アイドルとしての演技力とは
なんでもとは言わないけど、人数が増えれば、それだけできることの幅も広がるわけで、それは素直に羨ましいところだ。さすがに、私たちでも分身したりはできないから。
私たちのお題は『メイドとお嬢様』だったわけだけど、これだって、メイドの人数を増やす、性格に違いをつける、あるいは、お嬢様のほうを複数にして意表をつくことだってできるかもしれない。何人ものお嬢様を一度に相手にできるスーパーメイド。私の中のイメージ的には、蓉子さんみたいな感じだろうか。
もっとも、これは一応、バラエティ番組の中での一幕。それを考えたなら、遊び心は必要だろう。
まったく畏まった様子のメイドと、終始、いかにも楚々とした雰囲気のお嬢様とが並んでいるだけだと、なにも面白みがない。まあ、そのお嬢様が――演出上のこととはいえ――空気椅子でお茶を飲んでいるとすれば、面白いかもしれないけど。
その上で、パフォーマンス対決と銘打たれているわけだから、パフォーマンスとしての披露ということも、考える必要がある。
まあ、単純に演技――エチュードとして発表するのでも、全然、問題はない……あえて言うとするなら、私たちの演技力についてだろうか。
芝居的なという意味では、私も奏音も、素人とそう変わらない程度の実力しかないから。
それは、多少毛が生えていたとしても、見る人に伝わらなければ意味がないのだから、そう言い切ってしまって問題はないだろうね。
「もしかして、奏音は演技に自信があったり」
「しないよ」
だよね。普段から一緒にいるんだから、そのくらいはわかる。
私だって、その勉強はしていないわけだし。
一応、女子力? としての、演技程度であれば問題ないだろうけど、そんなものは、意味がないわけで。
「アイドルとしての演技力っていうのは、芝居に求められるものとは違うよね」
「うん。それはそうだと思う」
奏音とも意見は一致する。
アイドルとしての演技力というのは、ライブなんかでのパフォーマンスとして魅せるためのものだったり、企画などでの大袈裟というか、伝え方であったり、演出上の盛り上げ方であったりといったような意味であって、純粋に芝居のための演技力とは、若干ニュアンスが異なってくる。
もちろん、芝居としての演技力がうまければ、役者の道を選ぶとか、そういったことでもないから、アイドルであっても、芝居的な演技力の高さのある人もいるだろうけど。あるいは、アイドルになってから、身につけたものだとかも。
そういう意味で、今回、内容が決まっているのは、良かったのか、悪かったのか。
「でも、やっぱり、土台もないわけだから、そこに無理やり『アイドルっぽさ』なんていうものを乗せようとしても、無理だと思う。それより、純粋に、体当たり的に、私たちのままでやるほうが、受けはいいと思う」
下手なりに芝居も学んでいるんだな、という程度に思わせることでもできたら違うのかもしれないけど、残念ながら、私たちにはそれも難しそうだから。
もしかしたら、アイドルとか、あるいは、モデルみたいな仕事が増えたら、そういった実力も磨かれるかもしれないけど、考えるべきなのは、あくまでも、今の時点でも私たちにできること。
「じゃあ、やっぱり、最初に考えた案でいこう。あっ、もしかして、これって、演技力だけじゃなくて、プロデュース力も試されているとか?」
「どうだろう。奏音の言ってることも当たっている、というか、一部はそういう思惑もあるかもしれないけど」
一応、表向きには伝わらない部分かもしれないけど。
なんにしても、考えても意味はないという意味では、同じことだ。
「演技っていうことは、多少大袈裟にやったほうが良いのかな?」
「そうかも。小さすぎても、見てる人に十分伝わらないかもしれないし」
それこそ、演技なわけだから、はっきりそれとわかる形のほうが、望ましいだろうね。
「でも、メイドを大袈裟に褒めるって言っても、頭を撫でたりするわけじゃないよね?」
「それは、多分。主従ごとによって違うとは思うけど、イメージとしては、多くないんじゃない?」
今回、重要なのは、見ている相手に伝えること。もっとも、それは、今回に限ったことでもないとは思うけど。
ともかく、身振りや手振りとして大きく再現する必要はあるけど、あまりにも違いすぎても、見ている相手に違和感を与えかねないというのはそのとおりだから、その匙加減だね。
あくまで、優雅な感じ、というほうが、お嬢様というイメージには合う気がする。
もちろん、これは私と奏音の共有するものであって、審査員とか、視聴者とか、あるいは、ほかの共演者にとっては、また、違う意見もあるかもしれないけど、それを気にしていても仕方がない。結局、審査員の中のイメージを完全に理解することなんてできないわけだから。
「私なら、詩音の頭を撫でて、思いきり抱き締めてあげたいけど」
「紅茶一杯淹れるたびに、それやるつもり? さすがに、限度があるでしょ」
それじゃあ、日常がままならない。滞ることになるだろうね。
「これから、私たちの形が標準になっていくかもしれないじゃん」
「そうかもしれないけど、べつに、意図してそれを作り出したいわけでもないし、どっちにしても、さすがに過剰だと思う」
いいねと思う人より、やりすぎなんじゃないかと思う人のほうが多そうだ。
あくまで、一般的なイメージとして、審査員にどう思われるのかということまで考えると。
過剰なほうがわかりやすいとは言ったけど、勝負の趣旨としては演技力なわけで、それがあまりにも自分のオリジナリティに寄りすぎていると、それは、演技という範疇ではなくなるような気もする。
あるいは、それこそ、演技だとする人もいるかもしれないけど、そのあたりの細かい定義というか、役者や監督の考える演技というのは、わからないから。
「残念」
奏音はすんなりと諦めたように、肩を竦める。
もともと、そこまで、強く考えてはいなかったんだろうね。奏音の個人的な趣向が透けて見えたし。
もちろん、演者本人ということ、そして、『お嬢様』という役のイメージとしての可愛らしいおねだり、みたいな感じで捉えたなら、ありえないとは言えないけど。
どういう方向性でやるのかっていうことで、そうやってやるなら、最初から全部、逆にして作り上げたほうが良かった。
最初に決めた方向性からぶれると、候補に挙げていたとはいえ、本番で演技がぶれる可能性が高くなる。
「じゃあ、軽く時間計ってみよう」
アピールタイムは決まっているから、短すぎたり、あるいは、長すぎてオーバーするのでも、問題だから。
身振りや手ぶりも抑えて、小声で確認している最中、シンキングタイムが終わって、発表の時間になる。
とはいえ、私たちの順番は最後だから、まだ、待機時間内にも確認することはできる。
もちろん、あからさまに動いて練習なんてことはできないから、あくまで、台詞とか、動きを言葉にして確認する、という程度にはなるけど。
それだけじゃなくて、目の前で繰り広げられる他のグループの演技も気になるし。
芝居として完成度が高ければ良いのはもちろんだけど、理解度というか、姿勢みたいなもののほうが、点数に影響しているような気はする。
それにしても、どのお題でも、眼福だなあ。演技巧者でも、たどたどしさ、棒読みっぽさがあっても、どっちにしても、推せるよね。
奏音に言わせると、詩音は誰でもそう言うでしょ、と返されるんだろうけど。




