Polar Opposite
わたしはどうしようもなく子供で
そしてどうしようもなく女でした。
長閑な田園風景と立ち並ぶ工場群。
刺激も潤いもないこの土地は
わたしの伸びやかに成長した身体と精神を
じわじわと蝕むようでした。
わたしはどうしようもなく不安で
そしてどうしようもなく抑圧されていました。
浅川葉佑の大きな手を見たとき
この人ならばわたしを解放してくれるかもしれない、と
根拠のない光明を見たのです。
クラス委員としてジャンケンで負けて選出されたわたしは
あの日校舎裏の花壇整備の作業をぼんやりとさぼっていました。
雑草取りの作業など真面目にしている生徒はとても少なく
勝手に帰ってしまった生徒も居る中
浅川葉佑は大きな身体を花壇前に丸くかがめて
蜘蛛のような細くしなやかに大きな手でとても器用に
雑草をひょいひょいと抜いていたのです。
葉佑は目立つ生徒でした。
他人に関心のないわたしが存在を知っているくらいでしたから。
背が高く非常に端正な顔立ちをした男で
そこに佇んでいるだけでとても雰囲気があるような存在でした。
思春期の男に有りがちな妙に自意識過剰なところや
おかしなハイテンションさなどは微塵もなく
彼の周りの空気だけ少しゆったりと流れているような所がありました。
樹齢の長い大木のような、不思議な男だったのです。
もくもくと花壇に向い作業をする葉佑にわたしは言いました。
「浅川君。ちょっと、話があるんだけど」
少しの間の後、時間をゆったりとかけて彼が振り向きました。
そしてやる気なく花壇脇に腰掛けているわたしを視界に認めると
まばたきを2,3してから静かに立ち上がりました。
「誰だっけ」
「斉藤頼子。君の隣のクラス」
「・・ああ、そっか。何?」
大きな葉佑の指には沢山の泥がまるで刻印のようにびっしりと付いていました。
わたしはそれを見上げながらぼんやりと彼に懇願したのでした。
「わたしと、セックスしてほしいんだけど」
葉佑は首をぐるぐる回しながら(ゴキ、ゴキと骨がなる音がする)
少し悩むように言葉を選んだ後、言うのです。
「なんで俺?」
「うーん。なんで?と言われたらうまく答えられないんだけど、
なんか浅川君の手とか、今見てて思ったんだよね。君がいいかなあと。」
葉佑はわたしの一言一言をじっくり受け止めて、解釈を試みようとするようでした。
わたしたちはまるで森の中で初めて出逢った見知らぬ動物同士のように
お互いの距離感と危険性と真意を静かに計っているようでした。
しばらくの沈黙の後、葉佑はふわっと笑いました。受諾の笑みでした。
「斉藤さんって変わってんのな」
「それよく言われる」
それから5日後、わたしは葉佑とセックスというものを初めてやってみたのでした。
素敵な映画や小説のように、それはわたしを解放してくれるものではありませんでした。
少しの痛みと背徳感、そういったものが皮膚や感情をすこし刺すくらいで
牧歌的な田園風景や退廃的な工場地帯が突如バラ色の風景になるわけもなく
わたしはひどくがっかりしてしまいました。
「こんなもんだったんだね」
わたしがつまらなそうに肩を落とすと葉佑は本当に愉快そうに笑うのでした。
「こんなもので人生観や日常が180℃変わったらなんも苦労ないって」
こんなもの。こんなものではあったけれど
わたしは抑圧されたきゅうくつな日々が、自由を得たことを感じていました。
わたしと葉佑はそれからも、ありあまる時間と行き場のない衝動を繋ぎ合わせるかのように
互いの家で、林で、海辺で、たくさんのくだらない中身のない話をしては
空虚を埋めるかのように何度も何度も身体を重ねました。
相変わらず風景は単色で、変わらない風が吹く毎日でも
砂漠の真中の小さなオアシスのような葉佑の存在は
ゆらゆらと足下のおぼつかないわたしの確固たる道しるべになっていきました。
わたしたちは本当にたくさんの話をしたのです。
架空の世界の妄想を共有し、架空の人生を歩む妄想を共有しました。
ゆったりと、ただただ穏やかな大河のような佇まいの葉佑もまた
この若く伸びやかな心身が静かに朽ちて行くようなこの土地で
何かに押し潰されないように羽根をばたつかせていたのでした。
わたしたちは、お互いを恋人と呼ぶようなそんな密接な距離感は求めてはいませんでした。
ただただ、体温を共有し、希望を共有し、絶望を共有していました。
そしてそれは人生のうちほんのわずかな邂逅であることをわたしたちは悟っていたのです。
悟っていたからこそ、お互いに足枷をはめるような感情が芽吹かないように
わたしたちは沢山のおしゃべりをしながら、身体を重ねていたのかもしれません。
「俺、卒業したらここを出るわ」
雪景色にほんのりと春の香りが漂うようになった頃、葉佑は言いました。
「東京とか行くの?」
「たぶんね。兄貴が住んでるから、なんか適当に仕事探そうと思って」
「そっかー」
わたしはつまらない地元短大への進学が決まっていました。
葉佑は折り畳まれた羽根を器用に羽ばたかせながら飛んでゆくのです。
わたしはぼんやりと葉佑の隣で雪を踏みしめて歩きながら
鉛色の空の下壁のように立ち並ぶ工場の煙突からたなびく煙を眺めていました。
一緒にぎこちなくでも、連なって飛んでゆく選択肢もあったのかもしれません。
一人で飛んでゆき、知らない所まで”何か”を見つけに行く選択肢もあったのかもしれません。
一緒に飛ぶには、わたしたちは幼すぎたのです。
一人で飛んで羽根が折れてしまう怖さに、わたしは竦んでいたのです。
大木のような葉佑の影で時間が経つことすらわたしは忘れてしまっていて
それでもあっという間に時間は流れ、春は訪れて。
葉佑はこの街を出て行きました。
「斉藤と過ごせて、すごい楽しかった。またな」
静かに、でもしっかりと余韻すら残すことなく、鮮やかに葉佑は去って行きました。
不思議なもので、葉佑がいなくなってしまってからより一層
わたしは葉佑の大きさを実感していました。
肌を重ねる事がなくなってからより一層
わたしは葉佑の体温のあたたかさを愛おしく思いました。
わたしは一人、工場の前、ガードレールに腰掛けながら
とても大きかった存在に思いを馳せながら、
無邪気すぎた淡い思いをぼんやりと懐かしむのです。
そばにいつまでも居て欲しい訳ではなく。
自分の足で行ける範囲に縛り付けたい訳ではなく。
ただあのほんの一瞬とも言えるような
思いをゆるやかに共有した日々を思うと
わたしはいつまでも泣いてしまうのでした。
恋愛を主軸にして、もっと生臭いものにしたかったのだけど、文章って難しい。