対応策について……そして
「そうですよね」
肩を上げる私の頭に、由依さんが手を置く。
とりあえず、トレーナーの人たちから言われたことを守って、冷静に行動するしかない。
でも、あえて言ったりはしないけど、ここからの帰りって、レッスンで疲れ切った後なんだよね。
むしろ、疲れもしないレッスンなんて、ライブとか、仕事の前だけで十分で、それ以外では意味がないとすら言える。
その、疲れている中で、相手――おそらくは、大人を、振り切って逃げきることができるだろうか。
考えれば考えるほど、不安要素は浮かんでくる。
やっぱり、事務所の人に送ってもらうか、家族に迎えに来てもらうかというのが、一番、理想的ではある。
なにも、車で迎えにとか、そういうことじゃない。一緒に徒歩で帰るのでも、十分に効果はあるはず。少なくとも、一人で歩いて帰るよりは。
それとも、しばらく、自転車で通う? それも、どこまで効果があるやら。むしろ、前に飛び出してこられたり、余計な心配が増える。
「とりあえず、一番簡単にできそうなのは、防犯ブザーを持ち歩くことね。それも、押すだけじゃなくて、栓を引き抜くのがいいわね」
防犯ブザーは、指で押している間に鳴るけど、栓を引き抜くと、その間中、押さえていなくても鳴り響くタイプのものがある。
日常的に持ち歩くのは、勝手に栓が抜けてしまうというリスクもあるけど、それは、学校でも説明されていることだし、許容されるはず。
「由依さんは持っているんですか?」
「私は持っていないわね。でも、私の心配は無用よ」
言い切る由依さん。
それは、由依さんのことは信頼しているけど、心配は心配というか。もちろん、自分のことがちゃんとできてこそだ、というのはわかっているけど。
「はい。この話はここまで。もちろん、頭の中から完全に消してしまうのはまずいけれど、今はレッスンに集中しましょう。こんなことで、アイドル活動に支障をきたすわけにはいかないわ」
由依さんに背中を押され、私たちは着替えとレッスンに向かう。
レッスンの間には、レッスンのことを考えているべきだ。身につく効率が段違いだから。
「本当は残って、もう少し練習していきたいんだけど」
「ライブがあるもんね」
ニューシングルを発売するとなれば、当然、それに伴う、ライブがある。
その出来が、売り上げに直結する、とは言い切れないけど、重要なイベントであることは間違いない。私たちにとっても、ファンの人たちにとっても。
「限られた時間の中で、最高のクオリティに仕上げることも、アイドルの、プロの仕事よ」
「はい、由依さん」
そのとおりだ。
いつも言っているけど、ファンの人たちに見えるのは、ステージに立つ私たちだけ。どんな努力をしてきたのかなんてことは、見えないし、見せて自慢するようなことでもない。
今の状況での最善、じゃない。今の状況でも最高、を目指してやらないといけない。
それでも。
「申し訳ありませんが、居残りでの練習は、今はしないでいただけると安心できます」
レッスン後の自主練は、蓉子さんに断られてしまった。
「もちろん、この後もレッスンはあるので、皆さんにだけ、こんなに遅い時間にまで出歩くなとは言い辛いのですが」
これは、うちで一緒に練習、なんていうこともしないほうがいいよね。
うちでなら、帰るときにも、家まで完全に送ることができるから、リスクは限りなく低くできるとはいえ。
「わかりました」
仕方がないから、また、リモートでの練習かな。
一応、一緒にいなくても、スマホのテレビ通話を介して、同時にレッスンをすることはできる。ただ、どうしてもラグがあるから、揃わずに、微妙な感じになって、二人で合わせの練習をするという意義は薄まるんだけど。
ラグに合わせるように、タイミングをずらして踊ると、それはそれで、変な癖になったりもしかねないから。
「大丈夫だよ、詩音。私たちは離れていても、心はひとつだから」
奏音が、なんだか創作の中みたいな、格好良い台詞を言う。
「うん、まあ、そうだね」
奏音の手は冷たいけど、大丈夫かな。
普通、レッスンの直後なら、身体は温まっているはずなんだけど。
風邪でないなら、よほど、緊張しているとか。
やっぱり、私より、心配だ。
「奏音。やっぱり、しばらくはタクシーで帰ったら? それとも、うちまで来て、そこから送るよ? 本当に」
「心配してくれてありがとう。私も、なにか考えてみるね」
奏音の声は良く響くから、叫ぶことさえできれば、誰かには届くと思うけど。
私たちがレッスンを終えて帰る時間って、もう、誰も帰る人がいないような時間じゃなくて、まさに、帰宅ラッシュの時間帯だから。
この養成所も、それなりに、駅から近い――つまり、交番とも近い――し。
「そもそも、同じことは詩音にも言えるんだからね。近いからって油断しないで」
それもさっきも聞いたよ。
でも、気をつけないといけないことには違いない。
何度言われようと、それで、事態を防ぐことに繋がるのなら、耳にタコくらい、いくらでも作ろう。いや、実際には、アイドルの顔は商売道具だから、無暗に傷つけるのは絶対に避けるべきなんだけど。
「詩音の顔に傷でもついたら、私が相手を許せないと思うから」
「それは、奏音も同じだよ」
傷の一つ二つで損なう魅力じゃない。
そうは言っても、だ。
「あとは、咄嗟に息を止める練習とか?」
「え? 一瞬で眠らせる薬品とかって、現実にありえるの?」
気をつけるのは、痴漢撃退用の催涙スプレーの類かもしれないけど、その場合、息を止める程度では意味がないし、顔を背けるとか、手で覆うとか、そういう対応のほうが正しいと思う。
あれって、子供でもわりと手軽に購入できるわりに、なかなかの効果だから。
しかも、声をかけてからじゃなくて、問答無用に、初っ端から噴射されると、対応も間に合わない。
それこそ、マスクとサングラスでもしていれば、話は違うけど……本当に、マスクだけじゃなくて、サングラスもしようかな?
「……なんか、こんな風にこっちが頭使わされるのって、癪だよね」
「それはそうだけど、仕方ないよ、奏音」
実際、困るのは私たちなんだから。本来は、逮捕のリスクがあるっていうことで、犯人側も困るはずなんだけどね。
でも、そんなことを気にする人は、そもそも、犯行に及ぼうと思わないわけで。
「でも、変装の効果はあるでしょ」
「今回の誘拐に限っての話をするけど、相手の狙いが無差別の場合は、あんまり意味ないよ」
相手が誰だろうとかまわないのなら、変装に意味はない。
「そっか。早く捕まるといいね」
「そうだね」
そんな話をして、奏音と別れる。
奏音は、近い私のほうが安全と思っているみたいだけど、私は逆だと思っている。
奏音は駅のほうに帰るため、それなりに、同じ方向に帰る人もいる。
対して、私は家からは近いけど、同じ方向に帰る人は、少なくとも、私と同じ時間帯にレッスンを受けている人の中では、ほとんどいない。今までに一緒に帰ったようなこともない。
信号を渡――ろうとしたところで、後ろから抱きすくめられた。
「詩音ちゃんだよね」
「痴漢!」
考えるよりもまず、声が出た。
日頃から発声練習をしていることとは関係ないと思うけど。
相手も、突然の事態にはこちらは動揺するはずだとでも思っていたのだろう。近いところで、遠慮のない大声で叫ばれたからか、拘束が若干緩む。
人が持つ、最も原始的な、咄嗟にできる、効果的な攻撃とは。
私は叫んだ口をそのままに、思い切り、相手の腕に噛みついた――んだけど、感触はおかしい。
かなり厚手のものなのかもしれない。




