篠原蓉子 事務兼トレーナー兼マネージャー兼……
はっきりとはわからないけれど、聴いたことのある声で、振り返れば、その主はやっぱり、奏音と朱里ちゃんで。
「今日からお世話になります、如月奏音です。よろしくお願いします」
「藤朱里です。よろしくお願いします」
そうして挨拶をした二人と、目が合った。
「あ、詩音。やっぱり、詩音も受かってたんだ」
奏音が私の座るソファの隣に腰を下ろすと、蓉子さんが静かに立ち上がる。多分、二人の分のお茶を汲みに行ったんだろう。
「うん。奏音ちゃんも、それから朱里ちゃんも」
「下で一緒になったんだよ」
朱里ちゃんが静かに腰を下ろすと、あらためて、蓉子さんが挨拶を済ませ。
「それでは、当事務所、および、養成所の説明をさせていただきます」
私たちが合格したのは、あくまでも、養成所のほうの入所試験。
そこでほかの候補生たちとも競い合い、年に何人かデビューできるかもしれない、みたいな話だった。
この養成所に入るのにも試験を受けたのに、そこからさらに、デビューするためにレッスンを積む。
なんて、面白い、そして、厳しいところだろう。
私たちが受けたようなオーディションを突破して、養成所の所属になっても、数か月とか、数年とかで辞めていく子もいるんだとか。
レッスンの時間も、種類も、候補生それぞれの自主性に任されている。一応、ダンスとか、歌とか、大まかな括りはあるみたいだけど。
つまり、向上心のある子から、評価されやすいシステムになっているということ。
「デビューする際には、うちの事務所と契約してくれるとありがたいですが、もちろん、個人で活動するための踏み台にされても、より条件の良い、他の事務所へ移籍するという形をとられてもかまいません」
蓉子さんは笑顔で、さらりと言っているようだけれど、内容はとんでもない。
「それだと、ここの事務所に益がないのではありませんか?」
同じことを思ったようで、朱里ちゃんが疑問を口にする。
蓉子さんは笑顔を崩すことなく。
「もちろん、私たちとしては、うちの事務所を選んでいただけると思っていますから」
実際、よっぽどのことでもない限りは、この事務所で頑張るのが良いんだろう。
運命、なんて言葉を使うつもりはないけど、ここのオーディションを受けることになったのもなにかの縁ということだし。
それに、この養成所でレッスンを受けるということは、この事務所でデビューしやすいレッスンを受けられるということ。
恩とか、義理とか、誠実さという意味でも、ここでお世話になることができるのならありがたい。
少なくとも、オーディションで選んでくれるくらいには、私のことを評価してくれているということだから。
「それでは、事務所と養成所の案内をさせていただきますね」
とはいえ、今のところ、デビューなんて先の先くらいである私たちに、事務所で用事のあるところはほとんどない。
もっぱら、通うことになるのは養成所のほうだ。
鏡の貼られたレッスン室、今の私には成長を阻害する効果のほうが大きそうだから意味はないだろうトレーニングルーム、あとは、更衣室とか、手洗いとか、私たちが直接関係しているのはそんなところだろうか。
目に映るものすべてが新鮮で、気持ちも昂る。
この養成所は、うちから近いとは言えないけど、毎日、学校が終わってからでもの通いができないほどの距離ということでもない。その場合、帰りは遅くなりそうだし、両親に説明と許可を求めることは必要になるだろうけど。
「基本的に私は毎日いますから、いつ来てくださってもかまいませんが、事前に予定などを、前日でも構いませんから、教えていただけると助かります。もちろん、スケジュールの調整など、相談はいつでもお聞きしますから、お気軽に尋ねてください」
蓉子さんはスケジュール管理までしてくれるということ。
ハードすぎて身体を壊さないか心配になる。こうしていても、本人はいたって元気そうだから、余計な心配なのかもしれないけど。
「とはいえ、焦りは禁物です。身体を壊したりしては大変ですから」
専門の人に管理してもらえるのならありがたい。
「マネージャーや事務の仕事というのは、アーティストである皆さんを輝かせることなんですよ。皆さんがそれに集中できる環境を作るというのも、当然のことです」
「うわあ、ありがとう蓉子さん!」
奏音は盛り上がって、蓉子さんの手を取る。
「いえいえ。でも、私がお手伝いできるのは、その準備まで。実際には、皆さんに頑張ってもらわなければいけませんから。それこそ、一年や二年でもデビューできるのか、それとも、五年やそこらまでかかってしまうのか、それから、デビューまで認められず、辞めて行ってしまわれるのか」
正確には、就職見込み、という状態であるらしい蓉子さんは、そういう話を他のトレーナの方や、社長さんとも、就職面接のときに聞かされているらしい。
事務所としては、手間をかけて育てている子たち、ストレートな言い方をすれば、リターンを得るためにやっているわけで、そうなると損失が大きいということなんだろう。
「そういうわけで、私もスタッフとしてはひよっこも同然ですけど、気持ちは負けないつもりです。一緒に頑張っていきましょうね」
それで、最後に質問をと聞かれたので、奏音も朱里ちゃんもなにもなさそうだったから。
「あの、蓉子さんはどうしてアイドルをやろうとは思わなかったんですか?」
つい、聞いてしまった。
職業なんて、好きに選べばいいものだけど。
ジムのトレーナーだとかの資格を持ってはいるということだったけど、それでも、アイドル事務所のスタッフとして、トレーナーだけじゃなく、マネジメントや事務みたいな仕事までこなすからには、この業界って言ったらいいのか、深い知識が必要になると思うから。もちろん、それだけじゃなくて、言うまでもなく、アイドルというものに対する思い入れも。
そこまでしておいて、アイドルそのものには憧れたりしなかったのかな、なんて。大きなお世話どころじゃないのはわかっているんだけど。
「うーん、そうですね。表舞台における自己表現を求める皆さんにはわかり辛いかもしれないですけど、私は、そういう、輝く人たちの輝くためのお手伝いをすることのほうにより魅力を感じているんです。そうですね、学校の先生になりたい感じ、というのが皆さんにとっては、最も身近にわかりやすいでしょうか」
私はアイドルの舞台を見て、自分で輝きたいと思ったわけだけど、蓉子さんは他人を輝かせたいと思ったということなのか。
「そうそう。トレーニングウェアやジャージなども無料のレンタルがありますから、ぜひ、お使いください。予備も含めてお渡ししますから。洗濯は、皆さんの更衣室の隅にあった袋に入れておいていただければ、かまいませんので」
「そのうえ、洗濯までですか?」
蓉子さんには本当に、足を向けては寝られないなあ。
「ステージの衣装でなくても、揃った服装でレッスンをしているところが見られるのは、私にとっても大変楽しみなところですから」
「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
朱里ちゃんが頭を下げたのに習い、私と奏音も頭を下げる。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いしますね。もちろん、私がちゃんと卒業できて、無事採用されたらの話ですけど」
本人は笑っているけど、それは、私たちまで一緒になっていいのだろうか?
とはいえ、蓉子さんなら問題ないんだろうなという雰囲気を感じはするけど。