結局、シンプルなのが一番
◇ ◇ ◇
蓉子さんの言っていた、今すぐに決める必要はない、というのは、現場についてサインを入れることになるまでには決めておいてほしいということだ。
「そういえば、詩音って、クォーターだったよね? そっちの国の言葉で書いてみるとかにするの?」
「しないよ。前提として、読めるものじゃないと良くないって言われてたでしょ」
せいぜい、漢字かひらがな、カタカナ、アルファベットにするよ。
そもそも、私だって、そんなに他国の言語に詳しいわけじゃないし。
「それに、奏音と文字が被ってたら、それはそれで、なんとなくいい感じだし」
私と奏音は、漢字で書いた場合に、『音』という文字が被っている。ユニット名も、それに因んだものにしようかと、考えたくらいだし。
加えて、『月』という文字も。
「『音』、あとは、アルファベットで書いた場合、終わりの『on』も被ってるよね」
とはいえ、それほどこだわりがあるわけでもない。
しばらく考えた末。
「決めた。私はアルファベットで書く。こんな感じ」
そう言って、奏音は貸してもらったノートにサインを入れて見せてくる。
音符のあしらわれた、シンプルなデザインのもので、書きやすく、わかりやすい。あと、可愛い。
あとで、一応は蓉子さんに確認してもらうことになるんだろうけど、多分、問題ないだろう。
「もともと、『Canon』って言葉があるでしょ。それをもじった感じで。どう?」
「良いんじゃない? 可愛いと思うよ」
奏音のサインは崩した感じで『Kanon』と書かれていて、それ自体は、ローマ字で書いたときの奏音の名前そのままだけど。若干、筆記体味はあるとはいえ。
最後に音符が足されているから、ダブルミーニングだと、わかる人にはわかるかもしれない。あと、ハートとかもあしらわれてる感じだったり。
「じゃあ、私は漢字にしようかな」
いや、漢字とひらがなかな。『月城しおん』って感じで。
でも、アイドルとしての登録名? は『月城詩音』だから、そこは合わせたほうが良いかもしれない。
結局、私は全部漢字で書くことにした。少し崩した感じで。サインだし、楷書じゃあ味気ないからね。
「無難なところに落ち着いたね」
「まあ、書きやすいのが一番かなって」
凝ったものにしても大変だから。
やっぱり、シンプルで覚えやすいのが一番。
模倣されたら、模倣されるくらいには人気が出てきた証拠っていうことで。
あとは、到着して、蓉子さんが運転を終えた後に見てもらって、それでOKをもらえばって感じかな。
結局、二人のサインに似通ったところはまるでないわけだけど、それはそれでいいだろう。
「奏音はどう思う? これ」
「良いんじゃない? 見やすいし、読みやすいし、書きやすそうだし」
そういうわけで、一応の候補を決めた私たちは、適当にサインを書いたりして遊――現地に到着するまでの時間を潰した。
それらは、大分はっちゃけた感じで、デザイン的に目を惹くものがないわけでもなかったけど、異常に凝っていたり、ふざけていたり、資源の無駄かな? と疑問を――正直に言えば、ごみを量産するなというような出来だったわけで。
まあ、私も、奏音も、半分くらい、それを狙って書いたところもあるから、これの落書きについてはどうでもいいんだけど。
「随分と盛り上がっていたようで、その様子だと、お決めになられたようですね」
「はい」
到着して、車を降りてからの蓉子さんの確認に、私と奏音は揃って頷く。
「それでは、拝見させていただきますね。よろしいですか?」
ノートには、私と奏音でそれぞれ、真面目に考えたものが一ページ弱づつと、適当に綴ったものが数ページほど書き込まれている。
蓉子さんの運転は非常に上手で、私も奏音も、車に乗ったことはある。
だから、こうして、サインを考えたり、書き込んだりしていても、車酔いにはならなかった。
「よろしくお願いします」
私たちは、というより、私が蓉子さんにノートを差し出す。
一応、私たちの中で、一番良さそうかなと思うもの、つまり、さっき二人で決めたものには、印――チェックを入れてはおいたけど。
「では、これでいきましょう」
蓉子さんはその私たちがチェックを入れておいたもので決定と言って、それ以外には、なにも言われなかった。
「え? その、いいんですか?」
あっさり決まりすぎるのも、逆に不安になるというか。
自分の考えたものに自信がないとか、そういうことじゃないんだけど。
「おふたりで最高のサインを決められたのでしたら、私から口を出したりする必要はないかと」
それもそうかもしれない。
結局、事務所としてもいくらか関係してくることになるだろうとはいえ、結局、そのアイドルだということがわかれば――しっかり、文字として読めるということじゃなく――どのようなものでもかまわないわけだね。
「それでは、もちろん、おふたりには不要かもしれませんが、間違えたりすることのないよう、練習をお願いします。これだけたくさんの候補が挙げられているのでしたら、それらとごちゃ混ぜになっていると困りますから」
そうなると、一人一人、入れられるサインが違う、その人だけの、オンリーワンのサインが入る。
「――それはそれで面白そうだ、とか思ってないよね、詩音?」
「お、思ってないよ」
ただ、何種類かサインがあって、別バージョンみたいになっているのは、見る側、あるいは、集める側としては、楽しそうだなとは、少し思ったりもしたけど。
奏音のジトっとした視線が突き刺さる。
「まあ、詩音に限って大丈夫だと思うけど、これからすぐ本番なんだから、混乱して、間違えたりしないようにね」
「うん。気をつけるよ」
ほかの候補とか、頭に浮かんでいたいくつかのものは、消しておいた。
それで、残った時間は、その決めたサインの練習をする。
これから先、ずっと使うサインで、何百何千、それ以上書くことになる(といいなあ)と思うけど、それはそれとして、今、このときでも、できたばかり、考えたばかりだからうまく書けません、なんて言えないからね。
「じゃあ、あ、そうだ、蓉子さん。もしかして、色紙とか持ってたりしますか?」
「すみません、今は。もし、必要でしたら買いに行くことはできますが」
どうしてもっていうわけじゃないんだけど。
「いえ、それなら良いんです。代わりにというか、このCD、一枚いただけますか?」
「それはかまいませんが」
サンプルとして、すでに店側に搬入されているもの以外にも、この車に乗せてあるものもある。
私は、すみません、とちょっとだけ後ろ側に身体を乗り出して、荷物の中からケース入りのCDを二枚取り出すと。
「詩音? 今からサイン入れ始めるの? それって、買ってくれたお客さんに対して、それに直接書くものなんじゃないの?」
「ああ、うん。それは、お店で売る分はね。これは、私たちの分」
そう言って、サインを入れたものを奏音に差し出して。
「あ、でも、奏音がいらないんだったら――」
「そんなこと、言うわけないよ」
貸して、と予想どおり、奏音は私の書いたサインに並べるような感じで、自分のサインを書き込む。
本番でもこういう感じに書き込めばいいんだろう。
一応、CDのジャケット自体に、私たちのユニット名は書き込まれているから、そっちは必要ないだろう。それは、私たちが考えたものじゃなくて、多分、外注されたものだろうね。
ケースに書いたサインだから、ジャケットの写真だけを見ようと思えば、ずらせば確認できる。




