アイドルに体力は必要不可欠
柔軟は所詮柔軟。レッスンの前の準備運動でしかない。
奏音は大分ふらふらになっていたけど、まだ、始まってもいないからね。
それに、ランニングの後にも、しっかり、筋トレはあるし。
「皆さん揃って……あれ、奏音さん、大丈夫ですか?」
トレーニングウェアを着た蓉子さんが、心配そうに尋ねる。
「大丈夫……じゃないです。ランニングに皆が行っている間に休んでいて、ボイトレから参加するのでもいいですか?」
「ええっと、それは……」
「いいわけないでしょう」
言いにくそうにする蓉子さんに代わって、朱里ちゃんが奏音を引っ張り上げる。
「ライブをすることになったら、ステージの上で、歌って、踊って、トークまでする必要があるのよ? 場合によってはその前や後に、サインやら、握手やら、物販やらが入ってくる場合もある。今からでも、体力はつけておかなくちゃいけないんだから、つべこべ言わずにさっさと行くわよ」
もちろん、そんなのは、アイドルとしてデビューした後のことで、今の私たちにとってはずっと先の未来の話かもしれない。
「あんたの歌はすごいわ。はっきり、特別だと思ってる。でも、その才能だけで走り続けられるほど、簡単な世界じゃない。それはわかりなさい」
奏音の歌が特別なのは、私もそう思っている。
だけど、それだけでいいのなら、奏音には、養成所じゃなく、最初からデビューの話を持ち掛けられてもおかしくなかった。
もともと、ビジュアルも天才的だし。
だけど、なんでも同じだけど、基礎を疎かにしていたら、絶対、困ったことになる。体力だって、その一つだ。
もし、公演だとか、ライブだとか、そういう話になると、さっき、朱里ちゃんも言っていたけど、何時間もぶっ続けで、途中休憩は挟むかもしれないけど、お客さんと対面することになるし、そんなところで、へたっている姿なんて見せられない。
そもそも、一曲の中でだって、体力がないと後半でばてて格好のつかないところを晒すことにもなりかねないから。
「それとも、走り込みが必要ないほどのダンスレッスンをしてみる?」
そう提案してきたときの朱里ちゃんの顔といったら。
さすがの笑顔ではあったんだけど……奏音が私の背中に隠れながら、素直にランニングに出ることに頷いたとだけ言っておく。
とはいえ。
「あの、蓉子さん」
奏音が朱里ちゃんに連れられて、由依さんと真雪さんも一緒に、帽子をかぶって外に向かってから。
「どうかしましたか、詩音さん」
「あの、走り込みでの体力トレーニングが必要ないくらいのダンスレッスンなんて、本当にあるんですか?」
興味本位で聞いてみた。
体力は、歌でも、ダンスでも、その柱になるものだ。その代わりになるほどのダンスや歌のレッスンの激しさというか、過酷さが、ちょっと想像できないというか。
怖いもの見たさみたいな感じだけど、気になることには違いない。
「ありますよ」
蓉子さんは変わらない笑顔で。
それは、さっきの朱里ちゃんみたいに怖さを感じるようなものではなかったけれど。
「気になりますか?」
「はい、気になります」
正直、好奇心のほうが勝っていた。
走り込みを重要視するような、アスリートの競技をやったことがなかったというのはあるけれど、今、私が学校と養成所と、それから、ダンスとかの稽古事を続けていられるのは、体力がもっているからだ。
それはまだ、基礎的なレッスンが中心だからということもある。
デビューして仕事が入ってくるようになったとき、しっかりと動くことができるのかどうかということはわからない。
だから、体力の強化は必須なんだけど。
「そうですね。詩音さんは所属したばかりですし、ダンスにも、歌にも、慣れているとは言えません。なので、まだ早いと思いますよ」
慣れていない運動を長時間続けてしまうと、怪我をするリスクが高まるとか、そういう話だろうか。
一応、ダンスは昔から習ってはいるんだけど。
「それに、そんな風に、体力強化を目的としたダンスのトレーニングでは、実際のライブでのダンスとは異なってきます。なにより、体力を強化することが目的なら、それを効率よく鍛えられる方法を選んだほうが、思考も楽ですし、身につきやすいと思いますよ」
ダンスはダンス自体、つまり、振り付けを完璧に入れることや、身体の先まで集中すること、踊りながらでも、笑顔を忘れずにいられるようにすること……そんなようなことにリソースを割くべきだという話だ。
ダンスにはダンスでしか得られない経験があり、それに集中したほうが、より成長を見込むことができる。
体力強化のために、ヘロヘロになるまで踊っていても、疲れて、振り付けが雑になったりしては意味がないから。
「それでもやるとなると、現在のトレーニングより、数段、大変なことになると思います。それに、違うことをやったほうが、丁度いい気分転換なんかにもなりますし」
つまり、トレーニングのメニューは、あたりまえだけど、いろいろと細かく考えてくれたうえでのものだということ。
意味を考えながらトレーニングするのは大切だけど、プロの考えに素人の思い付きで変更を試したりしようとするのは、野暮だというものだ。
「わかりました。ありがとうございます。奏音にはしっかり言って聞かせますから」
たしかに、体力があったほうが、レッスンもたくさんできるわけで。
それに、私たちは学生で、レッスン以外にも、むしろ、学業のほうが本業なわけで、どちらもしっかりこなすには、やっぱり、体力は必要になる。
学校が終わってから事務所でレッスン、帰ってから食事と風呂とストレッチ、それから身体のケアなんかを済ませて眠る、だけじゃなくて、学校の課題もこなさなくちゃならないんだから。
それでも、朝早く起きて、遅刻しないだけの体力は、やっぱり必要不可欠だ。
「どうせ行かなくちゃならないんだから、いつまでもごねているんじゃないわよ。自分でオーディションを受けてここにいるんでしょうが。将来、デビューしたとき、体力がなくて、ヘロヘロのパフォーマンスを披露して、叩かれるのは奏音だけじゃない、一緒にステージに立つ私たちも失望されるのよ。しっかりするか、そうでないなら、アイドル目指すのは止めておきなさい」
遅れて外についてみると、朱里ちゃんが奏音にぴしゃりと言い切ったところだった。
自分のパフォーマンスのことを気にしているようで、奏音のことを気にかけているのは見て取れる。朱里ちゃんは、なんだかんだと言いながら、面倒見がいいから。
「奏音。歌手じゃなくて、アイドルを目指すなら、ダンスもできる必要があるし、それなら、基礎体力が大切なのもわかるよね」
歌手に体力が必要じゃないとは言わない。そもそも、歌手になにが必要なのかということは、私にははっきりわからない。
ただ、ダンスを踊ることはないだろうというのはわかる。
そして、奏音がアイドルを選んだのなら、ダンスと歌と、それに伴う、体力は必要だということも。
ただ、スタンドに立っているマイクに向かって歌うだけじゃないんだから。
「それでも、嫌だって言うなら、奏音だけデビューが遅くなるってことになるよ」
この養成所、そして、事務所が、どういう形で私たちをデビューさせることまで考えているのかはわからない。
もしかしたら、個人ごとでかもしれないし、いくつかのユニットに分かれてそれぞれかもしれないし、あるいは、全員纏めてグループとして、ということかもしれない。
一人一人ということでない限り、奏音の体力が基準に満たないと、他の人にも影響が出ることになる。
「……それは嫌だな」
ようやく、奏音も覚悟を決めたらしい。




