5.昔を振り返ったら
最初は小さな変化だった。
知能の奇妙な高さを感じさせる未だ幼かった末娘から頼まれる細々とした頼み……。
それらは、個別にみた場合には、ごくごく小さな提言であったり、比較的小規模なレベルの改変。あるいは現状の問題点をほんの少しだけマシにする程度の改善案といった内容であったのだが、それでも本来は小さな子供でしなかったマリーが領主へ対して面と向かって頼むような内容では決してなかった。
何故なら、それは政治へ女が……。しかも、子供が口を挟むという行為そのものであり、多くの場合において、それは聞いた者の大半が眉をしかめて見せるような、そんな忌避される行為の筆頭格な代物であったからだ。
だからこそ、そういった領分を著しく逸脱している行為を咎めたり注意する者も多かったのだろうし、女に……。しかも、いくら可愛がっている末娘といえども、子供なんかに口を出させるなといった苦言も多く内外から寄せられる事になったのだろうが、それでもロジャーはニコニコ笑いながら可愛い末娘の頼みを平然と受け入れ続けていったし、マリーもどれだけ周囲の大人達から叱られながらも『小さなお願い』を口にすることを辞めなかった。
「……その結果何が起きたか……。今でも忘れられません」
小さな変化は小さな成果を生んだだけだった。だが、それは、その小さな結果によって、より大きな変化を引き寄せるためのトリガーのような物でもあったのかも知れない。そして、その成果に引き起こされた小さな変化は、より大きな変化を。そして更なる変化を引き起こす次の引き金となっていき、更に大きく変化を引き起こす力となって育っていくといった具合に、いつしか領地の未来像すらも大きく変えていく事になっていったのだろう、そんな蝶の羽ばたきの引き起こした大きな嵐の。その原因の一つとなっていったのかも知れない。
……そんなことが、何度も何度も、延々と繰り返されていった。
その結果、引き起こされた変化の波の数々は、より大きな変化を引き起こす巨大なうねりへと繋がっていたのだが、その変化は非常に穏やかで。そして、緩やかでもあったのかもしれない。マリー自身が性急な変化を望んでいなかったこともあって、その変化は非常に穏やかに進行していっていた事もあって、なかなか数字上にまで表面化はしていなかったのだ。
そんな事情もあってか、マリーがロジャーに対して働きかけを初めてからの数年間は、最近は領主様の指導のお陰でちょっとだけ生活が楽になったし、作業などでも色々と便利になったと領民達に喜ばれているらしい程度の評価に過ぎず、個別の小さな成果のみが主に取り沙汰されていたのだが、それら小さな波紋がより大きな波紋を生んでいく原動力になっていることには流石に気が付かれなかったのだろう。
それが目に見える形で……。具体的な数字として書面上に現れる様になるまでには、それから更に数年もの時間が必要になったのだった。
「その変化に最初に気がついたのはロジャー様でしたな」
「そう。お父様が……」
「はい。いつものように領内の各地から送られてきた報告書を確認していた時のことです。ふと“何か”が気になった様な素振りを見せたかと思うと、既に見終わって確認済みのサインを入れて処理済みとして片付けていた筈の書類の束を再び手元に引き寄せて、やけに険しい表情を浮かべながら、改めて最初から一枚一枚、ゆっくりと見直し始めたのです。……しかも、なにやら詳細なメモなり走り書きを書き取りながら、です。……それを見ていた私達は、生きた心地がしませなんだ」
それを聞いたマリーは僅かに苦笑を浮かべていた。
「……ああ。何かお父様が大きな誤りなり不正の痕跡なりを見つけたと思ったのですね。……しかも、貴方達が見落とすか気がつけていなかった何かを痕跡を見つけてしまったと。……そう、思ったのでしょう?」
「その通りでございます。……そんな旦那様の姿はおおよそ半日にも及び、ずっと気を張っていた我々がついには倒れてしまいそうになった頃、ようやく再確認の終わった書類の束を机の上に投げ出すと、ひどく疲れた声で、一言だけ……。こう仰ったのです。マリーのヤツを呼んでこい。大至急だ、と……」
そこまで口にすると老紳士は過去を思い返すようにして目を閉じていた。
「後から聞かされた話によると、あの時……。ロジャー様は初めてお嬢様がされてきたことの意味を……。これまでの『お願い』の数々のもたらした成果とでもいうべき物の全体像を、ようやく気がつけたのだと仰っていました」
「そうなのですか……」
「はい。そうなのですよ。……とはいえ、私どもには具体的に何がどう変わっていたのかということは教えて頂けなかったのですが」
良かったら教えてもらえないだろうか。そう言外に告げられているのを察したのか、僅かにうなづくと答えていた。
「……簡単なことなのよ。あの時期、国境線での戦いの後遺症もあって、領内の生産力が著しく下がってしまっていたのだけど、それが自分の知らない所で少しだけ上向いてきていた。その事実に気がついたという事なのでしょう」
「生産力、ですか……」
「ええ。もうちょっと具体的に言うと、国境線での戦いが長引いていた事が遠因となって、開戦前と比べて平均して出生率とかが下がり気味になってしまっていたの。それに色々と手を打っておいたお陰もあって少しだけ上向いてきていたのと、逆にゆっくりと上がり続けていた死亡率なんかが……。特に新生児の死亡率ね。そこが大きく下がってきていたこと……。あとは、穀物を始めとした各種食物の生産量とか……。耕地面積の方はいきなり増やせたりは出来なかったから品目とかの調整とかで生産計画を見直したりしてたのだけれど、個別での生産量も出来るだけ改善とかもしていっていたから、単品ごとの数字で見た限りでは品目単位の生産量はさほど大きく変わっていなかったのでしょう……。まあ、個別の生産量を増やしたなんていっても地域単位での数字に現れる変化なんてちょっとだけだから……。でも生産量を維持しつつ出来るだけ良い品質の物を、なんて形での改善を目指した物もあったりしたから、売却益とかの僅かな上乗せ分が意外と馬鹿に出来ない額に膨れ上がっていっていたのかしらね……? まあ、いろいろと時間をかけて手広くあれもこれもとやっていたから……。だから、細かくあげていったら、一事が万事、この調子で切りがないって事なんだろうけど、それでもチリも積もれば何とやらってね……。一つ一つは小さな変化でしかなかったけれど、それらを全体で積み重ねていってみたら、なかなか面白い事になっていたのは確かだったのだろうと思うわ」
それらを仕掛けていたのはマリーであり、そんな愛娘の依頼を受けて行動を起こした領主であるロジャーだった訳だが。……もっとも、当の領主はその頃になって、ようやくその効果のほどに気がついていた訳だが。
「その結果をもって、私の知識とアイディアは領地経営に使える。お父様は、そう判断されたのね。それから暫くして、お父様の執務室に私専用の机が用意されることになったわ」
「成果が目に見える形で書類上に現れたのです。それも無理もありますまい」
「そうね。……言い方は悪いけれど、実績を見せる事が出来た事で実力がある事を暗に示して見せた事にもなっていたから……。その結果、いろいろと自由にやらせて貰えるようになったのは事実ね」
「そして、お嬢様の大活躍が始まる訳ですな」
「大活躍、ね……」
「何が、今の評価の言葉にご不満でも?」
「いいえ。でも、あれはただ必死になっていたというか……。ううん、違うわね。アレは、ただ夢中になっていただけ、というべきね」
「夢中、ですか」
「ええ。夢中。……なにしろ、それまでせっかくああしたらどうか、こうしたらどうかと色々と思い浮かんでいたのに、それらを頭の中のメモに書き記していただけだったのよ? そんな色んな改善案とかアイディアとかが、ようやく陽の目を見る時がやってきたんだもの。……そりゃあもう、ここぞとばかりに、わき目も振らないで必死にあれこれと頑張ったわ」
その笑みには自嘲の笑みが混じっていた。
「それまでは実績とかもなかったから、最適解とか正解、一番いいやり方とかの想定とか、想像が出来ていたとしても、それが正しいのだから従いなさいとは言えなかった。だから、ほんの小規模な改善とかで方向性の正しさとかアプローチのやり方とかが間違ってない事を証明してみせてからでないと本格的な変更とかは交付する事が出来なかったから……」
「お嬢様にとってはやり方の変更とか改善とかであったとしても、領民たちにとっては自分達の飯の種とかに対する大きな変更命令ですからな。それを受け入れるには色々と抵抗もあったのでしょう」
「そうね。そういう意味でもある程度の実績を元にしていたから根拠とかのある指示になっていただろうから……。受け入れやすくなっていた部分もあったのかもしれないわね」
そして、そんな答えを返しながら笑みを深めていたマリーに再度質問が飛んでいた。
「しかし、そうなると、辺境伯領のここ最近の隆盛は、お嬢様の長年の影働きの成果ということになるのですな」
「それはどうかしらね……。私は単に思いついた事とかアイディアとか、提案なんかを領主であるお父様に対して行ってみただけよ? それを聞き流したりせず受け入れたのも、人手や資金などを手配したのも……。それに、指揮などをとったりする人を配したりしたのも、全部お父様だったし、実際に領内を良くしていったのは私なんかじゃない。それは、領内に住んでいる民が頑張ってくれた証、彼ら自身の努力の成果よ? その中で私の果たした役目なんて、ほんの僅かだったのだろうし、功績なんてものは僅かなものだと思うわ」
そんなマリーに老紳士は首を横に振りながら駄目出しをしていた。
「なるほど。謙虚なのは美徳なのかもしれませんな。ですが、それも行き過ぎれば嫌味なだけですぞ? ……お嬢様、時には自分の功績を認めてみせるのも大事な事なのでは?」
「それは……。そう、なのかも知れません、ね……」
「何か、それを認められない理由でもお有りなのでしょうか」
それを聞かれたマリーは僅かに眉をしかめると黙って窓の外に視線を向けていた。
「私には悪い癖があります」
「癖、ですか」
「ええ。癖です。……私は夢中になる物を見つけてしまうと、それに集中しすぎて視野狭窄を起こしてしまうらしいのです。……もうちょっと具体的に言うと、何かに集中している時には、それ以外の色々な物が見えなくなってしまう、と。……そういう部分が問題だから治すようにと、お父様からはずっと注意をされているのですが……」
なかなか悪癖という物は治らない、と溜息をついてみせて。
「私が自分の功績を素直に認めることが出来ないのは、それを自分一人の力の功績であると考えることがどうしても出来ないからです。……人には役割があって、各人が役目を果たすことでより大きな成果を生み出す事ができる。そういった理屈は分かっていますし、私がアイディアを考えたり、計画を練ったり、方法論やアプローチ方法を検討してみたりするのが役目ならば、私のまとまりきらない話を上手く聞き出し、きちんと計画としてまとめ上げるのがお父様の役目であったのかもしれません。そして、それを元に、これまでの経験から鑑みた適切な人員を配置し、予算を工面し実行に移す。そこまでが領主の仕事であって、そこから先の命令された内容に従って働いて成果を生み出すのが領民たちの仕事であったのかも知れません。そうやって、各人が仕事を分けあって働くということが分業という物の基本であって……」
そこまで口にした時、何かに思い至ったのかハァと溜息をついて。
「……分かっています。……本当は、分かってはいるのです。私が……。一番最初のお父様に話を持ちかけた私が居なかったなら、そもそも、何も動くことはなかったのだということは。それは私も理解はしているのです……。でも……。だからといって、それを何もかも自分のお陰だからといって、自分だけの功績にはしたくないのです。私が代表して評価されるというのならば、まだ良いのです。ですが、私に対して貴方のやったことはすごい事だ、とは言われたくはないのです」
「では、どのように評価されたいと?」
「……貴女の領地はすごいですね、と。……アイディアを考えた貴女が素晴らしいのは勿論のこと、それを受け入れ実行に移した領主殿も素晴らしいですし、これまで見たことも聞いたこともなかっただろう新しいやり方というものを受け入れて、上手くやってのけた領民達こそがあるいは一番素晴らしかったのかも知れない、とでも……」
「……お嬢様、いくらなんでも、それは……」
「ええ、分かっています。そんな褒め方をする人なんて居るはずがない、と」
その領地が栄えて見せたなら、その功績は領主の物なのであり、その領地に生きる領民達がすごいとは決して評価されないものなのだ。
仮に領主が「これは自分の手柄ではない」と謙遜してみせたところで、その時に賞賛を受ける事になるのは、その功績を生み出した影の立役者である家臣達までであろうことは言うまでもなく、その賞賛の目が領民達に向くことは決して無いのだろう。
なぜならば、彼らは平民であり、貴族家の者達ではなかったからだ。
「それでも、私は夢見てしまうのです。いつか彼ら民に対してありがとうの言葉を言える支配者が現れる日が来るのではないか、と……」
それは暗に誰に対してマリーが、何を期待しているのか、そして、どんな夢を託すに足る人物であると判断したのかというものを示していたのかもしれなかった。
「彼は、それほどの人物ですか」
「そこまでは分かりませんわ。私が勝手に期待しているだけですから……。でも、それを夢見させてくれた人ではあったのです」
「……だから、自分の全てを彼に捧げようとと思われた、と」
「そうですわね」
「……一応、念の為に確認させて頂きますが……。よもや、それはお嬢様にとっての罪滅ぼしのつもりなのではありますまいな」
そんな問いに、マリーはまるで非難するかのような険しい視線を向けていた。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味でございますよ。……お嬢様は、過去に大きな失敗をなさっておいでだ。今更蒸し返すべき話ではありますまいが、お母上やご兄弟達との確執の件でございますよ。……対外的には戦傷の悪化だの、戦の後遺症だの、流行り病気だのと、それらしい理由をつけて喧伝しておりますが、あれは……」
そこまで口にしたとき、思わずマリーは大きな声で遮ってしまっていた。
「分かっています! 確かに……。確かに、あれは……。私の……。愚かな私の失敗でした……。それは、自分でも、分かっているのです……。あの頃は、致命的なまでに……。当時の私が幼かったから……。経験不足な上に救い様がない程に愚かであったから。だからこそ、あんな事態を引き起こしてしまった。そんな悲劇とも喜劇とも言うべき代物なのだということは」
俯きながら、ギュッとスカートの裾を握りしめながら。
「……彼らの感じていただろう、危機感や焦燥感。忌避感に加えて敗北感や恐怖なども……。それまで家中で孤立していた私なんかが領主であるお父様の仕事に変に口出しするような、そんな余計な真似をしていれば、彼らから反感を買わないはずがなかったのに……。それなのに、口だけでなく実際に業務の一部を肩代わりしたり、お父様の領分にまで手を出したりするような馬鹿な真似をすれば、次期領主の座を私に掠め取られると……。正式な領主の継承者のはずだった彼らが私の存在に怯えてしまうのは、当然の結果でしかなかったというのに……」
当時のマリーは、ただ自分の対外的な価値をというものを高める事だけに腐心していた。
全ては、王家の第一王子の配偶者、王配に相応しい政治的な実力を兼ね備えた得難い令嬢であることを外部に示してみせる。ただ、それだけを考えて動いていたのだ。……だが、その時にとった方法こそが一番の問題でもあったのかもしれない。
それは父であり領主でもあったロジャーの仕事の手伝いであり、領内の事に関する提案などでもあったのだ。
それは本人にとってみれば大した事はやっていないつもりだったのであって、あくまでも主な仕事は、ロジャーの仕事の手伝いの方であったのだが……。
それを見せつけられていた家中の者達にしてみれば、領主の仕事の真似事をやっているようにしか見えていなかったのだろうし、それはあからさまに次期領主の座を狙っていますといった挑発行為にしか見えなかったかもしれなくても仕方なかったのだろう。
何しろマリー以外の兄弟達は年齢的な問題もあって、未だ家臣団の新入り程度の仕事しか任されていなかったのだ。
そんな中で、自分達をまるであざ笑っているかのようにして特別扱いを受けながら、領主の部屋で隣で肩を並べて一緒に働きながら、着実に実績を出しながら、領地の未来について色々と言葉を交わしている。そんな姿を隠そうともしていなかったのだから。そして、自分達がいまだ実績らしい実績どころか何一つ評価されていない段階でしかなかったのに対して、一番幼なかったはずのマリーは既に実績を幾つも上げていて、領主の右腕として着実に実績を積み上げていっていたし、それによって領内も見る見る間に豊かに栄えていっていたのだ。
そんなマリーの領内における評判は留まることを知らず、領民達からも生き神様同然の扱いをされるようになっている始末だったのだから……。
「……だからこそ、彼らは追いつめられていったのですな。為す術なく、そういう情けない立場に追いやられて。何一つ反撃の手段が思い浮かばなく、実力でも、実績でも、名声さえも。領民達からの信頼の高さにおいては、もはや比べるまでない……。是非、次期領主はお嬢様でお願いしますといった嘆願の声は留まる事を知りませんでしたしな。……そんなお嬢様の前では、自分達の価値など塵芥に等しいのではないかとさえ、彼らは自己を評していた可能性すらもあります」
そして、往々にして、そんな立場に追いやられた者達の取れる『最後の方法』というものは、総じてたった一つしかなかったのかもしれない。それは、すなわち……。
「……だからこそ、そんな彼らの耳元に悪魔がささやいてしまったのかも知れませんな。……もう、あの女を殺すしかない。この決定的な差がついてしまった盤上の状況をひっくり返すには、勝負の盤そのものを……。根底から、何もかもをひっくり返すくらいしか、もう手が残ってない、と……。殺した後、仲良く死んだ事にするくらいしか方法がないのではないか。いっそ館に火でも放ってしまって証拠を丸ごと消し去ってしまえ……」
両者が目を閉じて、過ぎ去った過去に追悼の念を送って。
「……愚かな、とも言い切れませんか」
「アレは、ある意味において必然の結末だったとも言えます。……おそらくは私が悪かったのでしょう。最初から皆に、言っておくべきだったのです。私とお父様のやっていることは、王妃の候補者として名簿に名前を連ねるための実績作りであって、そのリストの筆頭に名前を無理やりねじ込むべく、こうしてお父様に色々と至らぬところを手伝って貰っているだけなのだ、と。……そして、将来的には王宮に移り住んで、ハイドラ様の隣に立つことを目指しているので、次期領主の座は、これまで通り貴方たちにお任せしたいと考えている、と。……たとえ、それを信じて貰えなかったとしても、それでも私はお父様だけでなく、皆に等しく助けを求めるべきだったのですから……」
たとえ、それが当時の家中で完全に孤立してしまっていたマリーにとっては無理難題の類であったとしても、だ。それでも領主の部屋に自分の机を与えられた頃に口にした言葉であったなら、あるいは脅しのように聞こえてしまっていたかもしれないが、それでも少しは彼らの耳に少しくらいは届いていた可能性があったのだから。
そんな独白を口にしたマリーの言葉に、老紳士は僅かに首を横に振って見せながら小さく溜息をついて見せていた。
「こんな時、いつも思うのです。人の心とは、何故にここまでままならぬ物なのか、と。……たった少しだけの思い違いが原因となって……。こんなにも、ほんの少しだけのボタンの掛け違いで。そんな物で、人は、ここまで憎しみ合い、いがみ合わなければならぬのかと……。それが、何故だか無性に……。どうしようもなく、悲しくなってしまうのですよ」
お嬢様も同じなのではありませんか、と。
そう尋ねられたマリーはそれでも苦笑を浮かべながら首を横に振って見せていた。
「結果的に彼らを暴発へと追い込んでしまった私には、それを悲しんだり嘆いたりするような資格はないのだろう、と考えています」
「相変わらず御自身にお厳しいのですな……」
「……それくらいの覚悟もなしには、彼らを……。母や兄達を反逆者として裁くこと等に加担は出来ませんでした……」
今現在のゴールド辺境伯家は、家格に比べて極端に後継者の数が少ないという問題を抱えていた。
それは対外的には国境線での戦いや病気などの原因によって、不幸にも後継者が次々に失われてしまった事が原因とされていたのだが、それでも王家に次ぐ大領を抱えている伯爵家の後継者が令嬢であるマリーだけというのは明らかにおかしかったのだ。
それは数年前に内部で起きた反乱未遂による粛清の結果であって、将来的にはマリーの子から男子を選び、その子を後継者にすえる事になるのだろうが、それでも血の継続という観点では、未だに大きな不安を抱えている事は確かだったのだろう。
「……なるほど。そんな問題が……」
そうフムフムと頷いてみせる老紳士に僅かに眉を吊り上げて、皮肉げな視線を向けながら。その僅かに苦笑を浮かべた口元を扇子が覆い隠していた。
「……それで? 聞きたい事とは、それで全て、ですの?」
「聞きたこと、とは?」
「白々しいですわねぇ。……興味本意なのかどうか知りませんが、今更ながらに、そんな過去のことをほじくり返してみたりして……。今更、何を探ろうとしているのかは知りませんし、知りたいとも思いません。ですが、これにだけは答えてもらいますわよ」
「何なりと、ご随意に」
「本物の彼は……。当家のアナベルは、何処にやったのです?」
そんなマリーの詰問に、老紳士の口元にも笑みが浮かんでいた。
「身に覚えがない等と、今更言いませんわよね?」
「……まあ、あまり隠そうともしていなかったから、そのうちバレるだろうなーとは思っていたんだけどね。……でも、何時、気がついたの?」
おもむろに足を組んで見せると、額のあたりを指先で指し示しながら、何やら小さく呟いて見せていて。そして、その指を離すと同時に顔の輪郭が奇妙に歪んで見えたかと思うと、次の瞬間には、全くの別人の顔へと変化してしまっていた。
「単純な変装と高度な認識阻害の魔法、それに簡単な暗示の類を併用した変装術といった所かしら……」
「ご名答。声の方は薬とかをつかって、色々とね……」
シュッシュッと小さな香水入れの霧吹きを喉に向かって数回吹き付けて。次いでゴホンゴホン、アーアーといった具合に数回咳き込んで喉の調子を整えると、その喉からまるで別人の声が発せられていた。
「フゥ。……一応は、初めまして、というべきなのかな」
「礼儀上は、そうね。もっとも、名を名乗れ、と言っても本名なんて聞かせてくれる筈もないんでしょうけど……」
「そうだね」
「では、何と呼べば?」
「なんとでも、お好きな様に。思いつかなければ、リコリスとでも呼べばいいさ」
「そう。……リコリス。本物のアナベルは?」
「今頃はぐっすりお休みしてるだろうから……。半日くらいしたら薬も抜けて、目を覚ますんじゃないかな?」
まあ、そんなことはどうでも良いといった口調で答えながら。次いで、ぐっと上半身を乗り出して話しかけていた。
「そんなことよりも、さ。君に、どうしても聞いてみたい事があったんだ」
「……だから、こんな馬鹿な真似をした、とでも?」
「そーだよ。こんな危なかしい真似をしてでも、どうしても君に直接……。こうして邪魔の入らない場所で聞いてみたいと思ったんだ」
「……私としてはアナベルの所在を教えてほしいのだけど」
「あんな爺さんのことなんてどうでも良いから、僕の質問に答えてよ」
「どうでも良くはありませんわ」
「僕にとっては、どうでも良いんだよ」
「私にとっては、どうでも良くはありません」
このままでは話が平行線を辿りそうだと感じたのか、チッと小さく舌打ちするとリコリスは乗り出していた体を引っ込めると、背後の背もたれに預けてしまっていた。
「……わかったよ。僕の負け。じゃあ、君が素直に質問に答えたら、僕もあの爺さんの軟禁場所を教える。これでどう?」
「良いでしょう。それで何を聞きたいと?」
「君は何者なの?」
その質問にキョトンといった表情でマリーは答えていた。
「ナニモノ、とは?」
「とぼけないでよ。君は何処で、あんな変な代物を習ってきたのかって聞いているんだよ」
「変な代物と言われても……」
「君が自分の領地を中心に広めて行ってるアレやらコレやらのことだよ」
「……ああ、なるほど。ようやく分かりました。でも、あれは習うというよりかは、私が考案して試作と検証、評価作業を経て、お父様が最終的に採用を認めてくれて、領内に広めていった新技術というべきだと思いますが……」
「いや、君が考えたんじゃないよね? アレ」
「……どういう意味です?」
「だって、君、いきなり最適解に辿り着いたりとかしてるじゃないか」
そんな指摘におもわずマリーの眉の角度がきつくなっていた。
「……そんなに自信家ではないので、ちゃんと事前に試験は何度も行っていますわよ?」
「確かにね。試験場所を決めて何度も小規模な範囲で繰り返し試してみたりしてるし、色々とやり方とか条件とかのパターンを変えて、延々とやり直してみたりしてデータを集めたりとかもしていってるらしいね。そういった事前に幾通りも試す行為ってヤツは、何度も何度も……。それこそ、しつこいくらい繰り返しやってるんだよね? でも、それがおかしいんだよ」
「おかしいとは?」
「なんで、派手な失敗がないの?」
そんな指摘にマリーは何も答えないし、冷たい笑みを浮かべているだけだった。
「勿論、小さなミスは沢山あったよ? 出来の悪い結果も当然、沢山あった。……でもね。本格的な失敗というか、根本的にやり方が間違ってせいで、まったくの鳴かず飛ばず、箸にも棒にもかかりませんでしたってな具合に、まるで駄目でしたって感じの結果が一個もなかったんだよね。……そんなのおかしいじゃない。これまで誰も試した事もないようなアレコレをテストしてるんだよ? それなのに、全く成果が得られなかった、いわゆる見込み違いって感じのハズレな結果が殆どなかったっていうのは、いくらなんでも出来過ぎっていうか、あからさまにおかしいんだよ」
そんな詰問に応えるのは微笑みだけで。
「あんなのは、試行錯誤の内に入んないでしょ。君のやってる事は、まるで自分の知ってるやり方が本当に実地で実現できるのかどうかを試してるだけにか思えなかった。……君は、急ぎすぎたんだよ」
そんなリコリスの指摘にマリーはただ冷たく微笑んで見せるのだった。