馬鹿、鬼、ドS、鬼畜
「無駄って……まあ、そのとおりだけど」
朱里ちゃんは、あんたはっきり言うわね、と呆れ意味だった。
自分だって、同意見のくせに、と気持ち睨みつけたのが届いたのかどうか。
「私が困ったところで、あんたの助けなんて借りようとは思わないわよ」
「えー、なんでー? 頼ってくれていいんだよ、朱里ちゃん」
大船に乗ったつもりで、と私は胸を叩いて見せる。
「あのね。そういうのは、私の台詞よ。詩音、あんたこそ、困ったことがあったら、なんでも言ってきなさい。同期の仲でもあるし、同期ではあっても、私のほうが年上なんだから」
「年上って、朱里ちゃんのほうが先に年齢の限界がくるって――痛い痛い」
朱里ちゃんの言葉を反駁しただけのはずなのに、こめかみをぐりぐりされた。理不尽だ。
私はこめかみを押さえて蹲る。
「なんでも言ってこいって言われたから言っただけなのに、暴力で返された……」
話が違う。
「今のは、他人のうまい話を簡単に信じたらいけないという教訓よ」
それから朱里ちゃんは、私の話はすんなり信じていいのよ、と付け加えた。
ちゃっかりしているというか、なんというか。
「まあ、話していても仕方ないわ。さっさとレッスンに行きましょう」
「うん」
時間的には、まだ少し余裕があるけど、早めに行って、ストレッチとかでも、進めておきたい。
多分、いつもどおりに、ランニング(と、その前の準備運動)から始まるんだろうけど、皆と一緒にやらないものでも、できることがあるはずだし。
あるいは、まだ、前の時間帯にレッスンを入れていたりする人がいるのなら、それを見学させてもらうこともできるかもしれない……さすがに、邪魔になるかな。
「詩音、時間わかる?」
「え? うん」
朱里ちゃんは自分のスマホを見ながら、私に聞いてくる。
電波で合わされているんだから、誰の時計を見ても同じだと思うけど。
「今って、私たちのレッスンの時間の十分前で合っているわよね?」
「そのはずだけど」
電波も四本立ってるし。
朱里ちゃんの見つめる先のレッスン室の中からは、音楽が聞こえてきているけど、前のレッスンと次のレッスンの時間帯で、十五分間、空きがあったはず。
つまり、これは自主練習の範囲に入るわけで、私たちが入っていっても、問題はないということだ。私たちだって、準備運動とかしておきたいし。
あ。
「朱里ちゃん、私ちょっと」
「詩音?」
私は都市伝説ではないので、手洗いを済ませ。
「おはようございます」
朱里ちゃんより、ほんのすこしだけ、遅れてレッスン室に顔を見せた。
「おはようございます、詩音さん」
「おはようございます、蓉子さん。今日もよろしくお願いします」
汗を拭き、水筒を口にしていた蓉子さんに微笑みかけられ、私も笑顔を返した。
アイドルの基本は、元気の良い笑顔と挨拶。
「はい、こちらこそ。今日もみっちり、基礎をやっていきましょうね」
「はい」
蓉子さん、つまり、マネージャーというプロの考えてくれた計画表だ。なにをどれだけどうしようと、私にできることはただ、信じて進むことだけだ。
「詩音ー」
「きゃっ」
端のほうで柔軟をしていると、後ろから声が掛けられたと思ったら、背中に乗って、押しつぶされた。
「奏音。重い、潰れる」
「ひどくない?」
ひどいのは、どう考えても、いきなり背中に覆いかぶさってきた奏音のほうだと思うんだけど。
「だいたい、詩音は潰れるっていっても、ただ、身体を折りたたむだけでしょう。あいかわらず、なに、この柔らかさは」
そう言いつつ、奏音が引っ張ってくるのは、私の頬だ。そこは柔軟とは関係ないところなんだけど。
「奏音がまだ硬すぎるだけでしょう。ストレッチ以外にも、たしか、レモンとか、お酢とかが柔軟性向上に良かったはずだよ」
柔軟性は基礎の基礎。
「レモンはわからなくもないけど、お酢って、そのまま飲むってこと?」
「え? ううん、どうなんだろう。私はそんな風にしたことないからわからない」
聞きかじりの知識だけだ。
「詩音はどうしてそんなに柔軟性があるの?」
「私だって、べつにそこまで高いわけじゃないんだけど……」
上には上がいるからね。
「柔軟性だって、同じだよ、日々の積み重ね。奏音、毎晩、お風呂前とか、上がった後とかにでも、柔軟体操してる?」
「……してない」
つまり、養成所に来ている日に少しだけ、でしょう?
こういうのは、毎日やることに意味があるんだから。
週に一回や二回程度やっていたって、さっぱり、柔らかくなったりするはずもない。
「柔軟性は一日にして成らず、だよ。もし、忘れそうだってことなら、毎日、私がやっている時間にメッセージ送ろうか?」
「え? 詩音のお風呂上がりの写真を送ってくれるの?」
奏音が目を輝かせるけど。私の話の、どこをどう聞いたら、そんなことになるんだろうね。まずは耳鼻科が必要かな?
「話聞いてた? 柔軟のストレッチをする時間にメッセージを送ってあげるから、それで、ビデオ通話でもして、確認してあげるって言ってるの」
あいにく、こうやって直接押してあげたりはできないけど。
「痛い痛い、詩音、裂けちゃうから」
まったく。この前から、なにも進歩してないんだから。
「マナーモードで気づかなかったなんて言ったら、本当に、裂けるまでやるからね」
「言わないから、わかったから、今日はもう勘弁して」
奏音が泣きそうな声で言うから、一応、今のところは、勘弁しておく。
「詩音の馬鹿、鬼、ドS、鬼畜」
「奏音のためだよ」
にっこりと、それはもう、眩しいだろうと思えるくらいに微笑んでおいた。
アイドルたるもの、最高の笑顔は、いつだって、見せられる準備をしておかないとね。
「詩音さん、奏音さん」
そう、蓉子さんの笑顔も。
たとえ、その仮面の後ろで般若が待ち構えていたとしても。普通、逆だと思うんだけど。
「おふたりとも随分楽しそうですね」
「詩音は私をいじめて楽しんでいると思います」
奏音がすぐに答える。
楽しんではいないからね?
「おふたりとも、あちらでプランクを一分して来てくださいね。皆さんはその間、水分でもとっていてください」
楽しそうなのは蓉子さんだと思います、なんて、私にも、奏音にも、口が裂けても言えなかったから、大人しく、隅でプランクをすることにする。
最中、上から体重をかけられるとか、頭に本やらを乗せられるとか、残り十秒だと思ったら、追加の十秒があったりとか、なんてこともなく。
「お疲れさまでした。では、今日の基礎トレーニングを始めていきましょうか」
そして始まるその日のトレーニングには、もちろん、筋トレだって含まれているわけで。
筋トレがメインというか、ようするに、アイドルとしての身体づくりの一環としてということだ。
「皆さんも気になっているようですから、先にお答えしておきます。向こう三ヶ月の間は、基礎、基本のトレーニングがメインです。これが疎かだと、なにをしても意味はありませんから。そして、基礎が身についていたほうが、いえ、身についていないと、その先になにを積み重ねようと身になりません。もちろん、夏以降に基礎がなくなるということではありませんよ」
それは、アイドルに限った話じゃない。
そんなことは、ここに来ている人たちにはわかっていることだと思う。
ただ、その中でも、自分のやりたいパフォーマンスをする場――テストは用意されているし、ほかの疑問やなんかには、蓉子さんでも、ほかのコーチ陣でも、可能な限り応えてくれるし、付き合ってもくれるだろう。もちろん、それぞれの時間の都合のつく範囲内で。




