二十九
しばらくエーファンにどういうことなのか問いただしつつも、軽くかわされては結局ハッキリした答えは聞けなかった。聞いてはかわされ、聞いてはかわされて。さすが、女慣れをしているだけはあるのか――会話の流し方がなだらかすぎて、うっかりしてたら本題を忘れそうになる。
しかし……き、気になる。そういう事? そういう事って、いったいどういうこと? あたしは、“勇者はあたしの事はなんとも思っていない”と、そう答えた。そしてエーファンの答えは“そういう事だよ”だけ。だからどういう事だよ!? あたし頭がすでにパンクしてますけど!
ほんと、人間って難しい。
そう思っていた時だった。階段を昇ろうとした直後、そこから転げ落ちるようにして――誰かが降りて来た。この人は……舵をとっていた船員の一人だ、たしか。その船員は、エーファンに気付いては焦ったように叫ぶ。
「――せせせ船長ぉー!」
「どうした?」
「ヴェラリエルの奴等が……!」
「やっぱりか……なんでお前ら急いで逃げないんだよ? 静かに傍観してる場合か!」
「そ、それが……」
船員は、言いにくそうにボソボソと呟いた。しかし、あたし達はその言葉をしっかり聞き取る。
「一斉にみんな眠くなっちまって……気付いたらもう間近に、奴等の船が」
「――なんだって?」
「し、しかも船が動きやがらねぇんです……」
みんな一斉に眠くなった? しかも……寝ていた間に、船が動かなくなっていると。もしやと思ったあたしは、我先にと階段をかけ上がった。あたしの予想が正しければ、船の真下――海の中に、“そいつ”はいるはず。甲板へ急いで向かうあたしに、エーファンと船員は追いかけて来た。
不思議に思っていたんだ。コーヒーを飲んでいたのにも関わらず、何故突然と眠くなったのか。あの用心深い勇者までもが眠っているのだから、あたしの予想は確実性が増す。そしたら何故ヤイバだけが眠くならなかったのか――理由は簡単だ、彼女は異世界人だから。エーファンは眠る直前にヤイバに近付いていたから、ギリギリセーフだったのだ。
皆を眠りに誘い、船を動かさんとする存在……その正体の名は――あたしは甲板についてすぐ、先頭に立ち、海上を伺った。そして大声を放つ。
「セイレーン! いったいなんの真似だ!!」
――セイレーン。それが、その正体の名前だ。その美しい歌声で人々を惑わし、眠りに誘い、船に乗る者の暗黒へと導く“魔”の生き物。しかしあたしが知っているセイレーンは、もう生き残りが一人しかいなかったはず――つまり、ここにいるのはあたしの知るセイレーン、ただ一人。
みんなが後ろであたしを見守る中、あたしは忙しなく海の中を集中して見渡した。ヴェラリエルの船はもう人間の肉眼で捉えられるほど近い――早くしないと、捕まってしまうだろう。こうなったら……と、あたしは辺りに魔力を放出させた。そしてその魔力を網状にして、海に解き放つ。
精密に練られた魔力の網――魔王クラスのそれに、いっかいの魔族が敵うはずもなく。網にかかった彼女を、あたしは勢いよく引きあげた。ジタバタとしながら彼女――セイレーンは、甲板へと降り立つ。それを、ギルさんが現れて押さえ付けた。
「やあセイレーン、お久し振り。会うのは五年ぶりかな」
「ひ、姫様――いえ、ま、魔王陛下」
「……あたしは、魔王の座を引き継ぐつもりはない。それより、これはいったい何の真似だ」
あたしは冷ややかに彼女を見下ろした。
彼女――ロロ・セイレーンは、先ほども言った通りセイレーンの生き残りだ。あたしの記憶にある昔の彼女は、とても慎ましく、穏やかな性格であったと記憶している。だから、これにはあたしも我慢が出来なかった。
魔族は、掟に縛られている。それが当たり前であり、誇でもあったから。そして魔族なら幼い頃から言い聞かされるであろう――掟その一、“憎しみだけで人間を殺してはいけないこと”。殺していいのは己の肉親、親しかった者が……殺され、辱められた場合のみ。それ以外に、絶対危害を加えてはならない。
あたしは怒りを爆発させないように、ゆっくり震える息を吐いた。父上は、なによりロロ・セイレーンを気にかけていた。それは彼女が父上の遠い親戚でもあり、父上が妹のように接して来た相手だったから。家族の亡くした彼女を、他の魔族とともに励ました――しかし、そのお返しがこれか。
あたしも、彼女を家族のように思っていた。いや、魔族は全員家族だ。だがその家族に裏切られ、あたしは怒りや悲しみに震えた。昔は憧れた時期もあった、彼女の美しい――金色の髪。今はどこかくすんでいるように見えて、どことなく貧相だった。
「――父上がどんな思いで、貴女を支え続けた? 大臣や、ベイクドールも、どんな思いで手を差し延べた。これが恩返しだとしたら、あまりにもお粗末だ」
「も、申し訳ありません陛下――いえ、姫様。わ、わたくしは……その」
彼女は、悲しみの涙を流す。あたしは近寄り涙を拭ってやろうとするが、彼女は悲しくほほ笑みながら「姫様のご温情、気持ちだけありがたく受け取ります」といって断った。そして、本当に小さく……「“孤高の狼”にお気をつけくださいませ」と呟く。
「え――? それっていったい……」
「……姫様。わたくし、本当に今まで幸せでこざいました。このような真似を残してこの世を去る事を、どうかお許しくださいませ。ただ……最後となるならば、姫様の顔がどうしても見たかったのでございます。言葉も、残したくて」
「……!」
「最後まで――見ていただけますでしょうか? わたくしという存在がいたという事、記憶していただけるでしょうか?」
……魔族の掟。もし間違えて関係のない人間を危機にさらしてしまった場合、自らその命を――絶たなければならない。
ロロ・セイレーンはもしや……わざと、人間に危害を与えたのか? 危害とはいえちゃんと加減をしており、まわりに島がない時に眠りを起こしている。彼女は最後に言葉を残したくてと言った――最後? 最初からもう時間がないとわかっていたのだろうか。“孤高の狼にはお気をつけくださいませ”と、彼女はその言葉だけを伝えるために……やって来てくれたのだろうか。
あたしは彼女から目を離さないように、しっかりと見つめた。彼女はそれがわかると、短く唱える。
「姫様に、祝福の光がありますように。――イコ、チシラ、ヲイトニ」
彼女は――終焉の呪文を唱えた。呪文を唱える事を必要としない魔族にとって、これは最初で最後とも呼ばれる呪文だ。彼女は水のセイレーンらしく――ゆっくりと透明になり、その場から消えていった。あとに残るのは、水の痕跡だけ。
「ギルさん、もう戻っていいよ――ありがとう」
「……姫様……」
「あたしは、大丈夫」
こうしてまた一人、あたしの側から仲間が消えた。増えては消え、増えては消え……あたしはこれを、あと何回繰り返さねばならないのだろう? 増えなくてもいい、だからどうか、減らないでほしい。
痛む胸を押さえながら、あたしはロロ・セイレーンがいた場所で、目を閉じるのだった。