Lonely Memory
ブログの方で参加した、小説企画の為に書いた話です。
テーマは「風」、枷を「人間関係」としています。
制約がある中での作品作りは初めてなので、ご意見ご感想頂けると嬉しいです。
『私、夏は嫌い』
『どうして?』
『だって折角海水浴のできる季節なのに、昨日も一昨日もその前も雨がざあざあ降ってどこへも遊びに行けないんだよ?』
『今日は晴れてるよ』
『でもお父様が海には行っちゃいけませんって言うの。もう夏なんて嫌い』
『ああそっか。今日は風が西から吹いてるもんね』
『西から? ルイはお馬鹿さんね。風なんか目に見えないからどっちから吹いてるかなんて分からないでしょ』
『こうすれば分かるよ、クラウディア。ほら手を貸して――
夢を見た。昔々の懐かしい記憶。懐かしくて切なくて、少しだけ涙が出た。
* * * * *
「お嬢様、そろそろお目覚めの時間です」
涼やかな声に目を開ける。とっくに目は覚めていたけど、彼の言葉でようやく起きた様に思われるのは癪だから、とりあえず手近にあったクッションを掴んで声のした方へ投げつける。君が起こしに来なくても私は覚醒しているぞ。
「抵抗しても無駄ですよ。お嬢様は軽いんですから僕がクローゼットまで抱き上げて連れて行くのは容易い事だと以前にもお教えしたでしょう。もう忘れてしまわれたのですか?」
「抵抗したんじゃない!」
「ではご自分でお着替えなさって下さい」
のそのそと起き上がると、いつも通りの爽やかな頬笑みを浮かべた彼と目が合う。クローゼットを手で示してどうぞ、と目で促す。
「じゃあ着替えるから……。ルイ、あっち向いてて」
「承知致しました」
大して悪びれる様子も照れる様子も無く、しれっと回れ右をして私に背を向ける。今年で17を迎える少女がすぐ傍で着替えると言うのに動揺しない辺り、完全に相手にされていないと実感せざるを得ない。溜息をつきながらも夏らしく、白色の上品なシルエットのワンピースを選んで袖を通す。
「ねえルイ、私の事名前で呼んでって昨日言わなかったっけ」
「身分の低い者が高い方の名を気安く呼ぶなど、あってはなりません。階級差は絶対です。以前にも」
「分かったわよ……」
……ほらね、いつもこの調子。だから彼――ルイは、きっと私の事なんか覚えていない。小さい時にあんなにいっぱい遊んだのに。あんなに沢山の事を教えてくれたのに。この10年間、私は一日だって彼を忘れた日は無かったのに。だからこの間ルイが執事として私の家に来た時は飛び上がるくらい嬉しかったのに。それなのに彼は、私の事を、覚えていない。
もう良いわよと声をかけるとルイは振り返って、では朝食の準備ができていますので参りましょうと微笑んだ。
私がルイと初めて出会ったのは5歳の夏。庭芝生の上で絵本を読んでいた私の頭に、ぽこん、と何かが当たって落ちた。拾い上げるとそれはボール。ゴムでできていてさほど重くはなく泥汚れが目立つが、それでも私には初めて見る物でとても興味をそそられた。きょろきょろと持ち主を探して辺りを見渡す。すると、居た居た。庭の囲いの植え込みの下。3mくらいある植え込みを乗り越えるのは無理だったらしく、小枝や葉っぱをダークブロンドの頭にいっぱいくっつけた男の子が、茂みの間から顔を出していた。ボールを探してか同じ様にきょろきょろしていた彼もやがて私を見つけて這い出てきた。
「これ君の?」
ボールを見せると彼はこくこくと頷いて、
「投げて遊んでたら飛んでっちゃって……」
とバツが悪そうに笑った。
「君はこのお家の子?」
聞かれて頷くと、途端に彼は慌てだしてこんな事を言いだした。
「ここのお家は僕らとは違う偉い人が住んでるから絶対に入っちゃ駄目ってパパが言ってたんだ。でもボールが行っちゃったから……。僕がここに来た事、君のパパに内緒にしといてくれる? 僕なんでもするから!」
へえ、と私は子供ながらに納得した。だから私の家には子供が私一人だけなのだと。外の人達がそう言うから、豪華な服を着た大人達しかこの家には遊びに来ないのだと。なんでもするから、と言う辺り、私の家に入るのはかなりいけない事らしい。何がそんなにいけないのかと、お父様が偉いと何故家に入ってはいけないのかと、そんな疑問を抱えながら私は曖昧に彼の頼みを承諾した。
「じゃあ僕もう帰るから、ボール……」
控えめに私の手の中の物を指差す彼を見ていたら、突如ピコン、と電球が点るように、私の頭の中に名案が浮かんだ。
「君、何でもするって言ったよね」
「う、うん」
「じゃあさ」
にいっと笑ってボールを軽く振る。ああなんて素敵なアイディアだろう! 丁度絵本の世界にも飽きてきた所だったんだ。
「私のお友達になってよ! それでこれを使った遊びをいっぱい教えて? またここに遊びに来て良いからさ。お父様には内緒にしとけば良いんでしょ? ね、何でもするって言ったじゃない!」
半ば強制的に私の提案に乗せられて、その日、私はルイと友達になった。
「お嬢様、フォークが止まっておられます。考え事ですか?」
ルイの声で我に返る。目の前のリゾットはもう完全に冷めてしまっていて、私のお腹もいつの間にか一杯だった。
「ちょっとね。もういらないわ、ご馳走様」
ナプキンで口を拭いている内に食器が素早く片付けられる。その様子に改めて自分は身分が高い者なのだと思い知らされる。それはつまり、ルイとは対極に居る人間という事なのだ。だから彼は10年前にこの地を離れるしか無くなってしまった。貴族の家に忍び込んだ卑しい庶民のレッテルを貼られ、そうする以外に選択肢は残されていなかったのだ。
「以前にもお教えしたでしょうお嬢様、お食事に時間をかけると大して食べていなくても脳が満腹のサインを出してしまうのですよ。もう忘れてしまわれたのですか?」
戻ってきたルイにそう諭される。10年前に身分差が私達を引き裂いていなかったのなら、今私はルイとどんな関係を築けていたのだろう。
「……忘れた。そんな事よりルイ、今日は久しぶりの晴れね。庭を散歩しない?」
「かしこまりました」
ぼんやりと、四角く囲われた久々の青い空を見ながら立ち上がる。外はとても暑そうで、海水浴日和の様だ。そう、私が彼に風の向きを知る方法を教えてもらったのも、こんな雨の合間の夏の日だった。
お父様に海水浴を反対されてむくれた私に当時7歳のルイは言った。
「ああそっか。今日は風が西から吹いてるもんね」
私の屋敷の西側に海は広がっている。だから西から風の吹く日は沖の方からの波が高くなり、とても危険だというのは分かる。だけど。
「西から? ルイはお馬鹿さんね。風なんか目に見えないからどっちから吹いてるかなんて分からないで
しょ」
「こうすれば分かるよ、クラウディア。ほら手を貸して」
にこっと笑った幼いルイはおもむろに私の手を掴むと、台風による連日の雨で庭に残っていた水溜りの一つに躊躇無く突っ込んだ。
「な、何するの!?」
「濡らしたこの手を、手の平を海の方に向けて伸ばしてごらん」
多少彼に反感を持ちながらも言われた通りにすると、ひゅうっと吹く風の中で、手の平だけがひんやりと冷たくなった。
「冷たくなった方が風の吹くほうだよ。風が水を乾かして冷たくなるんだ」
「ルイ、すごおい!! よく知ってるね!!」
はしゃいで拍手をすると、彼は得意げににこにこ笑っていた。
今はあの頃ほど馬鹿じゃないから肌の感覚で、今日も風は西から吹いていると悟る事ができる。それでもやっぱり、今隣で足元の水溜りを眺めている19歳のルイがこの思い出を覚えていないと思うと、胸が締め付けられる位切ない。彼が覚えていなくても、私は彼に伝えたい。私があの頃どれだけ楽しかったか。私が今どれだけ君を想っているか。
「ねえルイ」
「はい?」
「私ね、大好きな人が居るの」
ルイがほう、と驚いた様に私の方を向く。
「10年前に離れ離れになっちゃったんだけどね。それまでは毎日一緒に遊んでて、彼は私に色んな事を教えてくれた。何も知らない私に新しい世界を見せてくれた」
身分の差さえ無ければ。ああそれさえ無ければ私はルイとずっと一緒に居られたのに。
「でも彼は普通の家の子だったから。私とは身分が違ったから、それだけの理由でお別れしなくちゃいけなくなった。私はこの10年間、一度も彼を忘れた事は無い。でも、彼はきっと忘れてる。私の事なんか、忘れてる」
言葉にしてしまって、改めてその事実を自分に言い聞かせてしまって、涙が零れそうになった。泣くな、泣いたら駄目だ。ルイは何も覚えていないんだから。
「驚きですね。お嬢様ほどの階級を持つ方が、そんな汚い一般庶民を10年も覚えているなんて」
「庶民でも何でも、私にとってはたった一人の大事な大事な友達だったの……っ」
「そうですか」
しばらく何か考えていたようだったルイは、顔を上げるとにこ、といつもの笑顔を私に向けた。
「しかしその庶民の『彼』は、お嬢様の様な方とお友達になれたのですから、10年経った今でもお嬢様の事を覚えていると思いますよ」
……実際覚えていないけどね。にこにこと、私の大好きなその笑顔で大丈夫ですよ、と語る。励まそうとしてくれているのは嬉しいけれど、ルイ自身が覚えていないのならどうしようもない。ああ辛いな。悔しいな。私ばかりがこんなに覚えていて、私ばかりがこんなに寂しくなって。半分ふてくされて、半分何か喋っていないと涙が零れそうで、
「今日は海水浴に行っちゃいけないらしいの。風が西から吹いてるんだって」
私は懐かしいあの日の台詞を口にする。
「風なんか目に見えないからどっちから吹いてるかなんて分からないでしょ」
私の問いに答えをくれる声はもう無い。芝生を揺らす西風は透明で、通り過ぎてしまえばもう見えない、感じない。まるで昔の思い出の様に消えていってしまう。
ぽろ、と。今まで堪えていた涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。寂しい、寂しいよルイ。私ばっかり覚えてるなんてそんなのずるいよ。どうせ君が忘れてしまうなら、私も綺麗に忘れられれば良かったのに。きりきりと痛む胸は自分ではどうしようもないほど先走っていて、忘れたいのに今更忘れることはできない。辛いよ、辛いんだよルイ……。
「『こうすれば分かるよ、クラウディア。ほら手を貸して』」
懐かしい答えに耳を疑った。同時に私の手の平に滑り込んでくる大きくて温かい手。状況が飲み込めないままの私をしゃがませると、『彼』は掴んだ私の手を足元の水溜りにそっと浸した。
「『濡らしたこの手を、手の平を海の方に向けて伸ばしてごらん』」
言いながら私の腕に手を添えて誘導する。あの日の様に、海から吹く風で私に手の平は微かに冷やされた。
「『冷たくなった方が風の吹くほうだよ。風が水を乾かして冷たくなるんだ』」
恐る恐る、たったひと欠片見出せた望みを胸にすぐ傍にある彼の横顔を窺う。ああどうか、どうか私の想いが報われてくれますように!
期待に満ちた私を振り返った彼の笑顔は、あの日と何も変わらず楽しそうに、嬉しそうに輝いていた。
「以前にもお教えしたでしょう。もう忘れてしまわれたのですか?」
The End