第1話
「僕の人生って、何でいつもこうなんだろう」
夕焼けに照らされる佐藤祥汰の足元から影がのび、ゆったりと揺れている。ふらふらと泳ぐその影は、辺りが橙色で染まっている空間に溶け込んでいってしまうくらい危なっかしいのに、赤とも言えぬ橙色に微かに偏りかけた影の色は、まだ何とか黒色を保っていた。
「うっ……」
僕は呻き声を小さく漏らすと、その場で勢いよく嘔吐した。地面に滴り落ちる白い液体が、僕の顔にぴちゃりと跳ね返る。完全に腹を下していた。
第一、あんなに飲ませるからいけないんだ。牛乳五本一気飲みとか、ありえないだろ、普通。
胃を空っぽにしたおかげで、幾分か楽になった僕は、まだ怠さが抜けきれていない身体を手で支え、腕に力を込めた。膝を付くと、また少し吐いた。口の中は気怠い牛乳の味が僅かにした。やっぱ……正直言ってきつい。
やっとのこと土踏まずが地面に付き、膝を伸ばしきった瞬間、突然僕の脳裏に閃光が走った。そして、ある一つの映像が早々と、まるでトランプを空中にぶわっと舞い上げたかのように、ひらひらと表裏を繰り返しながら再生された。
集中してよく見ると、スーツを着込んだ男性の後頭部目掛けて、剛速球で飛んでくる野球ボールが見えた。あれ、これってまずいんじゃないか……?そう思い、さらに集中すると、もう後頭部にボールが当たる寸前だった。僕は嫌な予感がし、目を瞬時に閉じると、映像はぱっと消えた。そして、じわじわとした頭痛に襲われた。
しばらくその頭痛が治まるまで立ちすくんでいると、スーツを着た男性が僕を通り越していった。この顔、見覚えがある。……もしかすると、もしかするとだけど。半ば疑惑を抱きながら、僕は男性にだんだんと近づいて行った。
「あの」
僕が話しかけると、男性はやつれた顔をこちらに向けた。頬がこけ、目の下には厚いくまがこびり付いていた。
こんなの信じる方がどうかしているけれど、これに賭けようと思った。僕の読みがもし当たったら、たぶん今日の三時のおやつは、きっと冷蔵庫ではなく、手作りのケーキがテーブルにそのまま置いてあるだろう。僕は何かと賭けることが好きだ。この信号が渡れたら今日は良いことがある、黒猫を見かけたら幸せになれる、などなど。でもその賭け事が当たったことは今まで一度もない。幸せに過ごすことを必要以上に望んでいるからだろうか。
不審げに薄い眉を寄せている男性に向かって僕は言った。
「この先、工事しているんです。だから、こっちの脇道通った方が早く駅に着くと思いますよ」
男性は黙って頷くと、口をもぞもぞと小さく動かして、何かを言い残し、脇道に吸い込まれていった。頼りない猫背は、赤に変わった空間に溶けていった。お礼でもいったのだろうか。聴力には自信がある僕でも、何を言ったのか聞き取れなかった。
「きゃあああああああああ!!」
突然金切声が耳を貫き、僕は振り返った。そこには、スカートだというのに足を思いっきり広げて尻餅を付いたまま、わなわなと口を震わせている女性が座り込んでいた。女性が見ている方へ視線を移動させると、信じ難いものが空間にどっしりと佇んでいた。
野球ボールが公園の木の幹にのめりこんでいた。幹には亀裂が入り、見るからに痛そうだった。夕焼けのせいで橙色から赤に染まった幹の皺は、まるで血管のようだった。
「あぁ……」
僕ははぁっと息を吐き出した。微かに牛乳の匂いがツンッと鼻をついた。空間を切り裂く重々しい物体。夕焼けに照らし出され、葉を風に任せて余裕気味に揺らしながら、赤くぎらつかせている幹を見つめ、確信した。脳裏で突如として再生されたあの映像。あれに出てきた野球ボールがそのままの形と色で幹に刺さっているかの如く、存在している。
僕は家に足早に帰ると、靴を脱ぎ捨て、テーブルを確認しに行った。僕の読みが正しければ、きっと、きっとそこには存在するべきものがあるはずだ。
しかし、テーブルのどこを探しても、手作りケーキなんてあるはずもなく、仕方なく冷蔵庫を覗くと、そこにはコンビニで買ったであろうチョコレートケーキがあった。テカっている表面が、台所から差し込む藍色に近い赤い光を反射していた。
吐き気と共に疲労がどっと押し寄せ、僕はテーブルの両脇にある椅子にどさりと座り、頭を突っ伏した。
どうやら、僕は未来を見てしまったらしい。