1.檻の中からの告白
ゴメンなんて言わないよ。……ああ。
それが久しぶりに再会した兄弟の挨拶だった。
「こうして僕が塔に叩きこまれて、兄様が面会に来てくれたってことは……。多分、アイツは失敗したってことなんだよね……?」
ニコヤカに。いつもとほとんど変わらない澄んだ笑顔と弾んだ声で、冷たく硬い鉄柵で句切られた檻の向こう側から話しかけてくる。
そんな歳の離れた弟に。ロータス第三王子に……。もっとも、今はもう“元”と頭に付くのだろうが。それでも元の立場によって、こんな特別な場所に隔離するようにして幽閉された少しだけ歳の離れた弟に……。そんな相手を前にして、ハイドラはどう自分から声をかけたら良いのか分からなかったのかもしれない。
「ねえ、兄様」
「……なんだ?」
「もし良かったら、なんだけどさ。……アイツって、ホントにミスったの? 僕の抱えてた駒の中じゃトップクラスに有能な奴だったはずなんだけど。……それか、僕が単に見限られて、そっちに鞍替えされたってだけなのかな……? 実のところ、ホントはどっちだったのか、教えてくれないかなぁ……?」
何故、そんな事を今更ながらに知りたがるのか。そんな怪訝そうな視線での問いに、相手も気がついたのかもしれない。
「えっとねぇ……。アイツが単に迂闊なだけだったのか、それともアイツなんかに任せちゃった僕が馬鹿なだけだったのか、それとも……。アイツが裏切るだろうって事を事前に見抜けなかった僕が大間抜けだったのか。……もしかして、大穴で僕らの動きが読まれてたってのもあったのかな? まあ、そんな感じで、どれが本当のミスの原因だったのかっていうのを知りたいんだと思う。……多分だけど」
そうじゃなかったら自分を納得させる事ができないからかな、と。そう、何処か言葉を選ぶようにして答えていた。
「……なんで、そんな事を……」
今さら何を知ろうとも。それこそ、今更何をしようとも、この結果は……。王位の継承権を取り上げられ、罪人として塔の牢に幽閉された。そんな結末には、何も影響しないはずなのに。それなのに、何故、そんな事にいつまでもこだわり続けるのか。
それをハイドラは理解出来なかったのだろう。
「それを知らなきゃ、この結末に納得出来ないから、かな……? 多分だけど、納得しないと、ここから一歩も前に進めないからだと思う。……でも、そういう事って誰にでも……。何にでもあるものなんじゃない? まあ、兄様には理解出来ないかもしれないけどさ。でも、それが僕にとっては多分重要なんだと思う。……だから、お願いだよ。教えてよ、兄様」
ごくごく軽い口調で。気軽に。無邪気に。それでいて偏狭的に。しつこく自分の破滅の切っ掛けになった事柄について訪ねてくる。
そんな弟にハイドラも僅かに苦笑を浮かべて答えていた。
「あの刺客の男。リコリスとか名乗っていたらしいが。能力の高さの割には意外に若い男だったそうだ……。そいつが何かミスをしたらしい。……マリーを直接襲ったそうなんだが、相手はたかが女一人と油断し過ぎていたのかも知れんな。何かしら罠にはまって、手痛い反撃による逆襲を食らって、そのまま捕獲されたんだそうだ。……後は、本人を尋問したら観念したらしく、雇い主などの情報を吐いた、と。……私は、そう聞いている」
そんなハイドラの言葉を一喜一憂しながらフンフンと反応豊かに聞いていたロータスだったが、全てを聞き終えると僅かに首をかしげて見せていた。
「へー。そうなんだ。……って、あれあれ~? ってことは、だよ? もしかして、アイツって、まだ生かしてたりするっぽい?」
「……ああ。今はマリーの配下に収まったそうだ」
「……は?」
自分を殺そうとした暗殺者を逆に雇った。そんなハイドラの言葉にロータスも唖然とした表情を浮かべてしまっていた。何故ならば、常識的に考えてみて、そんな事は余りにもありえなかったというか、端的に言ってしまえば、少しばかり頭がおかしい選択としか言わざるを得なかったからだ。
「……私も随分と奇妙なことになったとは思うが、そのあたりの詳しい経緯までは知らされていないのだ。……だが、色々と本人と話し合った結果として、最終的にはリコリス本人が鞍替えを望んだらしくてな。それを受け入れて、マリーが自分の手駒としたと聞いている」
変装術と潜入術に優れ、おそらくは暗殺術なども一通り身につけているだろう。それに加えて魔法使いとしてもなかなか優秀だったらしく、その技術と魔法を併用した変装については、自分の家の執事に化けられていたのに、それを容易には見抜けなかった程だったとか……。
そんな極めて優れた能力を持った密偵をどうやってか罠にはめて、おそらくは不意打ちではあったのだろうが絞め落とす事に成功したというマリーは、たった一言のセリフ『貴族の令嬢なんかに絞め落とされてしまう様な“間抜けな密偵”を雇う様な物好きって、私の他に居るのかしらね……』によって屈服させたらしいのだが、そんな事をこの場でわざわざ言うはずもなかったのだろう。だが、それも仕方なかったのかも知れない。
自分に雇われないというのなら相手を舐めすぎて致命的なミスをやらかした事や、自分のような無力な令嬢に格闘戦で負けた事を醜聞・悪評として広めてやると脅すような真似をした以上は、自分に雇われる事を了承したのなら、逆にその秘密については何が何でも沈黙を守ってやらなければならなくなるだろうというのは、必然の答えでしかなく。だからこそ、それは双方にとってのメリットのある取引でもあったのだろうから。
「いやはや……。相当な変わり者だとは聞いては居たけど……。彼女って、ホントに訳がわからない人だよね……。自分を殺しに来た刺客を身内に引き入れるとか聞いた事もないよ」
「まあ、そうだな。普通とは言い難いのかもしれん……。だが、訳が分からないのは、お前の方も同じなのではないか?」
「え?」
急に話を振られた事もあったのだろう。ロータスは歳相応な、何処かあどけない表情を浮かべていた。そんな相手に、ハイドラは、ひどくつらそうな声で訪ねていた。
「今回の騒動の裏にお前の影があった、と。……よりにもよって、お前が裏で糸を引いていたと……。あの女を使って私達をハメて……。それをわざわざクロッカスの仕業に見せかけようとしていた、と……。そうやって、私をけしかけて……。クロッカスと噛み合わせようとしていたのか……? マリーの言うとおり、私達の共倒れを狙っていて。……陥れようと画策していたというのか。……それを聞かされた時の、私の気持ちが……。あの時の私の絶望が……。お前に分かるか……?」
そんなひどく苦しそうな声には、何故だか困ったような微笑みが返されていた。
「何故、笑う!?」
「いやー、兄様って、ホント善人っていうか……。底抜けに優しい人なんだろうなぁって思ってね……。でも、こんな酷い目に合わされたって言うのに……。それなのに、まだ僕が大好きだった頃の兄様のままで居るだなんてねぇ……」
そんな何故変わらないのかと不思議そうな目で見つめられたせいか、僅かに居心地が悪そうに身じろぎしてみせる。
「こんな酷い事を経験したっていうのに、まるで変わってないっていうべきなのかな……? ホントに評判通りっていうか……。まるで成長しない人って、ホントなんだなぁってね? そんな風に、色んな意味で感心してたんだよ。……もしかしなくても悪評通りっていうか、ホントに伸び代ってヤツが残ってないのかもしれないな~ってね? ……でも、そんな愚図が次期王の候補筆頭様だってんだからね。ホント、笑っちゃうよね? シリアスな笑いっていうか、何とも言えないシュールさがあるっていうか……。こんなの、余りのバカバカしさに、いっそ笑うしかないじゃない?」
そんな自分のことを小馬鹿にしているかのような返事に、ハイドラも思わず絶句してしまっていた。
「……ん~? あれあれぇ? どうしちゃったの、兄様? ……もしかして、自分が好かれてるとでも思ってたり?」
「……私は……」
「バッカだなぁ! 演技だよ! エ・ン・ギ! ホンット、単純っていうか、人が良いって言うか……。そんなだから、あんな露骨で、単純で、見え見えの色仕掛けなんかにあ~っさり引っかかっちゃうんだよ! ダ・メ・だ・よ~? もうちょっと、人を疑う事を覚えなきゃさぁ~!?」
そう面白くもなさ気に、小馬鹿にするような口調で嘲笑っていたロータスだったが、次の瞬間には皮肉げな笑みを引っ込めて。一転、ひどく憎々しそうな表情でハイドラのことを睨みつけて来ていた。
「……そんなんじゃ、あのクロッカス兄様には絶対に勝てないよ? もっとクレバーに。もっとタフにならないと……。それに、もっと賢くて、もっと狡くもならないとね? ……でも、まあ……。兄様はもう独りじゃないみたいだしね? ……多分、実際には良い勝負になるんだろうけどさ」
というか、実質はあの人とクロッカス兄様の一騎打ちみたいなものなんだろうけどね。そう皮肉げに笑いながら呟くロータスの言葉に、ハイドラは思わず表情を歪めていた。
「お前は一体、何を言って……」
「うう~ん? たぶん、嫌がらせだったんだと思うよ~? 多分だけどさ~。……でも、それも無理もないと思わない? 何しろ、兄様ったら、自分がどれだけ恵まれた幸運な星の元に生まれてきているのか、それにすらまともに気がつけてなかったんだし~?」
「幸運、か……」
「あっれ~? この期に及んで、まぁだ『自ら望んで、こんな厄介な立場に生まれてきた訳じゃない』とか言いだっしゃうワケ~?」
「……」
「ハンッ。図星、か。……まあ、そうなんだろうねぇ~……。兄様ったら、昔から、そういうトコ、ほんっと甘ったれだったんだよねぇ……。まあ、僕達みたいな“もたざるもの”の立場から言わせて貰えればさ。……『贅沢抜かしてんじゃねぇよ、このハゲ』ってことになるんだろうけど」
それは敗者の立場から口にする「何時までも甘えた事を言ってるんじゃない」という、叱咤そのものでもあったのかもしれない。
「……」
「ほぉら、またそこで黙る……。ホンット、兄様って分かってないよねぇ……? 僕達は、兄様が昔から『望まぬ立場に生まれてきてしまった』って悩んでいたのは良ぉく分かってたよ。でも、兄様の方はどうだったんだろうね? 兄様って、他の兄妹達のことをどれだけ分かってたのかな?」
「それは……」
思わずその皮肉げな言葉に反論しかけたものの、そこから先の言葉が上手く出てこなかったのは、色々と思い当たる節が多すぎたからだったのかも知れない。
「……僕達だって同じだったんだよ? ……ううん。兄様なんかより、よっぽど自分の生まれってヤツを恨めしく思ってたんじゃないかって思う……。もしかしたら、兄様なんかより、よっぽど自分の置かれている立場ってヤツの事を、心底憎々しく思っていたかも知れないんだってこと……。兄様、知らなかったんでしょ?」
その言葉にハイドラはハッとしたようになって、初めて目の前の弟に視線を向けていた。
「どーせ、そんな事なんじゃないかなぁ~って思ってたんだけどね。……そんなだから、いつまで経っても『甘ったれ』呼ばわりの抜けない“お坊ちゃま”扱いなんじゃないの?」
そう皮肉げに告げて、その笑みを苦笑の形に変えながら。
「数年だよ……。たったの数年の差。それだけだったんだ。たった、その程度の違いだけ……。たかだか数年だけ遅く生まれてきた。それだけに過ぎなかったんだ。比べる相手が、ほんのちょっとだけ……。たった数年だけ、僕より早く生まれてきていた。ただ、それだけのこと……。たった、それだけの差があったせいで、さ。……生まれてきた瞬間から、すでに絶望的な差が付いていたって事も、この世にはあるんだよ?」
それが何の事を指しているのかなど、わざわざここで確かめる必要すらなかった。そして、それにね、と言葉も続けられていた。
「第一王子よりも生まれた日自体は早かったはずなのに、こういった同じくらいの時期に二人の男児が相次いで生まれてきた場合には、側室の子でなく正妻である王妃の子を優先して、その子を第一子とする、なんて規則が典範に定められているから~なんていう、古臭い上にカビの生てるような慣習とやらを引っ張りだされてきちゃったせいで、後から生まれてきた自分の弟になるはずだった男の子に何もかもを……。それこそ、自分が与えられるはずだった物を全部奪われて、立場ごと乗っ取られちゃった、なんていう悲惨な人も居たんだからねぇ。……たかだか母親の違いだけで、そんな風に色んな物を丸ごとひっくり返されちゃったような、すっごく惨めな境遇に落とされた人だって居たんだってことを思えばさ……。まあ、僕もあんまり贅沢は言えなかったのかもしれないんだけど……」
前の話は、自分達よりも何年も遅く生まれてきた事で第三位の継承権を与えられたロータスの事であったのだろう。だとすると、後の話はきっと第二王子であるクロッカスと自分のことであったのだろうと思われた。
「……ね? もう分かったんじゃない? 兄様は、ただ、この世に生まれてきた。ただそれだけで、すでに、こうしていろんな人達の人生を狂わせてしまっているんだよ? ……まあ、兄様達よりも早く生まれてこれなかった僕なんかには、最初からチャンスは欠片も残ってなかった訳だけれど……」
それでも、まあ、男として生まれてこれただけでも、まだ良かったのかもしれないけれど、と。そう、溜息混じりに漏らしていた。
「……何を言ってるのか理解できないって? いや、ね? もし僕が女に生まれてきていたなら、今頃は手頃な国に嫁がされてたか、国内の有力貴族の所にでも嫁に出されてお終いって感じの扱いになってただろうからねぇってね……。って、ああ、そうか……。そういう事だったんだ。だとすると、あの人の立ち位置って結構微妙っていうか、かなり特殊な境遇だったんだなぁ……」
そんな、単なるつぶやき声にしてはやけに大きな独り言に、思わず『コイツは何を言っているんだ』と表情を歪めてしまったハイドラだったが、そんな兄を前にして、ロータスは僅かに首を横に振りながら「ううん、何でもない。ただ、今更ながらに気がついたっていうか、変な部分で納得出来てたっていうかさ……。ただの独り言っていうべきなのかもしれない」と、自嘲の笑みを浮かべながら答えていた。
「まあ、話を本題に戻すけど……」
そうコホンと前置きを挟みながら。
「そもそも兄様って、他の兄弟達から自分がどんな風に見られているのかとか、どんな感じに思われていたのかって部分を、根本的に分かっていないんだと思う。おそらく、自分がどれだけ他人から嫉妬されてるのかって事ですらも、まともに理解してなかったんだろうし」
そう断言されて、実際の所どうだったの、と視線で尋ねられても答えるのは、そう簡単な事ではなく。だからこそ、相手の視線はますます厳しくなる一方であったのかもしれない。
「……それでいて『自分はやっぱりダメだ。王には向いてない。力不足だ』とか、グジグジウジウジ悩んでみたりさ。ああでもないこうでもないと、うだうだと泣き言を垂れ流してみたり……。情けなく、全力で後ろ向きって感じだったしさ。……というか、そこまで自分のダメさ加減ってヤツに悲観してたのなら、さっさと王位の継承権を辞退するなり何なりして、次期王の立場ってヤツそのものからなんで逃げ出さなかったの? そうかと思えば、もっと必死になって努力してみたりとかする訳でもないしさ。なんで何もしないのかなぁってね……? すっごく不思議に思ってたんだよ」
そう自分が不思議に思われていた事を承知していたか。そんな指摘に思わず表情も苦しげに歪んでしまっていた。
「……努力は、してたさ」
「あ~……。確かに一時期だけど、一応は、頑張っては居たんだよね。うん。おもに最初だけ、だったけど。……でも、ちょっとつまづいたり、壁に突き当たったりして挫折したりしたら、やっぱり俺はダメなヤツだったんだ~って感じだったんじゃない? 一応は努力はしてみました。でも、イマイチ上手く行きませんでしたって感じで。……でも、そんなのはね、僕達から言わせてもらうと『ふーん。だから?』ってな話でしかないんだよ。『へー。それで? だから、どうしたっていうの? で? 次はどうするつもりなのさ?』ってね。……兄様の努力って、その程度で終わりだったワケ? ダメならダメでも良いんだけどさ。でも、駄目だったら、その後はどうするつもりだったのさ?」
それは、と。そう指摘されて初めて自分の過去の行いの数々を振り返ってみて、改めてそこで簡単に挫折して諦めていた姿に愕然となってしまう。
「実のところさ。駄目なら駄目でも良いんだよ? 適正とか向き不向きもあるんだからね。でも、何が問題なのかをちゃんと把握出来てないのは色々と不味いんじゃないの? 何が原因で駄目だったのかってのを、ちゃんと自己評価してみたりとかして、失敗の原因を分析してみたりしてさ。そうやって次からのアプローチ方法そのものを変えてみたりとかして、改善していく努力ってヤツをね……。今よりも少しだけでも良いから前へって感じに、状況そのものを改善していこうって前向きに努力してみるって訳でもなくてさ……。自分を必死に励ましてくれながら、横で一緒に『貴方の妻として、王妃を目指すにふさわしい才女になってみせます!』って息巻いている彼女に、変な嫉妬とか僻みとかコンプレックスばっかり抱えてみたりして、一方的に嫌ったりして、迷惑だけかけ続けて、さ……。ホント、兄様って、何がしたかったんだろうね……?」
それはロクに努力もせずに、ただ自分の出来ないっぷりに腹を立てて、周囲に八つ当たりしていただけなんじゃないのかといった、痛烈な批判でもあったのかもしれない。
そんな指摘に、ハイドラはただ黙ってうつむいている事しか出来なかった。
「きっと、もっと、必死に……。どんなに苦しくても、必死に歯を食いしばってさ。どれだけ失敗を繰り返しても、ずっと努力し続ける事を諦めずにね。……そうやって、無我夢中で足掻いたりしていたら、おそらくは兄様にだって何かしら出来ていたはずなのにね……。でも、それが出来なかった。やろうともしなかったんだろうし。……いや、出来なかったというべきかな。変に高い、王族のプライドとやらが邪魔をしてしまって、スマートに出来ない事に取り組めなかったというか……。もっと泥臭い、庶民の子のような必死に足掻くという行為に耐えられなかったのかもね」
それは変に親に大事にされすぎて育てられてきてしまったせいか、己の現実的な力量に見合わない奇妙に肥大化してしまった自尊心と自己評価が邪魔をしがちな上位貴族の子、特に親にとっては己の初めての子にして跡取り息子となるのだろう、大事に育てられすぎた長男によく見られる傾向ではあったにせよ、将来的に国を背負って立つ事になる王族の第一子にまで、そんなワガママが許されるはずもなかったのだろう。
「そうやって自分のちっぽけなプライドなんかを守りたいからって、辛いことから簡単に背を向けて、楽ちんで楽しい方にだけ流され続けてさ……。そうやって、ずっと辛いことから逃げ続けて……。言い訳と虚勢と弱音だけは百人前。そんなダメダメな兄様に、ここは一発、ガッツーンと思い知らせてやらなきゃってね。……そうしないと、気が済まなかったんだよ」
そう口にすると、じぃっと……。何の感情も感じさせない冷たい瞳で自分のことを見つめてきている。そんな弟を前に、ハイドラは何も答える事が出来ずに固まってしまっていた。
「ねえ、兄様。……知ってた?」
「……なんだ……?」
「僕さ。昔から、兄様のこと、大嫌いだったんだ」
それはそうなのだろう。でなければ、こんな事にはなっていなかったはずだった。
「……何時からだ?」
でも、昔はきっと違っていた。
少なくとも、自分三人が幼いころは違っていたはずだった。
自分の側には、いつも同い年の弟であるクロッカスが居て。
そんな二人とは少し歳の離れていたロータスも一緒だった。
よく一緒に居た自分達の後ろをいつもついてきていたのだ。
──何時からだ……。何時から、私達は……。
「……何時から私達は、道を違えてしまっていたんだ……」
昔は、ずっと三人で同じ道を歩いていたはずだったのに。
それなのに、いつのまにやら自分の傍から弟達の姿が消えてしまっていた。
思い返してみれば、最初にクロッカスが居なくなり、次にロータスがいなくなっていた。
そんな居なくなった弟達の穴を埋める様にして、いつしか取り巻きの友人達が周囲を固めるようになり、何時の間にやら、それが自分にとって当たり前になってしまっていた。
「……さぁね……。でも、これは必然っていうか、何時かは必ず、こうなってたってだけの話に過ぎなかったんだと思うよ? ……なにしろ、僕たちは三人居て、その中から次の王が選ばれるんだから」
生まれた順や継承権なんか関係なくね、と。
そう寒気のするような薄い笑みを浮かべて見せる。
そんな少年の口元にはゾッとするような軽薄な笑みが浮かんでいて。
「じゃあ、何のために王位継承権があるんだ」
「……さあ? そんなの知らないけどね。でも、この国では、これまでずっとそうなってるんだから、仕方ないんじゃない? まあ、兄様も興味があったら、この国の歴史ってヤツを少しは調べてみたりすると良いんだと思うよ? ……特に表に出せない王族の裏側に関する歴史と、王位の継承に関する後ろ暗い逸話ってヤツをね。……やたらと血生臭い、ドロドロとした汚点にしか見えない闇の歴史の数々ってヤツだけどね……」
それはきっと、たった独りの賢く孤独で。そして優れた冷徹な王を生み出すための仕組みそのものであって。……多くの背負うべき事になる民のために王を鍛えあげるシステム、仕組みそのものであり……。そして、そのしきたりによって、王位を担う事になる次代の男達は、互いに競い合い、いがみ合い、憎しみ合い、水面下では殺し合う事にすらなって……。
「何故、そんな馬鹿な真似を……」
「何でそんな事をさせるのかって? ……ホントに分かんないの? それとも分かりたくないってヤツなのかな? ……全ては民のためってヤツだよ。誰だって、国の運営なんていう重大事を馬鹿で無能で間抜けで迂闊なヤツになんて任せたくはないんだよ。そんな出来の悪い駄目な王様なんて、民は誰も望んでないんだから。……むしろ、そんなのさっさと殺してしまって、もっとマシなのを王位につかせろよって、誰だって思うだろうし、それを望まれるって事になるんだよ」
だから、僕達の中から一番マシな王が生まれてくる事を国民は望んでいて。だからこそ、僕達はこうして競い合い、いがみ合い、憎しみ合い、殺し合う事になるのだろうし、その様子を王を始めとする国の重鎮たちも、ただ黙って見守っているのだ、と。
そうロータスは呆れたような口調で口にしていた。
「それに、これは僕達の為でもあるんだと思うよ? ……いつか僕達のうちの誰かが次の王として、この国の頂点に立つ事になるんだよ? ……未だ歳若く、経験らしい経験も積めないままに、ね? これまで国を動かしてきた先代の王を初めとした百戦錬磨の古狸達……。すべての上位貴族達の上に、その日から王として君臨しなければならないんだ。そんな僕達に必要になるのは、おそらくは『威』なんだと思う。……少なくとも周囲から侮られないだけの気迫と凄み、怖さを身に付ける事が出来ないかぎり……」
ふっ、と。笑って見せながら。
「そんな軟弱で頼りない王になんて、誰が喜んで従うって言うのさ。……そんなのが王だなんて、誰も認めてはくれないと思わない? ……少なくとも、僕は従いたくない。父様のお眼鏡に叶わなきゃ、王位だって譲ってはくれないんだろうしね?」
つまりは、そういうことなのだ、と。そう薄く笑って告げてみせる。
「まあ、僕は、ここまでだけど。この通り、早々にレースからリタイアした訳だしね?」
そんな『後は年上組二人で、ごゆっくりと、心ゆくまで、騙し合うなり、ハメ合うなり、いっそ殺し合うなり何なり……。好きなようにして頂戴な』とばかりに口にする弟を前にして、そんなハイドラの脳裏によぎるのは何故だか不吉な言葉であって……。
「……蠱毒……」
その思わず漏らしてしまったつぶやき声に、思わず『ご名答』とばかりに、ニンマリと。ようやく分かってくれたんだねぇとばかりに、どこか優しい笑みを浮かべてみせる。
そんなロータスを前に、ただハイドラは肩を落とす事しか出来ないのだった。