中編
それからも、黒装束のこびとは度々、里奈の前に姿を見せた。
こびとはいつも彼女が寝ていると思っているようだったので、それを利用して里奈はこびとを観察する。
彼女の住処は押し入れの上にある天袋だ。
基本的に活動してるのは里奈がバイトで留守をしている時間と思われるが、休みの日などは夜中に活動している。
深夜、里奈が寝静まるの待って(里奈的にはまだ寝る前のぼーっとしてる時間なのだが)補充したばかりで数が増えたステックシュガーを一本抜き取り、背中に背負って梁を伝って天袋に帰って行くのを見た。
またある夜は、玄関扉の新聞受けに縄を引っ掛け外に出ていくのを目撃した。あとでネットで検索して忍者の道具に【鉤ばしご】というのがあって、里奈はこれかぁと感心した。
そして、里奈はさりげなくベッドの下に要らなくなったものを落とす事にした。
安全ピンやヘヤピン、輪ゴムなんかは転がしとき易い。
二、三日でそれは姿を消すし、運が良ければ拾いにくるこびと忍者を見ることができた。
しかもこの小さな同居人は、小さな優しさを里奈に見せてくれる。コタツで本当にうたた寝してしまった時に起こしてくれるのはもちろん。
出勤前に慌てて飛ばしてしまったピアス止めが見つからず諦めて別のピアスをしてバイトに出かけ、帰宅するとコタツの横にいつも使っているブラシが転がっていた。
慌てて出かけたから片付けわすれたか?と拾ってみるとそのブラシの毛にピアス止めが刺さっていたのだ。
もし、里奈がこびと忍者に気がついてなければ『こんなところにあったのかぁ』と思っただろう。
でも、里奈にはそれが優しい小さな同居人の仕業だとピンと来た。
「ナンダーコンナトコロニアッタカァ、見つかってよかったぁ」
最初が少し棒読みみたいになってしまったが里奈は感謝の心を込めて声に出した。
こびとというファンタジーな存在は世間に受け入れられないだろう。彼女が隠れて暮らす事を選んでいるなら、里奈は気がつかない振りをしなければと考えてそれを実行していた。
それでも、いつの間にか住み着いた小さな同居人を里奈は友人のように感じていたのだった。
だからだろうか……心が弱ったあの夜。
その友人に甘えたくなったのだ。
それは2月で、バレンタインに乗っかってハート型のチョコレートやバナナのくり抜き、ピンクと白のスプレーチョコといった見た目も味も甘すぎるチョコレートパフェバレンタイン風なるデザートが出まくっていた週末。
明日から久々の連休だから、今日を乗り切れば他人ばかり甘ったるい日々は終わる。そして、出来ればその甘い空気に紛れて自分も恩恵に与れたらとコタツの上に鎮座する小さな箱に目をやる。
ブラウンの光沢のある包装紙にピンクのリボンにはゴールドの縁取り。
紛れもなく中身はチョコレートである。
里奈のアルバイト先の喫茶店は都内に数店舗の支店を持つバルブ時代を彷彿とさせる内装の古き良きザ・喫茶店だ。
当然、店長はもちろん社員だが、他に最低一人は担当の社員さんがいて新メニューや季節のメニューを企画し、各店舗できちんと統一化している。
里奈のバイト先にその担当社員さんが派遣されて半年、密かに想いを寄せていた。
年は一つ下だか同学年の彼、木山さんとは話題が会う。
休憩中や時々ある呑み会で話をするうちに、独身で彼女がいないという情報を聞き出し里奈は彼をどんどん意識していった。
彼は里奈を《できるアルバイト》と誉めてくれ「社員にならない?」と誘ってもくれる。でもそれは同僚の域をでないとわかっている。
なので、バレンタインを期に恋愛対象として意識してもらいたいと思った。
いつもより、ちょっぴり私服を甘めに、髪型も編み込みをいれて毛先を巻いてみる。
引っ詰めのポニーテールを三つ編みでまとめるのがいつものスタイルだけど、今日の里奈はバイトの規定範囲内でなんとか工夫して女子を演出してみた。
「いい年こいて……」
昼からのシフトに間に合うように夢中で仕上げた鏡の中の自分にツッコミしてみるが、想い人に少しでも意識してもらいたいという気持ちが勝る。
しかし、もう一度鏡を見て、頑張ってこれかぁ……と落ち込みもする。
自分の恋愛遍歴を思うと望み薄な仕上がりだとわかってため息がでた。
「がんばれぇ~」
それはまるですきま風のような微かな音だった。
鏡の前で吐いた息の音に重なるように聞こえてきた声。
里奈が小さな同居人の存在を知らなければ空耳とさえも思えないほど微かな声音。
隠れていることを忘れ思わず声が出てしまったのかもしれない。
そう思うと里奈は落ち込んだ心がふわっと軽くなった気がした。
──こびと忍者、ありがとう。
応援して貰えて勇気が出た。
とりあえず、女として意識して貰うところからだ。
──告白とかいうレベルじゃないんだから、気楽に行こう!
元々、このチョコレートを渡す口実は『日頃、お世話になっているのでそのお礼に』なんて義理チョコですよと言わんばかりの言葉を添えるつもりだったのだ。
会社と同時に彼氏も無くなり、恋心を持てるだけの余裕がやっと里奈に生まれたのだ。
ついつい、及び腰になる彼女には今はこれが精一杯なのだった。
「よし!」
チョコレートを鞄にいれて、いつもと違う明るい色のおしゃれコートを着る。
「いってきます」
独り言のようにいつもは呟くだけだったそれを、今日は明確に後ろにかけて里奈は玄関を出た。
* * *
「たらいまぁ~」
酔いが呂律を怪しくさせる。
ふらふらと登った階段はこんなに長かったか? と里奈は膝に手を置いて息をした。
鍵穴に鍵が刺さらないという有り得ない現象を乗り越えてなんとか玄関に転がり込む。
鞄の中身が玄関にぶちまけられるが、里奈は知ったことではない。
ふらふらとアルコールの匂いを撒き散らしながら冷蔵庫までたどりついて、二リットルの麦茶のペットボトルをそのまま口をつけてのんだ。
「ふはぁ~」
冷たいお茶が胃に流れ込む感覚。思考が廻りはじめる予感がして、いかん! と里奈は慌てて玄関にぶちまけた荷物を拾いにいく。
──考えたらダメだ……泣きそうだ。
何か作業をしてないと酔いで緩くなった感情が溢れそうだった。
──カツン
里奈はぶちまけた鞄の中身を拾いに玄関に踏み入れたその一歩目で小さな茶色の甘いリボンが憎たらしい箱を引っ掛けてしまった。
朝はあんなに可愛いらしい愛おしいラッピングが今や悲しみの根源でしかない。
糸目をさらに細くして彼女はそれを拾う。
ドスドスとこの時間では有り得ない音を立てて移動してコタツの横にあるゴミ箱に
──バスッ!!
と力任せに投げつけた。
そのままベッドに倒れ込む。
冷たい布団に酔いで火照った頬が心地よく、そして虚しかった。
体が止まると暖房も、明かりさえもつけない部屋の寒さが里奈に襲いかかる。
「さむっ!」
枕を抱えてベッドから降り、コタツに肩まで潜り込む。手探りでスイッチを入れて枕に頭を乗せた。
『ちゃんと見えてんの?』
それは今日、注文ミスをした新人のフォローで謝りにいったテーブルのお客からの嫌みたっぷりな一言だった。
『ねぇ、あんた寝てたんでしょ?』
会社に務めていた時に、システムが変わってトラブルが頻繁に起こるフォーマットに悪戦苦闘し、残業しなければいけなくなった時の先輩からの嫌みだ。
『ちゃんと、見ろ!』
新任の先生から言われる一言に、周りはまたかぁと忍び笑う。「みてます」と言えばクラスメイトから「糸目ちゃん、ちゃんと見えてますよ先生」と助け船がでる。
それでも、傷つく時もあった。
──でも、今回は私がちゃんと見てなかったんだよなぁ
そんな思考に沈んでいると
──トスッ
ベッドの布団に軽い物が落ちる音がする
そして、里奈の視界の端に黒い小さな人影が動く。
ベッドの足をスルスルと音もなく滑るように畳に着地して、そこからこちらを伺っている。
里奈は微動だにしなかった。
こびと忍者と勝手に名付けた同居人をただ見つめる。
こびと忍者は、しばらくこちらを伺って里奈が寝ていると──いつものように勘違いして、こそこそと近寄ってくる。
近寄ってきながら、「うっ」と小さく息を詰めた。里奈の呼吸にはまだたっぷりとアルコールが含まれているだろうそれに顔をしかめた。
それでも、こびと忍者は使命のように里奈に近づいてくれる。いつもの様に起こしてくれるつもりなんだと里奈は思った。
思って、独りじゃなかった事にホッとして、いろいろ緩んだ。
──ガシッ!
「え?! きゃっ!!」
コタツから素早く手を伸ばし、その小さな体を掴む。
「寝てないからね」
「ひっ!」
こびと忍者が手の中でもぞもぞと動く感覚は、昔、ペットショップで触らしてもらったハムスターが逃げようとしてる感覚に似てる。
潰さないように両手でガッチリ包み込む。
顔を覆う黒の覆面から小さな瞳が飛び出すの? というくらい見開かれている。その黒い瞳はうるうると涙を溜めている。
小さくてもくっきりとした二重に、肉眼でもわかるほど睫毛がふさっとしている。里奈が付け睫毛でどれだけ頑張っても醸し出せない目ヂカラが羨ましすぎる。
「白い花の書いてある和風の赤いピアスあげるからさぁ」
うるうるする瞳にプルプルと震えるこびと忍者に、里奈は己の突然の暴挙に罪悪感を刺激されつい離してしまいそうになるのをなんとか耐えて言い募る。
「なんでも、持ってっていいからさぁ……だから……お願い……」
独りになりたくなかった。
こんな夜中に、独りで泣きたくなかった。
捕まえたその手の中の温もりに涙腺が緩む。
「愚痴……きいてよぉ」
目の前の、小さな女の子に懇願する。
涙が後から後から流れて
「いい年した……私の……しつ……れん」
涙で滲んで、小さなその瞳の判別がつかなくなったが、もぞもぞと動いていた手の感覚がピタリと止まる。
それを合図に里奈は、涙ながら今日の顛末を話し出した。
いたってありがちな話。
アイドルタイムで補充の備品を倉庫に取り行った時に立ち聞きしたのだ。
「今夜、遅くなるから先にホテル入ってて」
電話してる木山さんの声。
「……ごめん。どうしてもシフトが……でも、今夜は寝かさないから」
相手の声は聞こえないけど、木山さんの甘い声が、耳に粘り着いた。
──彼女……できてたんだ……
失恋が確定して沈んだ。
でも、まだこれだけなら涙は出なかったと思う。
「木山さぁん」
大学生のバイトちゃんがこちらにやってくる。木山さんは仕事を理由にしながら慌てて電話を終わらせる。
里奈はとっさに物陰に隠れた。
それは、ここで立ち聞きしたのがバレるのが嫌だったし、自分が今酷い顔をしてるかもしれないと思ったから。
「今晩のディナー楽しみですぅ」
バイトちゃんの鼻にかかった甘えるような声。
「俺もだよ」
答える声もまた甘い。
「これで上がるから、路面電車側のファーストフードで待ってるね」
「可愛い格好を他の男に見せたくないから、窓際には座るなよ」
木山さんはまた甘く囁いて、続いたのはリップ音とバイトちゃんの艶っぽい吐息。
「うん♪」
うっとりと呟かれるバイトちゃんの声。
考えてみたら、木山さんは夜のシフトには入ってない。あと一時間もしたら上がる予定だ。
だから、里奈は彼が上がる時にチョコレートを渡そと思っていた。
里奈は店長とクローズまで働く予定だったが予定変更は聞かされてない、彼の電話はまずおかしい。
ショックで思考が至らなかった事実に気がついて、さらにこの会話。
──二股!?
爽やかで誠実で、呑み会の時すっとチェイサーの水をくれる木山さん。
「糸目ちゃんいると俺安心して事務できる」と微笑む木山さん。
キッチンにヘルプに入った里奈に、こっそり試供品のケーキをフォークで食べさせてくれた木山さん。
思い出がフラッシュバックする、しかしそれはピシリと嫌な音をたててヒビが入っていく。
目の前をルンルンと走り去るピンクの可愛らしいコートを着たバイトちゃんは、甘い香水の香りがした。
──ブゥーン、ブゥーン
と木山さんの方からスマホのマナーモードの音が聞こえる。
「うん、今夜は仕事の呑み会だからそっちには行けないよ……俺も淋しいし、お前がいなくてツラい……ごめん明日……うん、その分ちゃんと埋め合わせするからさ」
──え? お前がいなくてツラい? まさか?
里奈が青ざめていくなか会話は続く。
「えー大丈夫だよ……女は狐顔の……はは、そうあのオバサンだけだから、なんかあったらキモいだろ?」
──狐……顔……それって……
「だから大阪は無理だって……明日はこっちに来るんだろ?……新幹線の出口でまってるから……好きだよ」
木山さんの三股より、彼の声で言われる嘲笑を含んだ狐顔やオバサンだけでも辛いのに、『なんかあったらキモい』がさすがの里奈の心を折った。
そこからは、余りよく覚えてないけど電話を切った木山さんが去るのを待って備品を取りったと思う。
バイトが夜シフトの子達に入れ替わって、甘ったるいパフェをいくつも作りる。カップルだらけのディナーを乗り越え、クレーム対応し、店長と店を締めた。
店から家までいつも乗るバスを待たず、家へ向かって歩き出す。途中のコンビニでビールとチューハイを買い、飲みながら家にたどり着いた。
「あたしはねぇ、こんな目だけどちゃんと見えてんのよぉ!」
おいおいと泣きながら里奈は小さなこびとに愚痴をはく。
こひどを掴んでいた右手はコタツの上にあり、こびとを緩く囲っているだけで拘束はしていなかった。
「でも、男を見る目はぁ……無かったっ……みたいぃ~オバサンって!同い年だろ!!」
泣きじゃっくりで途切れながらも最後は叫んで言い切ると、ううっと突っ伏しした里奈はそこからは只泣いた。
どれぐらい泣いてただろか、吐き出してしまえばそれは本当に愚痴でしかなかった事に里奈は気がつく。
そして、握っていた筈の手は既に完全に緩められ、手のひらを上に無造作に投げ出されていた。
でも、手のひらにはほんのりと重さと暖かさ乗っていて、里奈の親指を撫でてくれているのを感じた。
「始めてもないのに、終わったことよりね……」
その優しい感触に里奈はポロリポロリと心の底にこびりついてる事をも吐き出していく。
ショックではあったが、ある意味ではろくでもない男に引っかからなくて済んだといえばそうだし、自分の想いも随分上辺だけを見ていた勝手な思い込みといえば、そうともいえた。
失恋よりも深く傷ついたのは、恋愛対象で無かったとしても、信頼されてると思っていた相手から、蔑みを隠さない言葉を影で言われていた事。
恋愛対象なんて雲の上のそのまた上、実はそれどころか笑われていた事に悲しくて、悔しくて、やるせなくて。
でも、勝手な理想を相手に当てはめてた自分が情けなかった。
「表面しか見えてなかったんだなぁ……いや、きっと見たいものしか見てなかったんだなぁ……このほっそい目はさぁ」
黙ってじーと話を聞いてくれる優しいこびとに里奈は呟いて、愚痴を終わらせる。
左手で涙を拭いて、鼻を啜った。
「聞いてくれてありがと」
ゆっくりとこびとが乗っている右手を傾けると、彼女は素早く立ってコタツの天板にピョンと降りる。
「逃げないの?」
コタツの上にあるケースからティッシュをとって鼻をかんで里奈はこびとに聞いてみる。
「あたし……」
きちんと聴いたその声は澄んでいて、まるで鈴を鳴らしたように愛らしい。
覆面をゆっくりと外しながら彼女は私と目を合わせた。
小さな人の小さな顔に、比率からしたら大きい瞳がまたうるうると潤んだ。
さっきは怖がっていたけど、今度は多分……
「愚痴なら聞くよ」
里奈は恩返しとばかりにそう言って微笑んだ。
うるうると溜まっていた涙は瞳から溢れ出し、おかっぱという表現がしっくりくる漆黒の艶々た髪を揺らしてこびとは泣き出した。
「あたし、の……能無し、なんです~」
ダバダバと流れ出した涙はまさに滝のようだった。