その断罪、証拠が三つとも嘘ですけれど――王太子殿下、最後まで証言なさいます?
「エリカ・ヴァルトシュタイン。貴様が聖女ミリアを毒殺しようとした罪を、この場で明らかにする」
王立学院の卒業記念舞踏会。その音楽が、唐突に止まった。
大広間の中央で、王太子アルベルト殿下がわたくしを指さしている。殿下の隣には、胸元で両手を組んだ聖女ミリア。少し離れて、殿下の学友である男爵令息ヨハン・ベルツが立っていた。
王太子。怯える聖女。そして、二人の仲を妬んだ公爵令嬢。
なるほど。よくできた構図だった。
「証拠もある」
従者が赤い布を掛けた台を運んでくる。
小さな青いガラス瓶。
わたくしが書いたという脅迫状。
そして、昨夜のわたくしを見たという証人。
「以上三つの証拠により、貴様との婚約を破棄する」
驚きより先に、胸の奥へ痛みが走った。
六歳で婚約者に定められてから十二年。王妃となるために費やした歳月を、殿下は一夜で犯罪者の過去へ塗り替えようとしている。
けれど、泣くのは後でいい。
王族が公式行事で臣下の犯罪を告発した以上、これは婚約者同士の喧嘩では済まない。
「殿下。ひとつ、確認してもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「これは、王太子の権限に基づく正式な犯罪告発でございますのね?」
「当然だ」
「では、レイモンド宮廷書記官に記録をお願いいたします」
壁際に控えていた書記官が、無言で記録机へ着いた。
わたくしは殿下を見つめたまま続ける。
「正式に告発なさる方は、証拠が真正であること、証人へ圧力をかけていないこと、虚偽が判明した場合は御自身も審問を受けることを宣誓なさらなければなりません」
殿下の眉がわずかに動く。
それでも、わたくしが怯えて時間を稼いでいると考えたのだろう。
「構わない。私の名において誓おう」
羊皮紙の上を、ペン先が走り始めた。
「証拠は、三つございますのね?」
「くどいぞ」
「大切なことですので」
わたくしは一礼し、台の上の小瓶へ目を向けた。
その向こう、広間の入口には、学院へ寄贈された歴代貴族家の印章が展示されている。わが家の旧印章もその一つだ。先月の展示替えで落下し、鷲の右目が欠けたままになっている。
展示室の鍵は学院事務室が保管し、借りた者の名はすべて貸出簿へ記される。実行委員長であるわたくしは、その記録を毎日確認していた。
「では、最初の証拠から確認いたしましょう」
わたくしは小瓶を示した。
「これが、わたくしの所有物だとする根拠は?」
「封蝋を見れば分かる。ヴァルトシュタイン家の鷲だ」
「現在のわが家の紋章で、鷲の翼を飾る羽根は何枚かご存じですか?」
「……六枚だ」
「ええ。ですが、こちらは五枚です」
黒い封蝋に刻まれているのは、三年前に廃止された旧意匠だった。
「さらに、鷲の右目が潰れております。入口に展示されている旧印章と同じ欠け方ですわ」
何人もの視線が、瓶と展示ケースの間を往復した。
だが、殿下の声に動揺はない。
「古い印章を貴様が隠し持っていたのだろう。右目の傷にしても、別の印章へ同じ傷をつければ偽装できる」
もっともな反論だった。列席者の中から、低い同意の声が漏れる。
「おっしゃるとおりです」
わたくしが認めると、今度は殿下が目を細めた。
「ですから、傷だけで展示品だと決めつけるつもりはございません。学院長先生、展示室の鍵の貸出簿をご確認いただけますか」
待機していた職員が記録簿を運び、オルガ学院長が該当する頁を開いた。
「昨日の午後、最後に鍵を借りた生徒は――ヨハン・ベルツ」
ヨハンの肩が跳ねる。
「俺は展示品の一覧を確認しただけだ!」
「ええ。旧印章を使ったと断定はいたしません。ただし、ヨハン様には触れる機会があった。そして封蝋は、現在わが家が使っている印章のものではない」
わたくしは小瓶から手を離した。
「『家紋があるから、わたくしの所有物に違いない』という殿下の主張は、これで成り立たなくなりました」
大広間の視線が、わたくし一人ではなく、証拠を載せた台へ向き始める。
「鍵を借りた者がいた。それだけだ」
殿下は即座に押し返した。
「小瓶だけで罪を立証できないとしても、脅迫状と目撃証言は残っている」
「そのとおりですわ。次を確認いたしましょう」
わたくしは二つ目の証拠を手に取った。
「ミリア。この手紙を受け取ったのは、いつですか?」
「ろ、六日前です。部屋の扉の下に差し込まれていて……怖くなって、その日のうちに殿下へご相談しました」
「殿下も、その日に相談を受けたと?」
「ああ。ミリアは六日前の夜、震えながら私のもとへ来た」
ペンが二人の証言を書き留める。
わたくしは脅迫状を、そばの燭台へ近づけた。
黒かった文字が、蝋燭の熱を受けてゆっくりと紫へ変わった。
ミリアの指先に残る薄紫色の汚れが、わずかに震える。
「これは卒業礼拝の祈祷文に使う、長期保存用のインクです。王都の工房が今回初めて調合した一本で、普段は黒く、熱を受けた時だけ紫へ変わります」
「それがどうした」
「学院へ納品されたのは、二日前です」
わたくしは手紙の末尾を示した。
「けれど、この手紙の日付も、ミリアが受け取ったという日も六日前。つまり――六日前の手紙に、二日前のインクが使われております」
短い沈黙の後、殿下は手紙ではなく、わたくしを見た。
「だが、納品を管理していたのは貴様だ。保管場所を知る貴様がミリアの控室へ忍び込み、そのインクで手紙を書いたのだろう」
管理者だからこそ、品物の所在を知っている。
その疑いは成立する。何人かの貴族も、表情を引き締めて頷いた。
「その可能性もございますわね」
「認めるのか」
「仮に、殿下のおっしゃるとおりだといたしましょう。わたくしが控室からインクを盗み、この手紙を書いた。ですが、そのインクが学院へ届いたのは二日前です」
わたくしはミリアへ向き直る。
「わたくしが書けたのは、早くても二日前。ところがあなたは、六日前に受け取り、その夜に殿下へ相談したと証言なさいました」
ミリアの唇から色が失せた。
「殿下の説と、あなたの証言。どちらが正しいのでしょう?」
「ミリアが日付を勘違いしたのだ」
殿下が間を置かず答える。
「恐怖で記憶が混乱したのだろう。実際には二日前だった」
「手紙だけでなく、殿下へ相談した日まで、そろって四日も取り違えたのですか?」
「それは……」
「書記官。二人は先ほど、六日前に手紙を受け渡した事実を別々に証言なさいましたね」
「そのように記録しております」
六日前に手紙があったという証言と、二日前に初めて存在したインク。
どちらか一方しか、真実ではあり得ない。
「念のため、納品後の経路も確かめておきましょう」
学院職員が受領書を掲げた。
保存用インクは二日前、封をした箱で学院事務室へ届いた。わたくしが確認したのは外箱の封印と数量だけ。その後、職員が未開封のままミリアの控室へ運び、ミリア自身が封印に破損がないことを確かめ、受領欄へ署名している。
少なくとも、殿下の侵入説を裏づける記録はない。
一方で、ミリアが受領後のインクへ触れられたことだけは、本人の署名が証明している。
「では、受領後にこのインクへ触れた方を――」
「わたしは書いただけです!」
ミリアの叫びが、わたくしの言葉を遮った。
「文章まで考えたのは、わたしではありません!」
広間から物音が消えた。
ミリアは自分の口を両手で覆う。責任を筆記だけに狭めようとした言葉が、筆記した事実そのものを認めていた。
「いま、『書いた』とおっしゃいましたか?」
「動揺して言い間違えただけだ!」
殿下が一歩進み出る。
わたくしは殿下と言い争わず、書記官を見た。
「ただいまの発言は?」
「一言一句、記録いたしました」
ミリアが顔を上げる。その視線は一瞬だけ、隣のアルベルト殿下へ向いた。
胸の奥が、細い針で刺されたように痛んだ。
学院へ来たばかりの彼女には、冬服も教本もなかった。学院の支援制度を使い、それらを手配したのはわたくしだ。
あの日、礼を言いながら震えていた手で、彼女はわたくしを罪人にする文字を書いた。
「……ここまでだ」
殿下が低く告げた。
「これは正式な裁判ではない。婚約者同士の問題として、ここで終わらせる」
「できかねます」
答えたのはレイモンド書記官だった。
「殿下は正式な犯罪告発を行い、宣誓なさいました。ここまでの記録は、すでに予備審問記録として封印の対象です」
「告発の真正性に疑義が生じた以上、学院としても中断は認められません」
オルガ学院長の言葉が、殿下の退路を閉ざした。
わたくしを逃がさないために選んだ手続きから、今度は殿下自身が逃げられない。
「では、最後の証拠を確認いたしましょう」
わたくしはヨハンへ向き直った。
彼の目撃証言については、すでに気になることがあった。
舞踏会が始まる前、卒業生たちは前夜の彗星観測を話題にしていた。
新月に合わせて中庭も東回廊も消灯したのに、厚い雲で何も見えなかった、と。
「ヨハン様。昨夜、どこで何をご覧になったのか、改めてお聞かせください」
「昨夜の十一時頃だ。俺は東回廊から中庭を見下ろしていた。すると、君が小瓶を持って温室へ入っていった」
「時刻は十一時。場所は東回廊。わたくしがいたのは温室の入口ですね?」
「間違いない」
「人違いでは?」
「そんなはずはない。雲の切れ間から月明かりが差したんだ。君の顔も髪も、ドレスの色も見えた。手にした扇の金色の紋章まで、はっきりとな」
信用させたい一心なのだろう。尋ねるたび、ヨハンの証言は細かくなる。
「東回廊から四十歩以上離れた温室の入口で、扇の紋章まで見えた。そう記録してよろしいですか?」
「ああ」
書記官のペンが走る。
「セドリック教授。昨夜の観測について伺えますか」
列席していた天文学教授が進み出た。
「彗星観測のため、昨夜十時半から零時まで、中庭、東回廊、温室周辺の灯火を消しました。灯火管理簿にも記録があります」
「月と空模様は?」
「昨夜は新月です。しかも全天を雲が覆い、彗星は観測できませんでした。東回廊から温室までは四十歩以上。人影ならともかく、顔や扇の紋章を見分けることは不可能でしょう」
わたくしはヨハンを見た。
「ヨハン様。暗闇で見えなかったはずのものを、誰から教えていただいたのです?」
それ以上は問わなかった。
書記官のペンが止まる。
誰もが、ヨハンの答えを待った。
「あ……それは……」
「もうよい、ヨハン」
殿下が鋭く遮る。
「これほど曖昧な証言なら、証拠から外す。下がれ」
守るのではなく、切り捨てる言葉だった。
ヨハンの顔が蒼白になる。
「殿下に言われたんだ!」
「ヨハン!」
「エリカ嬢を見たと証言しろと! そうすれば、父の領地税流用を不問にしてやると約束された! 俺は、教えられたとおりに話しただけだ!」
第三の証拠も、わたくしの罪を証明しなかった。
それどころか、事件は王太子による偽証教唆の疑いへ反転した。
「殿下。三つの証拠は、すべて崩れました」
わたくしは証拠台を見渡した。
「では次に、誰がこの三つの嘘を用意したのか、確認いたしましょう」
「私は、見たのなら証言せよと言っただけだ!」
殿下はヨハンを睨みつけた。
「小瓶を捏造しろなどとは命じていない!」
「小瓶が捏造品だと、殿下はご存じでしたの?」
殿下の口が止まる。
「違う。言葉の綾だ」
「ふざけるな!」
ヨハンが叫んだ。
「学院の旧印章を使い、式典備品の搬入を口実にエリカ嬢の控室へ入って、私物箱へ小瓶を入れろと命じたのは殿下だ! 現行の印章は手に入らないが、古い紋章でも誰も枚数までは見ないとおっしゃった!」
「貴様の独断だ!」
「わたしも命じられました!」
今度はミリアの声が二人の間へ割って入った。
彼女はヨハンと殿下を交互に見た後、震える両手を握り締めた。
「この手紙を書けば、わたしを妃にしてくださると……。文面を考えたのも、エリカ様の筆跡見本を渡したのも殿下です!」
「お前はエリカを憎んでいた。自分から協力したのだろう!」
「だからといって、殿下の指示がなくなるわけではありません!」
三人はもう、互いの言葉を守ろうとはしなかった。
「確認いたします」
わたくしの声に、三人の言い争いが止まる。
「ヨハン様は殿下から、旧印章の使用と小瓶の設置を命じられた。ミリアは殿下から、脅迫状の文面と筆跡見本を渡された。そしてヨハン様は、偽証の見返りに父親の罪を不問にすると約束された」
わたくしは書記官へ顔を向けた。
「ここまでの発言も、記録されていますね?」
「すべて」
短い返答が、三人の逃げ道を塞いだ。
「その断罪を支えた証拠は、三つとも嘘でした」
わたくしはアルベルト殿下を正面から見た。
「殿下。最後まで、証言なさいます?」
「あなたには分からないわ!」
ミリアがわたくしを睨んだ。
「生まれた時から、何もかも持っていたあなたには。わたしがどれほど苦しかったかなんて!」
何もかも、ですか。
六歳から続いた王妃教育。自分の時間も、望む将来も持てなかった年月を、わたくしは口にしなかった。
苦労を比べても、彼女の罪が重くも軽くもなるわけではない。
「わたくしが何を持ち、何を失ったかは、いまの問題ではございません」
「でも――」
「苦しかったことは、誰かを罪人にしてよい理由にはなりません」
わたくしは、ミリアから目を逸らさなかった。
「あなたを助けたことを後悔はいたしません。ですが、それと、あなたがしたことの責任は別です」
ミリアはその場に崩れ、顔を覆った。
「そこまでになさい」
オルガ学院長の声が広間を鎮めた。
「現時点で確認された事項を整理します。小瓶はエリカ嬢の所有物とは立証できず、ヨハン本人が旧印章の使用と小瓶の設置を認めた。脅迫状は、記載日より後に納品されたインクで書かれ、ミリア本人が筆記を認めた。目撃証言は物理的に成立せず、ヨハンは王太子殿下から偽証を命じられたと証言した。そして三名の発言は、アルベルト殿下の関与を示している」
学院長は警護官を呼んだ。
「学院の権限で刑罰を決めることはできません。本件を王宮の正式審問へ送ります。口裏合わせを防ぐため、三名は別々の部屋で待機させなさい」
警護官たちが動き、殿下、ミリア、ヨハンを引き離していく。
学院長は次に、わたくしへ尋ねた。
「虚偽告発と名誉毀損について、あなた個人の被害申告も審問へ付されます。重い処罰を望みますか」
「わたくし個人への侮辱について、重い罰を望むつもりはございません」
広間の緊張が、ほんのわずかに緩む。
「ただし、許すという意味ではございません。王家の名で証拠を偽造し、偽証を命じた件は、わたくし個人が不問にできる問題ではありません。公的な責任は、正式な審問で明らかにしてくださいませ」
学院長が重く頷いた。
「アルベルト殿下との婚約については、後日、王家を交えて協議しますか?」
「婚約を継続する意思はございません」
「エリカ!」
警護官に囲まれた殿下が振り返る。
「待て。話し合えば、まだ間に合う」
わたくしは殿下を見なかった。
左手から婚約指輪を外し、書記官の立ち会いのもと、学院長の手へ預ける。
「わたくしは、罪人として殿下から捨てられるのではございません」
指輪の重みが手から離れた。
「王家からの正式な謝罪、不当な告発に対する補償、そしてわたくしと公爵家の名誉回復。それらを手続きによって確認したうえで――わたくしから、この婚約をお断りいたします」
返事は待たなかった。
大広間に歓声は上がらない。
ただ、殿下のそばにいた者たちが視線を伏せ、静かに距離を取った。誰も、王太子の言葉へ無条件に従おうとはしない。
わたくしは扇を開き、止まっていた楽団へ一礼した。
音楽が、もう一度始まる。
背後から歓声は聞こえなかった。
ただ宮廷書記官のペンだけが、彼らの未来を一行ずつ記し続けていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ご希望が多ければ、王宮での正式審問や王家の責任追及、婚約を解消したエリカが自分の人生を取り戻すまでを描く長編版も検討しています。
続きを読んでみたい方は、評価いただいたり感想欄で「長編希望」と一言いただけると、今後の参考になります。
また、「審問の続き」「王太子たちのその後」「エリカの新しい人生」など、特に読みたい内容があれば教えてください。




