愛するもののため
マリーヌ=リシャールは小さく息を吐き、少しの間、瞳を閉じた。
今から始まろうとしている茶番劇を思うと胸が痛む。
結局どうすることもできず、この日を迎えてしまった。マリーヌはこの茶番劇をやめさせようと、あらゆる手を尽くした。マリーヌの今、出来ることを考え、力の限りを尽くしたと言える。
マリーヌは自身の伯爵家の屋敷ではなく、この夜会の会場である王家所有の西の屋敷の一室を借り受け、身支度を整えた。
いくつか持参したドレスの中から、ふわりと美しいドレープの広がる身体のラインに沿う真紅のドレスを選んだ。侍女たちが時間をかけて編み上げたブルネットの髪は一房だけ、頰に沿うように流れている。
今年で16才を迎えたとは思えない、成熟した身体と少しつり気味の大きな瞳、ぽってりと紅の塗られた唇、真紅のドレスを身につけたマリーヌは、誰から見ても優しい、気の良い人には見えない。気の強い、悪い企みをしている女に見える。
ーーお誂え向きね
自身が映る鏡の中のマリーヌが自嘲の笑みを浮かべた。
マリーヌは7歳のときに第1王子で8歳であるジョナタンの婚約者となった。
他の女の子がのんびりとお茶を飲んで、お友達とおしゃべりしている時も、マリーヌは妃となるために、厳しい教育を受けていた。その婚約はマリーヌの望んだことではないが、両親の決めたことであり拒否することはできなかった、また拒否するということを思いつくこともなかった。
母親譲りの優しく整った顔立ちのジョナタンは、真っ直ぐで正義感の強い好感の持てる男の子だった。王家と親しい間柄であったリシャール伯爵家は、王家が行うお茶会にも頻回に子供たちも呼ばれた。王子とは幼友達と呼べるほどに親しい。
近隣国の王子や王女たちも交えて城の薔薇園を走り回ったり、ガラス張りのテラスでカードゲームをしたりした日々が眩しかった。
ジョナタンは静かに本を読んだり、絵を描いたりすることを好む、穏やかな子供であった。言いたいことを言い、思ったように行動してしまうマリーヌと正反対といっていい。
しかし、マリーヌはジョナタンと結婚することを嫌だと思ったことはなく、夫婦になるからには、仲良くなりたいなと感じた。また、その努力も惜しまなかった。小まめに手紙を送り、節目にはプレゼントも送った。
もちろん、妃の教育は厳しく辛く、涙を流したこともあったけれど、両親や兄に慰められながらマリーヌは頑張ってきた。
ジョナタンに1年遅れて入学した王立のアザンクール学園。この学園は国が設立した教育機関であり、身分で制限はされていない。全ての国民にこの学園の入学試験を受ける権利がある。
しかし、この試験を通過できるほどの基礎学力を身につけた者は、ほぼ貴族であるのが現状であった。
また、領地を持ち、領主となる者はこの学園を卒業しておらねばならず、卒業していない者に継承することは認められていない。
5年間、12才から17才まで学び、地方に戻り、領主となる者、王都で官吏となる者、在学中に結婚相手を見つける者と様々であった。
その学園の卒業記念の夜会が今から始まる。
そして、その夜会でジョナタンはマリーヌとの婚約を破棄するつもりであることがわかっていた。
「マリーヌ様、王子に出した手紙が開封されずに、また返ってきましたよ。本当にどういう神経してるのかしら?マリーヌ様という方がいらっしゃるというのに別の女性をエスコートされるなんて信じられませんわ」
マリーヌの乳兄弟であり、侍女のエリーゼは怒りをあらわにする。
在学中にジョナタンはマリーヌとは別の女性に心を奪われていたのだ。婚約者のある身でありながら、心変わりを隠そうとはしなかった。
校内のカフェテリアで、サンルームで、仲睦まじい姿を見せていた。
マリーヌの言葉は聞き入れられることはなく、醜い嫉妬と捉えられた。
マリーヌはジョナタンの態度に衝撃を受けなかったわけではない。
誰しも心変わりをすることはあるのだろう、しかし、ジョナタンは王族であり、校内では身分を問わないという校則があっても、彼は他の生徒と同じではないのだ。
求められるものが他の者とは、異なるのだ。それはマリーヌ自身も同じである。
何度も、行動を慎むよう話したのだ。何度も物事には順序というものがあると話したのだ。それは、ジョナタンのためである。
マリーヌは第1王子の婚約者という立場に執着はない。今までの苦労が報われない思いはあるが、知識や経験は無駄にはならないと知っていた。今から背負う、責務を思うと強いて得たいという立場ではない。
婚約を破棄するのであれば、一向に構わないのだ。
しかし、モノには順序というものがある。
なぜ、ジョナタンはこのような公の場で、正しい手順をふまずに、高らかに宣言するつもりなのだろうか。
何者かの策略を感じずにはいられなかった。
隠しきれず、マリーヌは大きくため息をついた。
控えの間の戸を叩く音が聞こえ、エリーゼが返事をする前に戸が勢いよく開かれ、入ってきたのは、王弟陛下のマルセルであった。
「やぁ、マリーヌ。突然、申し訳ないね」
言葉とは裏腹に全く悪びれる様子はなく、柔らかな笑みを浮かべ、濃い金髪の乱れを手で押さえている。慌てていたのだろう、羽織ったジャケットのボタンはひとつ、ふたつ外れている。
衣服の乱れさえ、美しく着こなすマルセルは秀麗で端正な顔立ちの青年である。
「マルセル殿下、いったいどうされたというのですか?何か火急の事態でも起こりましたか?」
エリーゼは手早く、マルセルにカウチをすすめ、茶の用意をしている。
「いや、マリーヌから手紙をもらってね、目を通してから、ずっと君に会いに行きたかったんだけれど、なかなか時間を作れなくてね。こんなところまで押しかけることになってしまった。ーーマリーヌ、本気かい?」
マルセルは真っ直ぐにマリーヌを見つめる。
「……はい」
「ふぅ、そうか。それならそれでいい。君が納得しているなら、私に言うことはないよ」
ゆったりとカウチに腰をかけて、隙のない所作でお茶を飲むマルセルは、静かに瞳を閉じている。
「君の頼みは、カーサルの診療院の設立を私が引き継ぐこと。間違いないね、ならその見返りは?交渉には必ずメリットがないとね」
「マリーヌ様…っ!カーサルはマリーヌ様が尽力されている事業ではありませんか!それを……それをマルセル殿下に?いったいどういうことなのですか?私にもわかるようお話くださいませ。それとも、エリーゼでは頼りないのでごさいますか?!」
「エリーゼ、控えなさい」
「おや?腹心にも秘密だったのかい?そんなに行き詰まっていたのかい?君の密偵は優秀だったけど、事実を掴み切ることができなかったんだね」
「……」
マルセルは全てをわかっているような口ぶりである。マリーヌが使ったリシャール伯爵家の密偵の存在に気がついていたようだが、真実はわからない。
何もかもが推測の域を超えなかった。密偵はマルセルが首謀であるという事実を掴むことができなかった。
マルセルの周辺の貴族たちの影も見つけることはできなかった。
マルセルでないなら、カーサルの事業を委ねるのはマルセルしかいない。
無償に近い診療院の設立に反発している治療師は多い。彼らを抑えることができる者は多くない。
ジョナタンとマリーヌを落とし入れるために巡らされた策ならば、いったい誰が……。
ジョナタンの心を掴んだベルナー男爵の養女であるシャルロットは純粋に彼に惹かれたのだろうか。
淡い金髪に碧眼、小さな華奢な身体、クルクルと変わる表情はジョナタンの好みのタイプだ。それだけでなく、好む書籍の傾向、お茶の銘柄、嗜好がかなり一致している。
真っ直ぐなジョナタンが運命と感じてもおかしくはないが、マリーヌには誂えたようにしか思えない。
ジョナタンに次ぐ王位継承権を持つ、マルセルと疑うことは自然なことだ。
しかし、どれほど調べてもマルセルの痕跡を見つけることができなかった。
伯爵家の密偵は非常に優秀である。それを上回る密偵を持つ者は決して多くはない。しかし、マリーヌにはわからなかった。
マリーヌのあずかり知らぬところで何が起きている。
いったい誰が?
その答えを見つけられなかったマリーヌは一番の腹心にさえ、心を許せなかった。
「マリーヌ様…」
エリーゼは今にも涙を流しそうに、スカートを握りしめている。
「エリーゼ、ごめんなさいね。首謀者がわからない、そしてその目的もわからない。カーサルはたくさんの民が待ち望んでいるわ、私の失脚で消えてしまうことだけは避けたかったの。私はエリーゼを愛しているわ。それだけはわかってちょうだい」
「マリーヌ様…、失脚だなんて恐ろしいことを仰らないでくださいませ」
「……エリーゼ、恐らく私は王都にはいられないわ。お父様はきっと、私の話を聞いてくださるでしょうけれど、覆すことは出来ないでしょう。おそらく、領地のどこかに隠棲することになるわ、そうしたら、エリーゼ、一緒に来てくれる?」
「……はい」
エリーゼは眦に浮かぶ涙を拭う。
「おそらく、暮らしに困るようなことにはならないと思うから、…お兄様も援助くらいしてくださるでしょうし。大きな犬を飼ったり、遠乗りに行ったりしましようね」
「剣呑な話だけれど、なんだか楽しそうだね。その時は私も誘ってくれるかい?とびきりのメリットになる」
ティーカップを傾けながら、マルセルは眉を上げる。
「ご冗談を」
「冗談か。……マリーヌがシャルロットとかいう男爵令嬢にしたことこそ、冗談だな」
マルセルは華奢なカップに注がれた茶の香りを確かめてから、口をつける。
「…私には身の覚えのないことでも、作り出すことは容易なのです。悪質ないたずら…、いたずらの域は超えていますね、ドレスにワインをかけたり、階段から突き落とそうとすることなど、私はいたしません。しかし、私がその日、身につけていたドレス、ヘアスタイル、香水までも模した者がいて、シャルロット様に嫌がらせをしたのです。同時に私がシャルロット様をよく思っていないという噂を流す。……人は自分の思いたいように解釈する生き物ですから、私がしたということになるのです。思い込んで疑うことなど少しもない人に、身の潔白を訴えたところで、白々しいだけなのですよ」
「…自分の思いたいようにね」
「ジョナタン殿下は、私の話を聞いてはくださらない。……ただの一人の男性であるなら、痴話喧嘩で済むのでしょう。しかし、彼は王となる者。一方向からしか物事を捉えられないということが、どれほど危険なことか、わかってらっしゃらない……。正義感の強さ、真っ直ぐな心根、それは彼の長所ですが、同時に非常に危険でもある。今、私はよく理解しました。……もう意味はありませんけれど。私も彼も、王都を去ることになるでしょうから」
マリーヌはやりきれない思いをごまかすように手元の扇を弄び、パチリと鳴らした。
「マリーヌ様、全て偽りであるにも関わらず、どうしてマリーヌ様がこのような仕打ちを受けねばならないのですか?!」
「エリーゼ……」
エリーゼの肩が震え、目元をハンカチで押さえている。
戸を叩く音が響き、夜会が始まる時刻であることを知らせる者がやってきた。
「さぁ、参りましょう」
マリーヌはゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐに顔を上げる。
「マリーヌ、エスコートは誰が?」
「……従者に」
「なら、私がエスコートしても構わないかな?少し身支度を整えてくる。会場の脇で待っててくれ、すぐに行く」
「いえ、大丈夫ですわ。マルセル殿下、可愛い王子様と奥様がお待ちでしょう?妻帯されている方にエスコートしていただくわけには参りませんもの」
マルセルはヒタとマリーヌを見つめてから、薄く微笑み、ひらりと立ち上がり、部屋を後にした。
マリーヌは毛氈の敷き詰められた廊下を歩みながら、ドレスが立てる衣擦れの音を聞いていた。
すでに夜会は始まっているのだろう、管弦楽が夜風に乗って聞こえてくる。
廊下の向こうから、大股で歩み寄ってきたのはマリーヌの兄、エリックであった。エリックはマリーヌより5つ歳が離れているが、背が高くがっしりとした身体つきと精悍な目つきのため、実際の年齢よりも老けてみえた。正装のエリックは緻密で上品な刺繍の施された真紅の上着を身につけている。国の官吏として働く、兄が学園の卒業を記念する夜会に出席する理由がない。
「お兄様?どうなさったの?アイフェルの使節団が来ていることですし、お忙しいのでしょう?アイフェルの方が夜会にいらっしゃるのですか?」
アイフェルは友好な関係にある隣国であり、交易も盛んである。
エリックはアイフェルの使節団の対応に追われていたはずである。父も兄も多忙を極めていることをよく知っている。
マリーヌは二人を自分のことで煩わせたくはなかった。そのため、頼ることも相談することもしていなかった。
「マリーヌ、俺は待ってた。……兄は頼りないか?」
鋭く刺さる瞳を受け止めきれず、マリーヌはうつむく。エリックも今から始まる茶番劇を知っているのだろう。
「お兄様を煩わせるわけには参りませんから……。でも、私は間違えたんだわ、お兄様やお父様に頼っていれば、リシャール伯爵家の汚点にならずに済んだんだもの。お兄様、ごめんなさい、お兄様にきっとたくさん迷惑をかけてしまうわ」
「マリーヌ」
エリックはマリーヌの腕を引くと、その胸の中できつく抱きしめた。
「お、お兄様……」
マリーヌは戸惑いを隠せなかった。しかし、兄の腕の中は心地よく、息苦しさは兄の想いの強さのように感じた。
「マリーヌ、すまない……」
兄の口ごもるような小さな呟きはマリーヌの耳には届かなかった。
「エリック様、マリーヌ様、そろそろ参りませんと、お時間がありません」
エリーゼは困ったように眉を下げて微笑む。
「あぁ、すまない。さぁ、無骨な兄だけれど、マリーヌ、エスコートをさせてくれるかい?」
腕を差し出し、エリックはマリーヌに微笑む。
「エリック殿、その役目は俺に譲っていただこう」
「テオドール様……」
突然、かけられた声にエリックは一歩も退くことなく、マリーヌを背に隠した。
テオドールは切れ長の鳶色の瞳でエリックを見つめる。癖のある長い髪を後ろでひとつにまとめ、銀糸の刺繍の施された光沢のある濃紺の上着を着た偉丈夫なテオドールは、堂々としていた。
「テオドール様ですって?テオなの?」
エリックの背後からマリーヌは驚きの声をあげ、身を乗り出した。
「マリーヌ、久しぶりだね」
にこりと頰を緩め、エリックの後ろから顔を出すマリーヌを見つめた。
「本当にテオ?」
「驚かせてしまったかい?」
「えぇ、随分とお会いしていなかったもの。なんだか、知らない人みたいになったわね。あっ、ダメね。気安くテオなんて呼んでは」
「俺は俺だよ。テオさ」
「そういう訳にはいなかいわ。だって、王位継承権を認められたのでしょう?」
「うっかりね。飾りかオマケみたいなものだよ」
アイフェルの三番目の王子として産まれたが、妾腹であったためテオドールは王位継承を認められていなかった。
しかし、正妻が逝去したため、テオドールに王位継承権が回ってきたのだった。
気安い立場と擁立したがった者達から逃れるために、幼少期はこの国で過ごすことが多かったテオドールはジョナタンとマリーヌともよく遊んだ。
「俺がマリーヌをエスコートしてもいいかい?」
緩めた頰に幼友達の面影を見つけ、マリーヌは微笑む。
「お願いいたします。……といいたいところだけれど、お兄様にお願いするわ。テオ、夜会に参加するの?」
「あぁ、そのつもりだ」
「そう……」
マリーヌは兄の腕を取り、お願いと小さく呟き、前を向いた。
妃としての教育の成果を遺憾無く発揮して、マリーヌは微笑む。
「テオドール殿下、また改めててご挨拶いたします」
「マリーヌ、行こう」
兄はキリキリと歯を食いしめ、妹に合わせて歩む。
夜会はすでにたくさんの人が集まり、賑わいを見せている。
マリーヌとエリックの姿を見とめた人々がこそこそと話し始めるけれど、マリーヌは目を向けることなく、にこやかに微笑み、優雅に歩む。
エリックはピッタリとマリーヌについて広間の人の波を縫っていく。
そしてその時はやってきた。
「私はマリーヌ=リシャール令嬢との婚約を今夜をもって解消する。マリーヌ嬢は私の婚約者として相応しいとは言えない。ここにいるシャルロット嬢にした数々の行い、身に覚えがないとは言わせない!」
ジョナタンはシャルロットの腰に手を回し、柔らかく微笑むと、マリーヌに厳しい視線を向けた。
騒めいていた会場は一瞬のうちに静まり、人々は動きを止め、ジョナタンとマリーヌを固唾を飲んでみている。
「……殿下、恐れながら、私がシャルロット様にいったい、何をしたと言うのでしょう?」
「白々しいぞ!マリーヌ!私が何も知らない木偶の坊とでも思っているのかっ!私を見くびるな、証拠も証人も用意は出来ているんだ。ここで全てを詳らかにして、困るのはそっちだろうっ!」
マリーヌの脇に立つ、エリックにジョナタンは冷たく見つめている。
「……殿下」
マリーヌは一歩前に進み、エリックから離れる。
「私の咎は、私のみのもの。学園内のことは家の者とは無関係」
ジョナタンを真っ直ぐに見つめ言い放つ。濡れ衣は一人で充分だった。
親の仇でも見るような冷たい視線、でも熱に浮かされたような怒声、マリーヌの知るジョナタンとは違う、知らない人のように見えた。
穏やかで聡明なジョナタンを変えてしまったものは何だったのだろう。
マリーヌは胸の苦しさに気づいてしまう前に言葉をつなぐ。
「殿下、自宅にて謹慎いたします。どのような刑罰であっても甘受いたしましょう、けれども咎は私のみでございます」
ゆっくりと丁寧に、今までの努力の成果をここで、マリーヌはドレスを摘み、膝を曲げ、完璧な礼をとり、会場を後にした。
控えの間に戻り、慌ただしく侍女が帰り支度をしている最中に、訪う者があった。
「マリーヌ、少しいいか?」
テオドールが真剣な表情でマリーヌの元にやってきた。口元に微笑みはなく、きゅっと結んでいる。
「ごめんなさいね、テオ。久しぶりに会えたというのにこんなことになってしまって。ゆっくり話もできなかったし、本当に残念だわ」
「マリーヌ、本当なのかい?……ジョナは、ジョナタンは君と婚約を解消するのか?」
「……恐らく」
「マリーヌ……、なんと声をかけていいのか、わからないよ。いったい何があったんだ?」
マリーヌは掻い摘んで、事の次第を話す。誰かの策略の可能性は排除して、わかっていることだけを伝える。
ジョナタンはシャルロットと行動を共にしていること、シャルロットが嫌がらせを受けているらしいこと、その嫌がらせはマリーヌがしていることになっていること、身に覚えがないこと、そして、ジョナタンはマリーヌだけでなく、陛下にさえも話をすることなく婚約を解消すると宣言したこと。
マリーヌの話をじっと聞いていたテオドールは癖のある長い髪の乱れをそっと撫でつけ、少しの間、瞳を閉じた。
「マリーヌ、君はどうするんだ?このままじゃ、どこかに追いやられ忘れ去られるか、酷いところへ嫁ぐことになるか……」
「……そうね。恐らく、北の領地に別宅があるから、そこで慎ましく暮らしていくことになると」
「北の…?もしかして、山脈の麓の町か?一年の半分以上を雪と氷に覆われる、貧しい町じゃないか?そこへ?!」
「ええ、命までは取られることはないだろうし、このような曰く付きの私を妻に迎えたいなんて思う人はいないわ。お妃教育のおかげで憎たらしい小娘ですからね」
マリーヌはそう言って茶化してみたけれど、テオドールの表情は硬いままだ。
「マリーヌ、アイフェルへ来ないか?」
「え?アイフェルへ?」
「この国には、マリーヌの居場所がないなら、この国がマリーヌを必要としないなら、俺が貰う。もらってもいいか?」
「……テオ?」
「俺の王位継承権は第3位だ。兄たちは優秀な後見人がいる。俺に王位が回ることはまずない……興味もないけどな。力のある者の娘を娶るとバランスが変わる、すると国が揺らぐ。それは本意ではない。だから、マリーヌ、俺を助けると思って……」
テオドールはカウチから立ち上がり、顔に手を当てて、上を向く。
程なくして、マリーヌの足元にゆっくりと跪き、その手を取る。
「マリーヌ、私と共にアイフェルへ。大切にすると……誓約する。結婚してくれ」
マリーヌの瞳を覗き込んだまま、テオドールはマリーヌの手の甲に唇を当てる。そのまま、指先に、そして、掌に唇を這わせ、手首を軽く吸い、リップ音を鳴らす。柔らかく湿った唇とテオドールの視線はマリーヌの胸に今までに感じたことのない高鳴りをもたらした。
「……テオ」
「マリーヌ、今は返事をしなくていい。今はいいから、よく考えてくれないか。マリーヌにとって、悪い話ではないと思うから」
テオドールの瞳は、今まで見たことがない色を浮かべていた。マリーヌは受け止めることができず、瞳を逸らす。顔に熱が集まり、マリーヌの頰や耳、首までも赤く染めた。
テオドールはゆっくりと立ち上がり、マリーヌの手を離すことを惜しむように指先をきゅっと掴んでから、そっと離す。
部屋を出て行くテオドールの背中を見つめ、その背中が自身の記憶とは異なり、広く逞しいことにマリーヌは気がついた。
テオドールの背中が見えなくなったけれど、マリーヌの熱は引かなかった。
そして、マリーヌは逃げるように、帰路に着く。
ジョナタンは別宅の自室でカウチに深く腰をかけ、瞳を閉じており、眠っているように見えた。豪奢な上着を脱ぎ捨てただけで、身体から様々な香水の混ざり合った匂いが濃く香る。
夜会の喧騒がまだ遠くに聞こえている。
ドアの向こうの侍女の問いに、目を開けることなく許可と応える。
「ジョナ……?」
ふわりと淡い金髪を揺らし、ジョナタンの足元に跪き、その膝に手を乗せたのは、シャルロットだった。
「……」
「…気分が良くない?お茶でも持ってこようか?」
ジョナタンはいつだってシャルロットに笑顔を向けていた。しかし、問いかけても返事をすることなく、瞳を閉じたままだ。
シャルロットにじんわりと不安が登って、心の隅に追いやっていた疑問が大きくなっていく。
緩やかな弧を描く眉を下げ、瞳には心配の色を浮かべて、優しく問いかける。
「…どうしたの?ジョナ?」
「…どうしたの、か」
今まで聞いたことのない冷たさを含む声に不安はさらに増える。
「…?」
「今日で終わりだね」
「今日で終わり?何が?……どういうこと?どうしたの?」
シャルロットの表情が曇り、桜色の唇は少し震えている。
何も言わないジョナタンの様子にシャルロットはボリュームのあるスカートをぎゅっと握りしめる。
「…疲れたよね。私……、ジョナのために出来ることあるかな?それとも、今日はもう出ていこうか?」
ジョナタンはシャルロットの問いに答えることなく、じっと瞳を閉じたままだった。シャルロットはふらつきそうになるのを堪え、立ち上がり、帰るねと小さく口にして、踵を返した。
その時、シャルロットは背後からつぶやくようなジョナタンの声を聞いた。
「あぁ、そうだ。ルカはパン屋の夫婦の養子にするといいよ」
ジョナタンはピクリとも動かずに、瞳を閉じたままだったけれど、シャルロットは勢いよく振り返り、目を見開いた。
「……!」
ジョナタンはそっと目を開けるけれど、どこか遠くを見るようにぼんやりとしている。
「男爵家の養子の話は断ったほうがいい。あの男爵はあまりいい人間ではないし、その家族も快くは思っていない。それに君と違ってルカは物心ついた時から庶民として暮らしているんだ、貴族の暮らしは合わないよ。貴族に固着しては君の大事な弟の幸せを逃してしまうと思うよ?」
おかしいと思うことが何度もあったのだ。しかし、失敗は許されない。疑問を感じても、見ないように目を瞑ってきた。
「……知って、知っていらっしゃるのですね」
「知らないと、わからないと思っていたなら、君は本当に愚かだね」
「すべて、ご存知なのですか?」
「君は何を知っているというんだ?……せっかくだから、答え合わせをするかい?シャルロット改め、アニカ」
ジョナタンの瞳は真っ直ぐにアニカに向けられている。
「……」
「君の仕事は僕にマリーヌとの婚約解消をさせること。できれば、大きな過失を加える。そして、報酬は君の弟、ルカの男爵家との養子縁組」
「…初めからご存知だったのですね」
ソファに深く身を預けたまま、なんでもないことのようにジョナタンは微笑む。
「そうだね、僕は愚かではないから」
「なら、何故このような、このような茶番をなさったのですか……」
膝から崩れ落ちてしまいそうになるけれど、アニカは必死に前を向く。
目の前には、知らない男がいる。アニカはこんなに冷たい表情のジョナタンを知らない。
「……マリーヌをあいつにくれてやるためだよ。せっかく王位継承権を得て、マリーヌを得られる立場になったんだからね。昔から好きで好きで堪らなかったんだよ、見ていて呆れるくらいにわかりやすいヤツなんだ。一生懸命、慣れないだろうに手の込んだことを企むから、仕方がないから、乗っかることにしたんだ。昔のよしみってやつかな」
「……テオドール殿下が指示されたこともご存知なのですね」
「まぁ、この取り引きには、メリットがあったしね」
「メリットですか?」
「……シャルロットいや、アニカは聡明さが足りないね。無邪気で天真爛漫なところが素敵だけれど、取って付けたものだし、飽きるね」
「……」
「アハハ、話が逸れたね。今、この国には、王位継承権を持つ者が三人。一位は僕、二位は叔父のマルセル、三位は従兄弟、マルセルの息子だね。……マルセルは優秀な男でね、しかも、妻の実家もなかなかの野心家。息子も生まれ、順風満帆さ。マリーヌの実家も野心家だからね、力が拮抗する。それでは国は乱れる。だから、僕は廃嫡して隠棲、マリーヌは国外に嫁ぐ、国はマルセルが継いで、安泰。どう?簡単だろ?」
「……簡単なのですか」
「簡単なことだよ、いたってシンプルさ。それに僕はマリーヌを愛している。幸せになってほしいよ、僕と結婚して妃になると苦労することはわかってる。優しく聡明な彼女には辛いことばかりさ、幸せにはなれない。彼女のために、僕は愚者と呼ばれても構わない。同じように、この国も大切なんだ、二つを、同時にいい方向に持っていける。労は厭わないさ。しかも、この国に膨大な利益をもたらすとあってはね」
「利益?なんの利益があるというのです?」
「……おそらく、テオはコーレの輸出の価格を引き下げるとでも言ってきたのだろう。莫大な利益を見せられて、妹を取るような男じゃないよ。エリックはね、国の貿易を担当している。国益か、妹かの二択では国益を選ぶ。だからこそ、国の中枢にいるんだけどね」
冬を越すためには大量のコーレが必要であるが、この国は大部分をアイフェルからの輸入に頼っている。
「……国益を優先するなら、黙っていろということですね」
「そうだね、かわいそうなマリーヌさ。密偵をいくら使っても、エリックが密偵を全てコントロールしているから、真実など掴めるわけがない。それに、テオも馬鹿じゃない。僕がわかっていないとは思ってないさ」
「それでは、マリーヌ様だけが……」
「マリーヌは真っ直ぐな優しい子なんだ。誰一人、責めはしないだろうね。おそらく、いろいろな疑いを持っていても、問い詰めることはない。テオドールが幸せにするさ……してくれなきゃ、どんな手を使ってでも、返してもらうだけだけどね」
ジョナタンは微笑みを浮かべいたけれど、その瞳は剣呑な光を含んでいた。
アニカは呆然と立ち尽くす。
田舎に帰ってルカとパン屋で働こうと思った。
出っ歯のルカの笑顔ひどく懐かしく、朴訥としたパン屋のおじさんとおばさんに会いたかった。
窓を揺らす、風の音が聞こえた。