逆行列車
揺れ動く終電の中で、ほぼ全ての乗客が緊張感に身を震えさせていた。数少ない弛緩しきった様子の人間は、ドア付近でがなっている三人の酔客のみだ。全員が中年の男で、背広をだらしなくはだけさせている。
そのうち一人が大きく膨れた腹をさすりながら話題を転換させる。
「俺らは何を食ったんだっけか」
「何を言ってんだ、焼き肉の後、焼き鳥屋行って、最後ラーメンだろ。いや、最初は中華だったかもな」もう一人は細身だが顔面が脂ぎっていて、長髪が顔にぴたりと貼りついている。
手すりに掴まっている二人があやふやな記憶を手繰り寄せるようにしていると、残りの一人は堪えきれなくなったように床にしゃがみこむ。
その男は眉間にしわを寄せ、胸部に円を描くようにさすり、ついには身を横たえてしまう。徐々に呼吸は遅く深くなり、呼気から大量のアルコールが車内へばらまかれる。乗客たちは眉をひそめ、咳ばらいをするものもいた。
「しかし一体どうしたらこんなにも酔えんだよ」
「知らねえけどよ、俺らなんで電車なんか乗ってんだろうな」
ははは、と彼らは笑うと、寝転んでいる仲間の横に膝を屈めた。
仲間の顔を凝視して言う。
「ところでさ、俺ら、こんなやつと知り合いだっけか」
「知らんねえけどよ、気持ち悪いやつよな、こんなんになるまで酔いやがって」
細身の方がげしげしと言いながら爪先で小突く。それとは無関係に、寝ころんでいる男は表情を更に険しくする。
「そういや金持ってるか」と太めの方が言うと二人して財布を確認し、二人してがはは、と笑う。けたたましく、醜く笑う。そしてぎろりと目を交わし合う。そして鞄をあさり始め、ついには財布から金を抜き取った。
「次の駅で降りよう。そうしたらまた一杯飲むんだ」
「そりゃいいや」
がはははは、と更に不快な声で笑うが、他の乗客は一部始終を見ていながら何もしない。
寝ころぶ男の顔の蒼白度合が頂点に達し、生気が抜けていくころ、電車はホームへと進入していく。その時警笛が鳴り、所定の停車場所以前で緊急停車する。その途中で車体に何かが激突したが、乗客は誰一人気づかない。
男二人が、もう一人に躓いて転んだのだ。二人がバランスを失いながら地面へと打ち付けられる最中、太い方の肘が腹に、細身の方の踵が胸部にそれぞれ寝ころんでいる男に命中し、たちまち彼は嘔吐した。すぐに口から吐瀉物が溢れ、気道が閉じているのかむせ込み、すぐに体を反転させ呼吸を再開する。床に黄土の液体が艶めかしくはじける。すると二人もつられて胃の中のものを洗いざらい吐き出してしまう。
そんな絵図の中、アナウンスが乗客に救済を与える。
≪ただいま人身事故が発生したため、乗車中のお客様には前方車両からお降り頂きますようお願い申し上げます≫
三人を横目に去る乗客たちの中に、話し始めた者がある。
「私も吐くべきなのではないかと思うのです」
「どういうことですか」
二人は電車から降りていく。