていくのが分かった。幸い、騎兵鎧のおかげで身体の六腑まで敵兵の矢が達していることはないだろう。
だが、自分自身にとって初めての大きな傷であるのには違いない・・・。背中側から腹側まで自身に刺さったままの矢に手を掛けて・・・だがオレは矢を握っただけで手を止めたのだ。
「抜いてはだめだ・・・」
抜けば抜いた矢傷から血が噴き出すかもしれない。そのような嫌な想像を頭の中から払いながらオレは馬を走らせた。どこをどう逃げたのか。そうして自分が辿り着いた先にオレは絶望するのだ。むしろ敵兵達に追い立てられながら、彼らにここに誘導されたというのが正しいのかもしれない。だが、オレはまだ斃れてはいない。敵の前に首部を垂れていない。オレは進む。オレは勇敢に進んでいきたい。オレが、オレ達草原の民が信ずる天神はそのような者に力を与えるという。
「―――!!」
オレが追い立てられた場所というのは、そこはもう逃げ場のない流れの早い河に行き止まった背水の陣というべき崖の上で、オレに追いついた敵兵どもが手に槍と剣と楯を握りながら、扇型の陣形に散開し、じりじりと様子を見ながら迫ってくるのだ。
「――――――・・・」
進んでも道がないというのなら、オレは勇敢に足掻いてやろう。オレは父王や姉がそうだったように勇ましくルメリア帝国軍の兵達と戦ってやろうッ!! オレは敵の前に跪くこともしたくないし、頭も垂れたくはないのだ。敵兵を前にしたとき、オレはいつも勇ましく、また賢明でいたいのだ。それが草原の民というものだ。それを怠れば死ぬ、と言われている。天神の恩寵をなくすといわれている。
「クククク・・・ハハハハハ アーッハッハッハッ!!」
自然に笑いが零れる。そうするともう心までもが軽くなってくるのだ。天神よ、天女神よ。オレの父であったトゥグリル・ハンよ、姉よ、親衛隊の者どもよ・・・このようなオレをどうか死者の国から見ていてほしい。
「・・・・・・・・・」
すまない、オレの愛馬よ。もう少しで終わる、ここで敵の追手達をみな蹴散らせばそれで終わるのだ。・・・そう思って微笑みかけると彼も今大きく一度、嘶いた。
「ハアアアァァァッ!!」
それと同時にオレも刀の柄を手に持って握って揮って敵のルメリア兵の真っただ中へと跳びかかったのだ。
自分に向けてくる敵兵の槍の鋩を避けながら木製の柄をオレの刀で切り、叩き、折った。愛馬に騎乗して相手の頭上から敵兵に肉薄し、オレの気迫に怯えた顔を見せた敵歩兵の頭上から刀を振り落としに振り落した。紅に染まる空。紅に染まる地。敵の紅を浴びて染まっていく自分自身の姿―――
「ッ!!」
だが、オレが刀を激しく奮っても、どれだけ敵を生き別れにしても、倒れた敵兵を愛馬が踏みつけても―――
「グッ!!」
背後から敵兵に斬り付けられて―――
「お返しだ、受け取れ」
その敵兵を刀の湾曲部分で薙ぎ斬り続け、刎ね飛ばし「ギャアッ!!」という敵兵達の多くの断末魔の叫び声を聞いて。
「お前達のような錬度の低い雑兵達にオレが殺せるか?」
オレを殺そうとした敵兵の槍を掴んで、その槍を奪い取り、ぶんぶんと円を描くように振り回して薙ぎ払う。
「グアァァッ」
「ギャアァァッ」
「ァァッ!!」
「―――ァァッ!!」
敵兵達の悲鳴と怒号が多く聞こえてきて、それでもいくら敵兵達を斃しても、彼らはどこからともなくわらわらと湧いてきて、オレの体力を、自由を奪っていくのだ。そうして騎乗のオレは徐々に先端のほうに、落ちたら即死であろう、崖のほうに押し出されていく・・・。
「ハァ、ハァ、ハァ・・・!!」
奪った敵の槍はもうすでにぼろぼろに刃こぼれをしていて、使い物にならなくなっていた。そこでそれを適当な敵兵に投げつけた。
「ギャアッ!!」
敵兵の断末魔の悲鳴が聞こえたが、その者がどうなったかなど分からない。そのような者に注意を向けていられるほど、今の自分には余裕がなかったのだ。それよりも、そこいらの雑兵達の、ルメリア軍の司令官はどこにいるのだろうか。その者を探し当て始末すれば、なんとか活路が見いだせるだろう。
「ッどうした―――!!」
突然、オレの愛馬が嘶いて、オレはそれを見る。
「―――ッ!!」
オレの愛馬が敵兵の槍によって串刺しにされていた。
「お前か・・・―――!!」
オレは鐙から立ち上がって、その敵兵、目がけて跳びかかったのだ。
「ひぃッ!!」
愛馬に刺さったままの槍を握り締めていた敵兵はオレの表情に恐怖していた、ように思う。オレは両手で刀の柄を握り締めて勢いよく、その鋩から刀身にかけて、かの者の鎖骨を割り斬りながら心の臓に向かって深く深く突きおろし斬った。男の身体を右足で蹴り押さえて刀を引き抜くと、か細い悲鳴と紅い鮮血と共に男はその場に崩れ落ちた。
敵兵達はまだずいぶんと残っていて、だが敵兵達に厭戦の雰囲気が漂い始めたそんな頃だったのだ。
「何をしている、たかだが一兵になぜこんなに手こずっている」
その重厚さは、まるで響き渡る滝の音のようだったのだ。そのような声の大男が現れたのだ。敵陣の後ろより出てきたこの大男はおそらくこのルメリア帝国軍団の軍団長だろう。
「歩兵達よ、さがれ」
前に陣取る、剣と槍と貧相な装備を着込んだ歩兵達の陣形がすぅっと左右に別れた。その真ん中を一人の大きな戦斧を手にした大男が歩いてきてオレの目の前でその脚を止めたのだ。
「私はルメリア帝国皇帝陛下アレクシウス様の第一の将軍であり、皇帝侍従長ニコラウス=フィロスである」
見た目はオレよりずっと年上で、オレの父と同じぐらいだろうか。その重厚で野太い声の主の大男の眼光は鋭く、手を出さずとも、その気迫だけで獅子や熊といった猛獣をいとも簡単に従えてしまいそうな、そのような大男だった。その者は髭を蓄え、戦斧を携えて豪華な鎧に身を包み、また銀に煌めく兜を被っていた。どう見ても軍を率いる将軍だったのだ。
「―――」
オレは声を出さなかった。いや出せなかったのかもしれない。
「貴公をエヴルの王国の王子、アルスラン殿とお見受けする」
ニコラウスと名乗った大男の声は低く重厚さを感じさせるものだったのだ。なぜ、オレの名をこの大男が知っているのか、また、なぜオレを見ただけで、エヴル・ハン国の王子であるオレ本人と分かったのか―――。彼ニコラウスのその気迫は有無を言わせず、否応なしにオレに迫るものだったのだ―――