1.オヤジたちは語る
「ウチの馬鹿が大変な迷惑をかけてしまったようだな」
手にしたチェスの駒を進めながら、そう切り出してきた親友の男に、対面の席に座っていた男は、面白くもなさそうな表情で頷いて見せただけだった。
「なに……。良い機会だったから、あの馬鹿坊主の望んだ通りに、全てを取り計らってやっても良かったんだがな……」
コトリと駒を置くと同時に、そのへの字にひん曲がっていた口からため息が漏れた。
「……どうした、ため息などついて」
「いや、な。……ウチの馬鹿娘がなぁ。……許してやってくれってな。……廃嫡だけは勘弁してやってくれって……。もう一度だけ、彼にやり直すチャンスを与えてやってくださいってな風に、大泣きしながらすがられてはなぁ……。いかに今回ばかりは腹に据えかねたとはいえ、流石に容赦なく叩き潰してしまえという訳にもいかなくなって、なぁ」
まったく。あんなへなちょこモヤシの何処に惚れたのやら……。
そうため息混じりに漏らした男に、向かいの男も苦笑を返していた。
「あれはもはや病気だ、病気」
「フッ。周辺国から“鬼将”とまで呼ばれているロジャー・ゴールド辺境伯でも、流石に愛娘の涙には勝てなんだか」
「抜かせ! 出来の悪い馬鹿ほど可愛いものだとか言って、いつもかつも甘い処分しかしてこなかったから、こんな下らない騒動を許したんだろうが!」
「まあ、それについては、こちらとしても耳が痛いんだがな……」
「……とはいえ、それはこっちも同じ事、か」
やれやれと、そう二人してため息をついてしまう。
結局の所、自分達の我が子への甘さが原因となって呼び込んでしまった事態だったのだ。
それが互いに分かっていたからこそ、必要最低限の関係者の処分だけでどうにかこうにか事件そのものが丸く収まりかけていたのだから、そんな所に、これ以上の余計な波風などは立てたくなかったのであろうし、方々の関係者や周囲の者達からも、未来のある若い彼らに余り厳しい処分はしないでやってほしいと頼まれていたりもしたのだ。
トラブルの内容が恋愛感情絡みの物であった事もあって、ある程度のエスカレートは内容が内容だけに仕方ないだろう的な同情の声も多数寄せられてもいたのだろう。
「……正直、な」
「うん?」
「今度こそ、うちの馬鹿息子も見捨てられる事になるのだろう、とな。……そう思って、それなりに覚悟はしていたし、裏で準備の方も進めていたんだがな……」
元々、王族の側から「そちらのお嬢さんを是非、うちの頼りないバカ王子の嫁に頂けないでしょうか。よろしくお願いします!」とばかりに、頭を下げる形で本来、婿取りをして実家に残す予定だったマリーに王妃として王族に嫁入りして貰う事を了承して貰っていた様な、そんな歪な関係だったのだ。
無論、互いに幼い頃からの友達同士という関係にあった事に加えて、小さな頃から『私、大きくなったらハイドラ様のお嫁さんになるの!』と公言してはばからなかった、お目々がハートマークな愛娘からの必死の懇願があったという背景があったはいえ、それだけで「わかりました。はい、どうぞ」と簡単に手放せるような存在では決してなかったというのが、恐らくは問題の根底にあったのだろうが……。
「何故、あの子は……。あんな凡夫に、あそこまで惚れ込んでいるのか……」
そう思わず漏らしてしまった言葉からしても、第一王子という立場にありながらも、そんな我が子の事をまるで評価していないらしいというのが見て取れるのだろう。だが、逆に言ってしまえば、何故、そんな頼りない存在をいつまでも第一王子という、王位継承権の最上位という立場に置いたままにしているのかという別の疑問も湧いてきて然るべきだったのだろうが、そこには当然のように高度に政治的な判断というヤツがあったりしたのだろう。
──将来の、あの子に王妃としての権力を与えるためだけの政治的地位であったのだが、それが、あの阿呆の増長を招く結果になってしまったのかのぉ……。
そう表情を歪めながら思わず『失敗だったか?』と考えこんでしまっていた男に、向かいの席に座ったロジャーが駒を進めながら声をかけていた。
「まあ、お前の気持ちも分からんでもないんだが……。とりあえずは、そのへんにしておけ。あのバカボンが、他の連中に比べて特別酷いという訳でもないんだ。他の多少出来の良いらしい兄弟達から見たら確かに劣っているのかも知れんが……。所詮は誤差程度の話。目くそ鼻くそ程度の差にすぎんだろうに」
「まあ、な」
そう指摘されるまでもなく、今の段階ではまだどんぐりの背比べ程度の話でしかなく。むしろ同年代の者達とくらべて余りにも突出し過ぎている能力を持つ存在が一人だけ居た事で、その他が全てが尽く劣って見えてしまっているという事が問題の本質であったのだから。
「……だったら、良い加減、あの青瓢箪の事を少しは認めてやるんだな。あのうらなりの糞坊主、オツムの方は相変わらずイマイチらしいが、根性だけは超一流だったぞ」
なにしろ味方からでさえ、鬼面とまで呼ばれていた傷顔のワシに向かって、齢十歳で『お嬢さんをお嫁に下さい!』とか抜かしおったからな。『糞ガキが、何を舐めた台詞を抜かすか!』と大声でどやしつけてやっても、涙目になりながらではあったにせよ、必死に踏ん張って儂を睨んできおった。
そう直前まで自分がこき下ろしてきたはずの若者のことを持ち上げてみせるロジャーだったが、そんな言葉を聞いても表情は、何処か晴れていなかった。
「確かに、あ奴の根性だけは人並み以上であるのは認めてやってもいいのだが……」
だがしかし、と言うようにして、首は横に振られていた。
「それだけ、ではな……」
「まあ、なぁ……。もうちょっとオツムの方が残念でなかったら、言う事はないんだが……」
根性があるのは良い。無いよりかは有る方が何百倍も良いからだ。特に王という立場に立つ者には人一番の根性と胆力が求められるものなのだから、それだけでも最低限の資質をクリアしていると言えたのだろう。……だが、逆に、そこだけクリアしていれば良いというものでもないのも事実だったのだろう。
いつかは他の部分でも見られるようになるかもしれない。
そんな期待を密かに寄せてはいたのだが、それを叶えることは未だに出来ていなかった。
「だからこそ……。どれだけ考えても分からんのだ。何故、あれほどの娘が、あんな凡夫を伴侶に選びたがっているのか。……それこそ、望めば、どんな相手でも……。王族であっても、相手は選り取りみどりであっただろうに」
しかも、それは酷く一方通行な代物でもあったのだから、尚更であったのだろう。
何しろ、婚約関係にありながら浮気同然の真似をされた挙句に、大勢の学院関係者だけでなく、外部からの来客者などの居る場所で婚約破棄まで宣言されているのだ。
そこまでされてなお、そんな相手の事を見捨てることなく、平然と許してみせた挙句に、以前と何ら変わりない……。いや、前以上の愛情を抱き続けているというのだ。
そんな歪でひどく一方通行に見えてしまう関係が普通ではないと感じても、それはむしろ当たり前の事だったのかもしれなかった。
「正直な所、マリーの奴が何を思って、あのウスラトンカチの青瓢箪に惚れ込んでいるのかは、さっぱり分からんというのが本当の所だ。……ただ、本人の言を信じるのなら……」
自分は彼によって救われた。だから、今度は自分が助けたいのだ、と。
そう、言っていたのだとロジャーは面白くもなさそうに口にしていた。
「救われた……?」
「……ああ」
そしてロジャーは一つ溜息をつくと、道具入れから事前にタバコの葉を詰めておいたらしいパイプを持ち上げると、その指先に無造作に火を灯してスパスパとやり始めていた。
「……この話をするのは初めてだったかも知れんな……。だが、これは、我が家の“恥”に関する話だ。今から聞く内容は、この場限りという事で頼むぞ」
「あいわかった」
そう部外秘の話であることの確認を済ませると、少しだけ遠い目をして。そして、ため息混じりに煙を吐き出していた。
「……あの子は酷く早熟だった、そうだ。……そうだ、というのは儂はその頃、丁度、家を空けていたからだ。……隣国との小競り合いが起きていたせいで、国境の砦に兵を率いて詰めていてな……。その戦が予想外に長引いてしまっていた事が、色々と家の中で軋轢を起こす原因にもなってしまっていたのだ」
何しろ、それまで領内の政を全面的に担ってきた領主であるロジャーが、長い事現場を離れて遠方で戦闘の指揮をとっていたのだ。
その間に領主代行を任されていた者達によって、ある程度であったにせよ内務処理などがつつがなくこなされていたとはいえ、それでも領主が不在であったのだから全てが通常通りとは流石にいくはずもない。
予想を遥かに超えて長引く事になった戦によって、領内の空気も次第にどこか淀んできてしまっていたような……。そんな頃の出来事だった。
「儂が不在にしていた間に、いつのまにやら末の娘……。マリーが生まれていたらしくてな。その事自体は無論、喜ばしい事であったのだが……。その子は、生まれた時から色々と“おかしかった”のだそうだ」
生まれた直後は、まだ普通というか、人一倍元気に泣き叫んでいる様な、ごくごく普通の元気な赤子だったらしいのだが、それからほんの数日経った頃には、まるで人が変わったかのように大人しくなってしまっていたのだという。
無論、生まれて間もない赤子に対して人が変わったもへったくれもある訳がないだろうという意見もあるのだろう。だが、気持ち悪いくらい様子が一変してしまった事で、まるで取り替えられっ子……。こっそりと妖精達によって、エルフとかの別の生き物の子にすり替えらてしまったのではないかとさえ、当時、噂されていた程だったというのだから、そのあまりの変貌っぷりにも想像がつくという物だったのだろう。
「どう言えば良いのだろうなぁ……。……まるで、子供らしくない……。あるいは、赤子らしくない子供とでも言うべきなのか」
無論、お腹が空いたり用を足したりした時など、他者の助けが必要な状況においては、ちゃんと大声で泣いて大人に知らせていたらしいのだが、それ以外の場面では殆ど泣きもせず、生まれて間もないはずの赤子があからさまに自分の感情をコントロールして見せていたというのだから、そんな様子を気味が悪がっても仕方なかったのかもしれない。
そして、そんな赤子のことを、まるで腫れ物に触るかのように接していた大人達を更に怖がらせる事態が発生してしまっていた。
生まれてまだ数ヶ月程度しか経っていないはずの赤子が、ある日、いきなり言葉を……。それは、未だウニャウニャとした発音が大半で、単語レベルでの発音すら怪しいような「ママ、マンマ、シーシー、ウンウン」程度の片言レベルの言葉使いではあったらしいのだが、それでも明確に、言葉による意思表示を試み始めたのが分かったというのだ。
そんな言葉らしき物を発するようになった赤子は、それからみるみるうちに言葉を完全に操れるようになっていきながら、その無垢だった瞳にも次第に知性によるものであろう理性と意思の光による深みを灯し始めていたのだという。
「そんなマリーと名付けられた早熟過ぎる女の子は、齢三才にして大人とまともに会話ができる程の知性と知識、教養を身に着けるに至っていたのだそうだ……。その子は随分と“貪欲”だったそうでなぁ……。言葉の次に文字の読み書きを覚えると、毎日、毎日、飽きることなく屋敷の書庫に篭っては、埃まみれになりながら本を読みふけっては、次々と高度な知識と教養すらも身につけ始めていたのだとか……」
そう一気に話しきるとフゥとため息をついて。
「……恐らくは、そういった部分は、小さな頃からまるで変わっていないのだろうなぁ。……あいつは小さな頃からずっとそうだったのだろう。何か目標を見つけてしまうと、それだけに、完全に集中してしまうんだ。……まるで周囲が見えなくなってしまう」
今ならまだ、理解の有る周囲の者達によって、そういった事態に陥らないように気を付けるようにと、こっそりと忠告されたりする事もあったのだろうが……。
「当時は、ただひたすらに薄気味悪がられていたせいもあって、それを止めようとする者など誰もおらんかったそうだ。……ただただ遠巻きに見ながら、そんな不気味な子供の気味の悪い奇行を黙って毎日見守っていただけ、だったのだろう。……いや、違うな。そんな“気持ち悪い”子供のことを怖がって、出来るだけ関わりあいにならないで済むようにしていただけなのだろう」
そんな行為の結果は言うまでもなかった。……家中での孤立である。
「……ふと気がついて我に返った時には、既にマリーはひとりぼっちになってしまっていたそうだ。……大勢の家人達がまじわって暮らしているような、広大な敷地をもつ館の中で、誰一人として心を通わせる相手もおらず、ロクに関心すらも向けられる事すらもなく。……たった一人で過ごす事を強いられていたのだ。それがどれほどの苦痛であったかなど、考えるまでもないだろうに……。だが、マリーの周囲の大人達は、その事に気がつけなかった。あの子は普通ではないのだから、今までどおり一人で好きにさせておけば良いといった態度で、関わりあいを持つ事もなく、ただ放置することだけを選んだのだ。……結果、孤立し、孤独の中で過ごすことを。それを周囲から強要されてしまっていたのだろう」
しかし、何もよりも不幸であったのは、そんな不遇な境遇に置かれていた子供の知能が普通ではなかったことなのだろう。
「……あの子は賢かったらしいからな。そんな無駄に頭の良い子であっただけに、そうなった原因が自分の奇行のせいであったことも察してしまっていたのだろうし、家人達や親、兄弟といった家族達ですらも、裏では自分の事を“化物の子”呼ばわりして恐れてしまっているという事も、薄々は気がついてしまっていたのだろう。……だが、それも無理もなかったと思うのだ。なにしろ当時、まだ四歳にもなっていなかった子供が、周囲の大人達と普通に会話出来ているだけでなく、彼らと何ら遜色ない仕事が出来るだけの能力を既に持つに至っていたというのだから……。しかも、それを独力で成し遂げていたとあっては、もはや同じ人間とは思えなかったのだろうからな……」
マリーは賢い子供だった。賢すぎる子供でもあったのだろう。だが、賢いだけでしかない子供でもあったのだ。……だからこそ、いつまでも初歩的な間違いに気がつけずに居た。
普通からかけ離れた振る舞いしか見せない子供が、周囲の普通の人間でしかない家人の目にどのように写っていたのか。
そんな簡単な事すらも想像していなかったし、理解も出来ていなかったのだ。そして、それが最悪の結果を招く原因にもなってしまっていた。
繰り返すが、マリーは賢い子供だった。非常に賢く、それ以上に極めて高い学習能力を併せ持って生まれてきてしまっていた。
そんな異常なほどにアンバランスな子供だったのだ。
……そう、まだ子供だったのだ。
だからこそ、初歩的な……。普通ならすぐ気がつくだろうレベルのミスを大量に犯してしまっていたのだが、その本来はミスにならなければならない判断間違いの結果をフォロー出来るだけの能力を併せ持ってしまっていたことが、恐らくは最大の悲劇の原因でもあったのだ。
「……つまり、どういうことなのだ?」
「なに、簡単な話だったのだ。……あの子は、単に、急いで大人になろうと……。大人達と同じ場所に立とうと必死に努力していただけだったのだ」
恐らくは生まれた時期に問題があったのだ。
未だ幼かったマリーが物心ついた頃、周囲の大人達は、全員が仕事に忙殺されていた。
領主であるロジャーが長いこと不在であったために、慣れない領主の仕事を残された全員で分担して、必死に処理していたのだ。
だからこそロクに構って貰えていなかったし、変に賢かったマリーは、それを仕方ない事と理解も出来てしまっていた。
そんな忙しそうな様子の大人達を見て、幼いマリーが何を思ったのか。
それは、とても心優しい想いだったのだ……。
──みんな、とっても、まいにちまいにち、いそがしそう……。すっごく『おしごと』がたいへんなんだね。……そうだ! わたしがおてつだいできたなら、みんなすこしはらくになるのかな!? みんな、よろこんでくれるかな!? ……うん。きっとよろこんでくれるよね。ほめてくれるよね! まりーは、かしこいね、すごいね、えらいねって、いってくれるよね! だったら、はやくおとなにならなきゃ! いっぱいいっぱいおべんきょうして、たくさんたくさんほんをよんで! はやく、わたしも、みんなとおなじになって、みんなのおしごとのおてつだいをできるようにならなきゃ!
……そんな余りに無謀な、無垢ゆえに無知な願いを。そして、その無茶な行いを、誰も止めなかったから。そして、誰からも『そんなに急がなくても良いんだよ』と言って貰えなかったから。周囲の大人達から苦笑混じりに『君はまだ子供なんだから、もっとゆっくりと時間をかけて大人になればいいんだよ』と諭されなかったから。
……だから、急いで大人になろうとし過ぎてしまったのかもしれない。
「周囲に気味悪がられた結果、必然として孤立する事になった。そんなマリーは、自分の努力が足りないせいだと思い込み、ますます自分を追い込むに至り、異常な知能の高さすらも垣間見せるようになっていた。そんな薄気味悪い育ち方をしてしまった子供を、周囲はますます化物の子だと恐れ、気味悪がり、厄介者扱い、忌避すらされるようになっていった……。儂がようやく戦を片付けて家に帰った頃には、あの子は、すっかりひとりぼっちになってしまっていたのだ」
孤独という名の猛毒に魂の髄まで冒されて、ひとりだだっ広い庭の片隅で、己の膝を抱いて震えて泣き暮らしていた一人ぼっちの泣き虫なマリーを、そんな魂の煉獄から救い出したのは、無知ゆえに怖いものなどなかった、ある種の勇気を心に秘めていた少年であり、愚かであるが故に何も考えずに、止められながらも周囲から化物扱いされていた少女をまるで恐れることなく、その異常な在り方を……。その存在すらも全肯定してみせたのだった。
『僕はハイドラ。お前、名前は? ……そうか、マリーっていうのか。良い名だな!』
そして、そんな無謀で無責任な行為こそが、おそらくはマリーの魂を捉えていた檻を壊す結果となっていたのかも知れなかった。
「お前も覚えているのではないか? ようやく長かった国境線での戦を終えて、隣国との和平交渉の段階にまで話をこぎ着けることが出来た頃の事だ。交渉の地に赴く際に、我が領に立ち寄っていただろう」
「ああ、覚えている。……あれはなかなかに面倒な交渉であったな。特に、川の中央にあった広大な中州部分をどちらの領有とするかで、最後まで揉めに揉めた記憶がある……。あれは、とてつもなく面倒な交渉だった」
「ああ、あの時の話だ。……その道中に、我が領に数日間、立ち寄っただろう。それほど長い時間ではなかったにせよ……。その際に、たまたま、あ奴が同行していて……」
その際に、王族としての仕事を学ばせる前段階としての、父の仕事を見学すべく同行していたハイドラが、たまたま一行が立ち寄る事になったゴールド辺境伯家の屋敷において、その庭の片隅で出会ったのが泣き虫なマリーであって。
そのいびつな育ち方をしていた中身はともかくとして、見た感じだけは同年代と大差なかった女の子を相手に、何も考えずに声をかけて、無責任に勇気づけて。もしかすると大して意識しないままに将来までも約束してしまっていたのかもしれない。
周りの人達にものすごく怖がられているし気味悪がられているから、こんな変な自分なんて誰からも相手されるはずがないとか何とか言っていじけて泣いていたマリーに、そんなのただお前が賢いだけの話じゃないかとでも言って。そんな風に、何も考えずに励ましていただけなのかも知れない。賢いことは良いことじゃないか。それを怖がるのはお前が変なんじゃなく、周りの奴らがおかしいんだとでも言い切って。あるいは、僕は、お前が変だなんて少しも思わないとか何とか自信満々に、何の根拠もなしに言い切ってしまっていたのかもしれない。そして、極め付きは……。
「……こんな自分の事を、誰も好きになんてなってくれるはずがない。夫はおろか、恋人にもなってくれる人など現れるものかとでも口にしたマリーを前にして、恐らくは大して考えもせずに言ってしまったのだろうな。……それならば、自分がお前を貰ってやる。お前を生涯の友とし、側に置く恋人とし、未来の妻にもしてやろう、と。……勿論、お前が大人になった時に、まだひとりぼっちで誰からも相手にして貰えていなかったならだが、とでも……」
恐らくは、その場の勢い任せで。大して考えもせずに。……ただただ目の前の女の子を勇気づけ、泣き止ませたるためだけに、その場のノリで、そう口約束してしまったらしいのだ。だが、そんな幼い日の約束が結果としてマリーを立ち直らせる切欠となったというのだから面白い。
「なぜ儂やマリーが、いつもブツクサ文句を言いながらも、それでもあの青瓢箪を見限らないのか。それが不思議だと、お前は常々言っていたな。……確かに、自分でも不思議だったのだが、恐らくは、これが本当の理由なんだろうと思うのだ」
当時のハイドラのやったことは、それほど特別な方法だった訳ではなかった。ただ無責任に「頑張れ」と励まして、相手の事情など一切考慮せずに「お前は、それでいいんだ」と全肯定して見せただけであり、そして……。
「あの子は昔から変に頭が良かったせいで、自分の殻に閉じこもってしまった時などに、無駄に……。それに、意固地に凝り固まってしまう事が多かった。そんな時に、何を言われても、それを常に悪い意味に解釈して……。それらが全て自分を責めている台詞だと、歪曲して受け取ってしまっていたのだ。儂が側にいて支えてやれなかったのが全ての原因だったとはいえ、そんな状態になるまで我が子を追い込んでしまうとは。……我が家の出来事ながら、ずいぶんとむごい真似をしてしまったものだ」
そんな誰の言葉も届かなくなっていたマリーの心に、たった一言だけ届いた言葉があったのだ。それは、ハイドラの「お前はそれで良いんだ」といった励ましの言葉であり「将来が不安なのなら、僕がお前を貰ってやる」と無邪気に約束してみせた事であったのだろう。それは暗に『ずっと守ってやる。側で支えてやる』と約束したも同然であったのだから。
「そんなアイツに、他人の言葉など……。ハナから耳には入っても、心にまでは届くはずもなかったはずなのに。だが……。あいつは、それをやってのけた。無意識のうちに最も正解に近い行動と言葉を選んでいたのだ」
ただ側に寄り添って、優しく抱きしめてやりながら、お前はそれで良いのだと在り方を認めてやり、何も否定しなかった。批判も叱咤もせず、ただ頑張れと励ましただけだった。
そんなぶっきら棒でありながらも不器用な優しさは。その不思議な温かさを持った熱が、マリーの心を捉えていた氷の檻と鎖をも溶かしてしまっていたのかも知れない。
「マリーは言っていた。自分は、ずっとお祖母様から頂いたこの名前が嫌いだった、とな。……名前の示す通り、ひどく性悪な嫉妬深い女に……。物語などによく描かれていたらしい“悪役令嬢”のようになってしまうのではないか、と。……ずっと不安に思っていたらしい。だが、あの日、あ奴に出会って、あの子は変わった。……自分の名前には、もっと違う意味もあるんだって教えて貰った、と。嬉しそうに……。はにかみながら笑っていた。あの日から……。少しだけ、変わったのだ。……もしかすると、自分の名前が好きになれるのかもしれないと。……そう、言って、楽しそうに……。嬉しそうに、はにかむようにして……。あの子は、儂らの前でも、ようやく笑えるようになったのだ」
それを成し遂げたのは。それは、紛れも無くヤツの功績であって。
「……だから、儂らはあ奴を見捨てられんのだろう」
自分では救えなかった我が子の魂を救ってくれたから。だからこそ、自分と愛娘は決して彼のこと見捨てなかったのだろうと。
「恩返しのつもりか」
「さあなぁ……。だが、誰かにマリーを託さなければならんとなったとき、それが出来そうな相手と考えたら、不思議とあ奴の顔しか浮かばんのだから……。まあ、仕方ないといえば仕方ない話なのかもしれんさ」
つまるところ、そういう話なのだろう、と。
そうロジャーは話を締めくくると「チェックだ」と無情にも告げながら、頬を笑みの形に歪めてみせたのだった。