或る血刀(あるけっとう)
穂上龍が色々と紆余曲折した武道遍歴の末に書いた作品。
時代劇漫画家志望の後輩に原作として提供する前提で執筆した作品でありますが
特にその後、なにも話がないので2025年4月現在、こちらにて公開することとしました。
小説:『或る血刀』(あるけっとう)
穂上龍
越後長岡藩七万四千石は尚武の気風で知られていたが、江戸幕府開闢以来二百年に及ぼうかという太平の世は武士という者の存在をずいぶんとあやふやにしていた。事実戦がない世の中であるから『常在戦場』などというのは机上の空論であった。
戦というのであるならばむしろ下級武士は天下の商人たちがのさばらせた“銭”というものと貧困なる戦をしたというべきである。
桧垣甚十郎は八十石取りの下級武士であった。
が、曽祖父の代から家は道場を開き一時は門弟百名を越えたというので貧困ではなかった。
・・・彼の父の代までは。
四十路になろうかという甚十郎は嫁を持たずに内職の傘張りから刀剣拵えの繋ぎ作りに精を出していた。無精髭を生やし総髪で月代もまともに剃らないこの中年はいつも無駄にニヤニヤしつつクチャクチャと口の中を鳴らす癖がある。
黒の木綿の羽織袴姿で薄汚れた郷士であるが畠は打たずにこういった内職ばかりしているのが性分だった。故に近隣の百姓に少しの田畑を貸付、小銭が入ると城下の酒場へ顔を出した。
彼の父が存命でこのようなことをすれば十人も門弟がぞろりと付いて廻ったものであるが、貧困にて寂れた無鬼神往流居合道場の現当主には嫁すらいない。恥として往時を知る巷の侍は陰口を叩いたが一向に甚十郎は気にしない。酒好きなのである。
この無害な中年侍が血生臭い事件の当事者であるといえば多くの人間が驚くのである。
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真剣…つまり後世“日本刀”と謂われた“刀”を使った決闘試合が殆どの土地で禁止されていたのは事実である。
江戸時代は戦国乱世の世から槍と鉄砲で生まれ、近代火砲を得た明治時代に滅ぼされた。その間、幕末と呼称された十数年のみが暗殺で刀が物を言った時代である。甚十郎がいる時代はまだ幕末ではない。世間の武士は外国の脅威も知らず、また戦国の時代は既に伝説となっている。
戦国の名将であった朝倉敏景は「武士は名刀を求めるべからず」という。彼の言い分では数千疋もする名刀を一本求めるよりも安い槍を百本用意すればいざ戦という時には役に立つという理屈なのである。事実、宮本武蔵であっても剣で城を落としたという話はない。岩見重太郎は狒々退治で有名であるが、狒々は猟師が鉄砲で撃てば良い。
であるから江戸時代の刀剣の存在意義とは「私は武士である」という現代人のネクタイの様な自己主張と後世の国粋主義が“秋水”など大凝な呼び方をした工芸技術に裏打ちされたナルシズムでしかないのである。
しかしそれに意地を感じる人種もいる。それが武士である。
浪人はこぞって仕官の為と剣を修練し、藩士も戦を知らぬ藩はその皆伝という資格を信じるのである。
この現象は一部の浪人を侍にしたことに一役買ったであろうが大抵の場合は独特の奇妙な状態を誘引することとなった。
切った切らぬの机上の空論から生まれる剣術遊戯である。
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江戸と各地で竹刀が流行りだしてから桧垣甚十郎の道場は一気に廃れたのである。彼は無鬼神往流居合である。
“居合”とは刀身が鞘にいる内に斬撃の用意をし神速の一撃とそれに続く連続切りで勝利を収める武芸である。仮想の敵を脳内で作り出し只独りで抜刀し切った振りをするのが居合の修練なのだ。
これに比べると面、胴、篭手といった防具を装着しパンパンと軽快俊足に動く新規道具に裏打ちされた流行している竹刀流派は誰にでも判りやすかった。
故に“名人”と謳われた先代桧垣正行が死んでから無鬼神往流居合は廃れたのである。跡を継いだ男子甚十郎は「あー」「うー」とよく口ごもり他人に物を言うことが得意ではなかった。次第に人は来なくなり城下に竹刀がよく音を立てるようになってからはこの跡継ぎはやや出た腹を掻きながら徳利を持ち歩き釣りに出るようになった。
戦を知らぬ世間は決闘を欲していた。が、それが適わぬ故に竹刀を競技として愛し始めたのである。つまりが桧垣甚十郎と無鬼神往流は時代に取り残されていた。
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桧垣甚十郎にとって貧困は新しい友でしかないらしく、信濃川や大田川などで釣りをしながら少ない田畑を貸した銭を小作から適当に取り立てて、無精髭を生やして登城の資格もないから日々を生きていた。
友人も少なく父他界で江戸遊学から強制的に返されたこの男は何を考えているのかさっぱりわからない。ごく稀に「居合をしたい」と酔狂な人間が来ると無鬼神往流の型を一本だけ長々を教え始めた故にいつも逃げられている。つまりがこの男の無鬼神往流居合は稽古が極めてつまらないのである。
であるから軽快な竹刀の快音を聞きつつ今日もこの危機感がない男は釣竿を持って夕暮れの城下を歩いていた。秋が近い。夕日の位置を見ながら甚十郎は越後の陰鬱な雪を思った。そんな心情時に不幸は来るものだ。酒場で勘定を払う時、天保銭一枚を地に落としたのである。反射的に拾おうと前屈みとなった時に彼の差料の二本が抜け落ちた。
カラリと乾いた音を出したそれはなんと竹光であったのである。武士も町人も店の者も見ない振りをしたが、噂は広まるものである。
以来彼は“竹光先生”という不名誉な名前で陰口を叩かれるようになった。
事実、城下にある質店廣井屋には彼の大小が留め置かれていたのである。合わせて二十両だったというから然程名刀でもなかったらしい。
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さて無鬼神往流と好対照だった流派が晃心一刀流である。
先代の山田晃心斎が創始したこの流派は、江戸にて将軍家指南役で有名な流儀、小野派一刀流を遊学で学び免許皆伝を得た立派なものであった。
晃心斎は無鬼神往流の門人であった時期もあり別段無鬼神往流に対する陰口などは微塵も叩かない。むしろ無鬼神往流の悪口をいう者を叱りつける程であった。
しかし現当主の山田晃良となってからは身体を悪くしてあまり表に出ることもなくなり、晃良若先生は江戸遊学で身につけた竹刀稽古でよく人を集めて、どちらかといえば無鬼神往流のような古い型稽古主体の流儀をよく酒の勢いで罵倒する癖すらあった。
その若先生と取り巻きが長岡城下で今一番勢いがある武芸者で、中でも井田貴之なる長身の若侍は天才と謂われる遣い手として“江戸にて兜を太刀で割った”などという逸話もあり最強と畏怖されていた。
この井田が酒の席で洩らした「人を斬りたいものだ」と。
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人が人を斬る。この武士にとって当たり前の行為が太平の世によって公然と行われなくなって久しい。江戸の町では辻斬りが時折流行すらしたが、当然辻斬りは犯罪である。発覚すれば家禄没収、切腹、斬首を覚悟するべきものである。
“斬り捨て御免”という、武士は自分よりも下の身分のものを問答無用で殺しても良いという制度は確かにあるが、これは単に武士の特権階級意識を刺激する為のお上の巧妙な法案でしかない。
いざ実際に町人を斬ってしまえば、殺された者の遺族は奉行所に「どうして家の者が斬られたのか?」と押し掛ける。ここで周囲を納得させるだけの理由がないのであれば結局は遺族が地元の火消しの親方や侠客、百姓であれば庄屋の元へ泣きつき打ち壊し、一揆とまでいかずとも“民草がお上に反発する理由が” できるのである。そうなる前に「日頃の所業不届きなり」と奉行所が大抵侍に腹を切らせる。
それが怖い故に武士は往来で刀を抜かない。武士が第一とするのは先祖代々のお家を護ることである。真剣、つまりは本身を抜いて振り廻すなど正気の沙汰ではなかったのである。
であるからこそ江戸時代二百数十年の歴史で武蔵や赤穂浪士ら一部の武士は伝説となり、その他多数は上級武士と成功者以外は困窮的な奇妙な存在となった。
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井田貴之は決闘がしたいと言った。しかしそれが藩の法度「真剣での試合は不要」に触れることは明白である。この高慢でやや賢しく若い天才は酒場でそう述べた翌日からいつしか真実に人を斬りたくなっていったのである。
言葉というものは怖い。
一度口に出してしまうと他人はおろか自分自身すら暗示にかけることがある。
井田は道場で竹刀稽古をし強烈な面や小手を後輩に打ち込み時折「真剣なら死んでいたぞ!」とよく怒鳴るようになった。また素振りでも竹刀、木刀で満足していたかと思えばいきなり本身を抜き正眼から大上段に構えピュッ!と鋭利な音をさせていた。それを晃心一刀流の高弟仲間たちはニヤつきながら見ている。
そして晃心一刀流内ではいつしか井田師範代が本身にて誰かと勝負をするらしいと密かに噂がたった。それが他ならぬ井田自身を精神的に圧迫していった。
井田は些細なことで怒り易くなった。
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「この竹光侍が!」井田の罵声が飛んだのは夜の酒場の座敷であった。
罵声を飛ばされたのは甚十郎である。いつもの様に竹刀での間合いとり方、撃剣の難しさを話し合い、木剣での型稽古や居合しかせぬ侍を罵っていた彼らは、酔いがいい具合となったときに仲間の一人が立ち上がり厠へ行こうとしたのである。
そこにいた甚十郎の刀を運悪く、いや足元悪く踏みつけたのである。本来はここで踏んだ男が頭を下げればまったく問題がないのであるが、常日頃型居合は踊りと莫迦にしている連中である。
軽く酔っている甚十郎も井田たちが面白くなかったのかもしれない。がそれは謝らせる処である。武士の魂を踏まれたのであるから。
がしかし若い侍は甚十郎を黙殺した。まま甚十郎の右脇を通り厠へ行こうとするそれを甚十郎は手刀を作り強かに脛を打った。
火傷をしたような声を上げて若侍が飛び上がった。そこに井田が駆けつけたのである。
足で武士の魂を汚したのだから一礼するべきである。と尤もなことをいう無精髭の中年武士に月代をよく剃りやや色白のだが屈強な井田は「竹光であるからいいではないか」とつい言った。
甚十郎は井田を見ると竹を使っているのは其方であろう。とやや嘲笑するように言った。井田達の竹刀剣術を指しているのは明白である。井田もまだ若い。熱した土瓶のようにカッカと怒りを心頭にして叫んだのである。
それを聞くと甚十郎は少し間を置いて「竹光ではない」といった。
今は竹光を差してはいないという意味であろうか?しかし甚十郎の貧窮ぶりを知っているものからすれば俄かには信じがたい。
井田は抜いて見せろといった。証拠がないという意味である。これが彼の妙に小賢しい性分で先代道場主晃心斎先生から好まれない大きな部分でもあった。
「お見せできぬ」
「そら!やはり竹光であろう!」
「いや、貴殿の唾で刀身が汚れるのはいやでな」
この夜は甚十郎も負けなかった。今となって考えれば昼間何も魚が釣れなかったから機嫌が悪かったのかもしれない。
「見せろ!」と井田。
「断る」と甚十郎。
埒があかないこの遣り取りの最中、井田は甚十郎を切る夢想をした。が、自分から喧嘩を売ったのであれば藩から咎めを受ける。そこでこう言い回しを変えた。
「では、桧垣甚十郎先生。別の場所で先生の御刀を拝見したいのですが」
「ワシの刀?」
甚十郎はやや驚いたように返した。
「先生は無鬼神往流の名手とお伺いしております。拙者居合は不勉強故に一手ご指南願いたいのでございます」
「どこで?」
勿論、当道場にて と井田は返した。息が酒臭い。
甚十郎は では明後日お伺いしましょう と返した。
明後日という辺りが甚十郎の暢気が出ている。こうして甚十郎は久しぶりに他道場を来訪することとなった。
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片手に竹刀を持った甚十郎が身体中に打ち身擦り傷で帰って来たのはその明後日の夕刻であった。
秋が深いので日はもう暮れようとしている。不幸にも晃心一刀流道場に晃心斎先生は居らず、いや適当に言いくるめ門人らが追い出したのかもしれない。
甚十郎はいきなり慣れぬ竹刀を持たされると「竹でござるから安全でござる」と無茶なことを言われて是で居合をやれと云われた。
驚いて井田を見ると井田は正眼に構えいきなり突いた。無様に逃げる甚十郎を周囲の門弟が後ろや横から蹴り再び井田の前に据えると井田は大上段から裂帛の気合を持って甚十郎の脳天を打った。
いくら竹刀が安全であるといってもそれは防具をつけているからであって素面で強かに打たれれば脳が揺れ目がくらむ。
この一撃で甚十郎はもう戦える状態ではなかったのであるが周囲の門弟は彼を引き摺りまわし井田の前に差し出すと井田も心得たといわんばかりに次々と一刀流の業を胴小手面と出した。その都度ピシリピシリと空気が張るように竹刀がなり甚十郎は痣をつくり血を出した。
この壮絶な私刑が終わるとおもむろに井田は甚十郎の指料を取り上げ検めて吐いた。
「やはり竹光ではないか!この人も斬れぬ詐欺師め!」
竹光をへし折ると投げた。
何故甚十郎が晃心一刀流道場へ赴いたのかはわからない。もしかすれば昔なじみの晃心先生と話をして自分の非礼も詫びつつ幼少期に出入りした懐かしい道場で茶でも飲むつもりだったのだろう。
†
三日ほど甚十郎は寝ていると来客があった。晃心先生である。聞けば通風で足を痛めたこの老人は湯治に出ていたという。起き上がる甚十郎に対して晃心先生は井田と門弟の無礼を詫びた。また愚息晃良は知らなかったと述べた。
晃心先生は白髪で白い髭を生やし「お恥ずかしい」と無念そうに云う。
その度に甚十郎は恐縮するように「頭をお上げください」と云った。
その老爺が甚十郎の脇にある羽に分かれた竹刀を見つけた。
「これは先生の道場にて頂いて来申した。これにて今度は井田殿に居合をお教え仕りたく」と竹刀を形作っていた四枚の羽の一枚を取り上げて小刀で軽く削った。
晃心先生は了解したと頷き、何時がいいか?と訊ねた。
甚十郎は竹光を作りながら「竹で教えねばならんのでしょうし」と少し皮肉をいった。
その熱心な竹光作りをみて晃心先生は「では七日後信濃川川原にて」と言い立ちあがった。
晃心先生は帰路腕を組み歩きながら
「井田・・・あと三年、型もやれば伸びたろうにな」と独りごちた。
居合も学んだ晃心先生は型稽古の人間である。竹刀の良さは解るが悪さも知っている。
秋風が吹いた。
†
無鬼神往流と晃心一刀流が信濃川河畔で決闘を行うこととなったのは七日後である。居合と剣術が勝負するらしいという噂は瞬く間に城下に広がった。
井田たちは売られた喧嘩が来たと歓喜し言いふらす者までいる。が、町人から農民まで甚十郎の指料がどちらも竹光であることを知っている。
「なぶり殺しでねぇが?」とまで云われた。
表にでないがあまりの騒ぎに晃心一刀流道場に藩庁の人間が来て「真剣試合は禁止されておる」と言ったが井田たちは誤魔化し、晃良は唯の交流試合に尾ひれがついただけと述べ晃心先生に至っては「是非そこもともいらっしゃい」と述べた。
その為に毒気を抜かれた役人は「真剣ではござらんな?」と念を押した。あるいは晃心先生が最初に噂を広めたのかもしれない。
†
無鬼神往流居合と晃心一刀流の仕合は七日後こうして行われた。
秋がそろそろ深くなっていた。『越後雑記』によると“桧垣甚十殿釣りができるほど遅れて”とあるのだから昼の約束が夕刻となったのは確かである。
桧垣甚十郎が現れると晃心一刀流の数名の門弟が「今頃来やがった」と少し騒いだ。晃心先生は黙っている。
そしてどういう訳かいつも竹刀を莫迦にしている晃良若先生も同じである。
井田はここで何かに気が付くべきであったのかもしれないが「甚十先生待っておりました!」と叫んだ。
よく晴れていた天気は太陽が斜陽となっていたが変わらない。
「直に暗くなり申す故に早、ご指南を!」と木刀を悠々と構えた。
それを見ると甚十郎大きく頷き「応!心得た!」と珍しく大声で答えた。
河川敷の上から町人が見守る中、両名は相対した。
井田大上段で大きく構える。手には紫檀の木剣。
剣の修練をしたものからすれば木剣の破壊力は真剣となんら変わりがない。
剣は叩く。それは井田の信条でもある。
かつて江戸遊学で明珍桃形兜を叩き割ったが腕に頼る処半分、あとは持っていた刀剣がたまたま野鍛冶が道楽で作った、重ね七分はあろうかという振ることに一苦労する鉈のような奇怪な剣であった。
事実、彼が得意とする竹刀撃剣もよくお互いの刀身を打ち合う。剣術は業と得物が揃って初めて真価を発揮するものであるという信条が井田には自然と出来たのである。
そして井田は強かった。晃心一刀流では竹刀で師範晃良ですら敵わない。
目の前の甚十郎などは宮本武蔵の真似をしておくれて来ているがあまりに小賢しい真似をすると吐くように感じた。ましてや指料は竹光である。
が、ここで不幸にも井田は賢し過ぎた為に目の前の冴えない無精髭の中年が遅れた訳に思いが至ったのである。
(・・・まさか質草を出したのか?)
ありえる話である己の命が懸かれば人間はなんでもする。
質屋に屋敷を担保に一日だけ本身を出したのではなかろうか?と考えれば目の前の自然体で立っている自分よりも小さい男が大きく見える筈はない。
井田貴之は戦慄した。
ならば俺も木剣では拙い!抜かねばならぬ・・・!!が、抜けば最後、先に抜いた方は重ければ切腹である。
夕日が二人を照らした。
固唾を呑んで見守る群衆はざわめいている。それが井田の焦燥感を煽った。
喝!!と井田が気合を入れると群衆は静まる。
井田は大上段で、甚十郎は自然体のまま抜刀はしていない。間合いは五間。
甚十郎が一歩踏み出した。
何故か甚十郎はまた大きく見える!それを払うが如く井田は構えのまま横に歩んだ。そうして気が付く、そろそろ暮れようという太陽の強烈な秋の日差しを。
井田は自然に太陽を背にした。この後光の効果は井田を強気にさせた。
甚十郎は眩しさに目を細めている。
そこに決定的な勝機を見出した井田貴之はだっと走り込み暮れようという太陽光を武器に怪鳥音を唸り、猿叫になんと大上段から黒い紫檀の木剣を投げつけたのである。
風が唸り木剣は鋭い矢となって甚十郎を襲った。そして甚十郎は抜刀する。
居合は太刀行きの速さが命である故に初太刀を外せば勝機は十二分である。そしてなによりも先に抜いたのは井田ではない。甚十郎である。その男は大きく体勢を崩している。
(勝った!)
素手から井田貴之は逆袈裟に抜刀し、体勢を崩した哀れな小男をそのまま本身で上段から切り下げようとした時に首に熱いものを感じた。
それが己の噴出した鮮血であると気が付いたとき井田は倒れ絶息していた。
「斬った!」
ワっと喚声が上がり井田貴之は死んだ。
桧垣甚十郎は井田の投げた木剣と井田の骸を一瞥すると悠々と納刀をしている。
「あれが無鬼神往流の型の一つ捨流太刀じゃ井田の莫迦は抜き打ちで勝負しおった」
晃心先生は息子に教えた。
「…ま、まさかあのような業ができるとは…」晃良は震えながら答える。
「態と型を崩しおったな甚十・・・上段からの初太刀を受け流す処で投げ木剣を受け流しおった」晃心先生は立ち上がると無様な弟子を拾いに行った。
其の時である。
人垣を掻き分け藩庁の人間が現れた。
「待てぃ!!我藩では真剣仕合は禁止しておる」
晃心先生は心得て候と頷いた。
役人は桧垣甚十郎の元へいくと刀を検めさせろと述べた。
甚十郎は拵えごと指料を抜き取ると刀身を見せた。
「・・・!!」これはと息を呑む。
「なに、竹光でござる」
本物の業は笹の葉で指を切るように竹光でも人の首の皮を切ることが出来る。血塗れた蛤刃が付いた竹の刀身は法度には触れない。ニヤリと笑う甚十郎は無精髭をなでながらクチャクチャと口を鳴らした。
─────此度の仕合、真剣の決闘にあらず。よってお咎め無し。
了
(2011年・筆)