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ついに彼女は羽化を迎える  作者: 枕木きのこ
二 地盤に水が染み入り、
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1

 意識は蝶になった。

 部屋中を不規則に羽ばたき、世界の裏側に何かを起こしてしまいそうな予感を孕ませ、素知らぬ顔でふよふよと漂う。身体だけが地上に取り残され、起き抜けのその鈍重さに、辟易とする。

 どこかへ行ってしまいたい。

 枕元でバイブレーションを起こすスマートフォンを落ち着かせる。普段であれば鳴る前に起きれるのに、今日は少し寝坊してしまった、と誤認する。どうも夏休みを目前にしているのに、優等生を気取ろうとしているらしい。

 寝巻き姿でリビングに顔を出すと、母は珍しく朝から化粧をし、父は箸を片手に週刊誌を捲りテレビから鳴るクラシック音楽に耳を傾け、弟の姿は、なかった。どうやら未だ寝ているらしい。

「おはよう」

 自分の声なのに、別人のものに思える異質な声音がそこにポツリと落ちる。

「おはよう」

 母はパフで頬を叩きながら返事をくれたが、父は蚊の飛ぶような音を出しただけだった。

「ごめんね、ご飯、自分でよそって」鏡と睨めっこしたまま、「おかずは出てるから」

 声だけはこちらに投げる。

 堕ちた蝶は、ゆっくりと眠りに入った。

 依然、鉛の身体は、釣られて落ちそうになるまぶたを抑えるのに必死だ。どうもいつもより眠気が強い。緩慢に食卓へつき、焼き鮭と卵焼きを眼前に、

「いただきます」

 手を合わせる。

「お父さんもそろそろ支度しないと」眉を吊り上げ目を見開いて、涙袋のあたりにアイシャドウを塗っている。「夏休みなんてないんだから」

「そうか、優は今日行けば休みになるのか、羨ましいねえ」

 母の籠手を父はひらりと避けた。

 眠いし、おなかが空いていた。

 土に還った思考は地割れを起こし、無為にこちらに矛先を向ける父への嫌悪感を覚える。

「ここ」箸を握ったままの手で、鼻の頭を指し示すと、「すごい皺だぞ」

 暢気な調子で籠手返し籠手までくれる。

「はいはい、早く支度しなよ」焼き鮭でご飯を食べ進めながら、未だ週刊誌を広げる父を見やる。「それこそ長い休暇になっちゃうよ」

 大仰な笑い声に、

「うまいな、一本一本」

 杜撰な判定を下す。

「そういえば母さん、どこか出かけるの?」

 入念な化粧を続けながら、

「言ってなかったっけ、夕方から同窓会があるの」

「それにしては早いね」

「その前に、友だちと合流して買い物に行くのよ」

 楽しそうに顔を綻ばせている。

「そうなんだ」

「何か欲しいものあったら言ってね。メールでも良いし。ただ、夕方になったらお酒飲んじゃうから、早めにね」

 これといったものは浮かばなかったが、適当に返事を済ませた。

 その次に聞こえた、

「悪いんだけどご飯の支度よろしくね。一応簡単に下準備はしておくから」

 母の言葉に、うんざりする。

 食事を終え、冷や水を顔に浴びたら、ようやく明確に冴え始める。割れた地盤に水が染み入り、新たな木々を生み、そしてまた、夜にはさなぎが準備を始める。

 鏡に映る自分と向き合うと、ひとつ頬を叩いた。今日を終えれば長期休暇。いくらでも羽を伸ばせる。

 いそいそと支度を終えると、鞄に最低限の筆記用具があることを確認し、

「行ってきます」

 マンションを発つ。母は間延びした返答をくれ、父はようやく慌て始めて聞こえなかったようだった。弟は、間に合うだろうか。

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