涙と変化
いつものように素直に謝罪するのだろうと想像していた私は予期せぬコウイチの発言に言葉を失って少したじろいだが、
「だから財布からお金抜かないでっていってんじゃん」
と至極最もな反撃を繰り出した。
「三日に二千円の約束はどうなったんだよ!」
「自分がID使い過ぎるからお金ないんだよ!それもわかんない!?」
コウイチは黙った。こんなに使われちゃ、あんたの給料じゃやり繰りできねーんだよ!とも言ってやりたかった。
「財布からお金抜く度に私がどんな気持ちになるか考えた事なんてどうせ無いんだろうね」
「何その言い方。こっちだってお金無くて何も出来ないから仕方無くID使うんだよ!」
「だがらID止めてくれないと小遣い出せないんだって!」
話は平行線をたどる。最終的に
「もう良い。話してもコウイチは何も変わらない。」
と私が諦める事で言い争いは収まった。
収まったのだが、険悪な空気が流れていて居心地が悪い。コウイチを居間に残して頭を冷やしにベランダに出た。しかし風もなく生温い暗闇は、頭を冷やすどころか肌をべたつかせ不快にさせる。部屋に戻ってすぐに寝室に退散しよう。ベランダから居間へ帰るとコウイチがこちらを見ていた。視線を敢えて合わさずにいたら
「ごめんね」
謝って来た。最初から素直に謝れば良いんだ。
ふっと糸が切れたように涙が溢れた。
「もういい、どうせわかってくれないもん」
その場にしゃがみ込んで泣いている私の側に駆け寄って
「分かってるよ、ユナの言いたい事。ごめん」
コウイチは必死に謝っている。
「もう嫌。こんな生活本当に嫌!」
声を上げて泣いてしまった。
「家事も完璧じゃないけど頑張ってるよ、ゆうとの送り迎えも大変だけど頑張ってる。だけどコウイチがお金使い過ぎるから本当に大変なんだよ」
というような事を涙ながらに訴えた。コウイチはごめん、ごめんと繰り返している。
「もう本当に嫌だ……」
涙が止まってもうなだれている私にコウイチは
「これからは俺ももっと頑張るから。ユナの負担が減るように家事も手伝う。頑張るから。」
と精一杯に主張した。
信用出来るだろうか。今まで口先ばかりで何も変わらなかった人間が、私が泣いた位で本当に今までの事を許せる位に頑張れるものだろうか。
「もうIDは使わない。絶対に」
私には信じられなかった。次は離婚だと忠告していたのに、約束の無意味さを思い知らされていたからだ。だが、財布から抜いた金額が少なかった事から今回は離婚騒動には陥らなかった。
以前話した医療事務の短期セミナーに応募し、見事抽選に残った私は八月上旬から地域の交流センターで開かれる、週二回の講義に通い始めた。もともと通信講座を受けていたので講義の内容に遅れをとる事は無かった。仕事も勉強も捗り、なかなか充実した生活だった。
あれからコウイチは家事を手伝うようになってくれた。休みの日にはゆうとを保育園へ送ってくれる。食器も洗うし洗濯物を干していれば黙って手伝いに来る。
「ありがとう」
と言うと、
「グリーンだよ」
とよく解らない返事をしたりもする。(多分「良いんだよ」の韻を踏んでるつもり)
コウイチの変化は私にも変化を及ぼした。どんなに忙しい毎日でも、ゆうとがぐずっても、勉強のせいで寝不足でも、私のイライラは発動しなくなった。
夫婦が不仲だと子供は不安定になるという。私は自身、コウイチと何か問題が起こる度に心に余裕が無くなって、ゆうとの世話どころではなくなる。ゆうとを可愛いと思っているのに愛せなくなってしまうのだ。両親の不仲を見てきた私達姉妹は例外なく情緒不安定に育った。子供にはそんな思いはさせたくないと思っていたのに、いつの間にか両親の様になっていた事に気付いた。
コウイチが変わってくれたのだから、私も変わろう。もっと良い妻、良い母になろうと改めて決意した。
殺人的な猛暑が襲う八月中旬。夏休みとはいえ飲食店はランチタイムのピークを過ぎれば、客足が減って暇過ぎるくらいに暇になる。退勤時間が迫っていたので持ち場の片付けをしていると、今日は休みの筈のコウイチが店に入って来た。表情が暗い。何かあったのだとすぐにわかった。
コウイチは
「話がある」
と言って事務所で待っていた。私が退勤し、二人で保育園へ向かいながら話を聞いた。
「ごめん。母ちゃんに金貸してって言われて一万三千円渡した。」
今度は義母かよ!
三千円は朝渡したコウイチの小遣いの残りだ。五千円札しかなかったのでそれを渡してお釣りを貰う予定だったのだ。
「一万円持ってたの?」
「引き落とそうと思って通帳ポーチの中を見たらに一万円あったから、それを渡した……」
それだけは手を付けて欲しくなかったのに。
「あれ、ゆうとの初誕生のお祝いに、うちのおばあちゃんに貰ったお金だよ!ゆうとの口座に入れるつもりだったのに……」
コウイチは悪くないが責めるような口調になってしまった。
「ごめん……。医療費を滞納してて、これ以上払わないのなら診察しませんって言われたらしくて病院に呼ばれたんだ。でもこれは絶対に返して貰うから。」
「うん、お願い。」
金に困って滞納しているのに、それを返せと言うのは冷たいと思われるかも知れない。だが義母への同情は沸かなかった。前回金を貸した後、音信不通になっておいて困ったらまた貸せと連絡してくるなんてムシが良すぎはしないか。本音を言えば義母にはもう金を貸したくない。角を立たせたくないから何も言わなかったが、ゆうとの金なら話は別だ。何も知らずに使わせてなるものか。
「返してって言いづらくない?」
コウイチはどう思っているのか知りたかった。
「うーん……。今日実は色々文句言っちゃったんだ。顔見た瞬間にふざけんなよ、とか。でも俺がもっと前から母ちゃんに金を渡していたらこんな事にならずにすんだのかなとも思う」
「そっか……。じゃあ返ってこなくてもいいから、あの一万円はゆうとのお祝いだって事を電話で伝えて。今日。帰った後」
「わかった」
返さなくていいと言ったが、この話を聞いて返さない訳にはいかないだろうと。そう思ってコウイチに頼んだ。
すました顔をして返さないつもりなら、もう二度とゆうとには会わせない。会わせてなんてやるもんか。