第四話:色づき始めた心
【多分、酔いのせい】
晩餐を終えたアデルは、ラグナルを自宅の中庭へ案内した。
小高い丘の上にある公爵邸。その庭からは、丘の下に広がる市場の様子が見渡せた。
月と篝火が、二人を照らす。
「風が気持ちいいですね」
ラグナルが静かに深呼吸をしていた。秋の夜風は、酔い覚ましに打ってつけだ。
「晩餐でのお酒、お楽しみいただけましたか?」
アデルが微笑みながら問いかける。ラグナルはふと視線を逸らし、苦笑を漏らした。
「ええ、存分に……晩餐というより、戦場に出た心地でしたが」
「一兵卒みたいなことおっしゃらないでくださいませ。北部の酒宴は、こんな平和ではありませんよ」
アデルは得意げに笑みを浮かべる。その顔を見たラグナルは、ため息混じりに首を振った。
「酒を手にした貴女なら、戦女神になれるでしょうね」
ラグナルの皮肉に、アデルは首を傾げた。
「手加減したつもりでしたのに。私、一度、酒樽を一晩で空けたことがありますの」
その時の光景を、アデルは思い出す。あれは昨年の、北部貴族たちとの酒宴。男たちが「もう無理……」と言いながら、次々と床に倒れ込んでいった。その屍の山は、まさに戦乱の地のそれだった。
それを聞いたラグナルは、極めて真剣な声音で尋ねた。
「次回、私が戦死しない保証はありますかね?」
「負傷兵の手当ぐらいはして差し上げますわ」
アデルは肩をすくめ、冗談めかして答えた。
二人の笑い声が、庭の静かな夜気に溶けていく。
ラグナルはふと、遠くに目をやった。収穫祭会場である、市場の灯りだ。
「……北部の夜は賑やかで美しい」
その声に、アデルも視線を市場へと移した。その光景を見つめながら、穏やかな夜の空気に浸った。そしてアデルは、今日の収穫祭を思い出す。
「あれほど王族の方が楽しそうにされるとは、正直、意外でした。王国の文化の本流を知り尽くす貴方にとって、北部の素朴さは退屈なのではないかと」
ラグナルは思わず、と言った様子で、首を横に振る。
「とんでもない。市場の売り手も買い手も暖かく楽しむ様子に、年甲斐もなく心が弾みましたよ」
その声の真摯さが、本音だとアデルに伝える。アデルは安堵の笑みを浮かべた。
ラグナルが続けた。
「人々が心を通わせる文化も、素晴らしいですね。かつて王国の文化といえば、南部地域由来の荘厳さがその真髄でした。ですが、北部の民の暖かみは、いつもの皮肉も計算も癒されるようでした」
「……それは嬉しいお言葉です。北部の人情は、厳しい冬を乗り越える中で培われたものですわ」
ラグナルの素直な感想に、アデルは静かに喜びを噛み締める。
そんなアデルを見つめ、ラグナルは微笑みを浮かべた。
「それに心許せる相手と一緒でしたから、尚のこと楽しかったですよ」
アデルは目を細める。何気ない一言だったが、その言葉に、胸のどこかが温かくなる。
庭の石畳を並んで歩く二人。秋の夜風が木々の葉を揺らす。
時折、ひらりと舞い落ちる落ち葉が足元を彩る。
「ああ……」
ラグナルがふと立ち止まり、アデルの方を向いた。その瞳は、どこか酒の余韻を引きずったように柔らかい。
「どうかなさいました?」
「落ち葉が、まるで髪飾りのようですね」
そのラグナルの言葉に、アデルは髪に手を伸ばそうとする――しかし、ラグナルの方が先だった。
ラグナルが、アデルの髪に触れる。指先がアデルの側頭部のあたりを優しく包むように触れ、落ち葉をそっと摘まみ取る。
「……今日の市井でのことを、思い出しますね」
柔らかく、懐かしむような声。その声には、普段の理知的な彼には見られない、少し無防備な温かみがあった。
ラグナルの手はそのままアデルの髪に触れたまま、しばらく動かなかった。ラグナルの青い瞳を、中庭の篝火が照らし出す。
その距離の近さに、アデルの胸が高鳴る。
――ずっと頭触られてる!
――これは一体何の計算!?
今のアデルの思考に、女公爵の威厳などなかった。
混乱した頭の中で、少女の嬌声にも似た悲鳴が飛び交う。
そんなアデルの動揺を知ってか知らずか、ラグナルは、ふっと可笑しそうに笑った。
「貴女は本当に危険な人だ」
ラグナルはそっと、アデルの頭から手を離した。その時、彼の瞳が揺れたように見えたのは、風に煽られた篝火のせいだろうか。
アデルは、その言葉の意味を深く考えようとした、が――今の彼女には、それ以上何も言えなかった。ただ心臓の音が、静かな庭の中でやけに響く。それを彼女自身が、どうすることもできない。
普段は酒豪のアデルが、初めて酔いに似た心地を覚えた。
「そろそろ冷えてきました。屋敷に戻りましょう――名残惜しいですが」
ラグナルはアデルの手を取ってエスコートし、二人は庭から屋敷へと戻る。秋の涼しい空気の中で、触れた手の温もりに、再びアデルの思考と心が騒がしくなるのだった。
【再び別れの時】
「本当にお世話になりました、アデル嬢」
別れの時がやってきた。その日は、雲一つない秋晴れだった。
カレスト公爵家の邸宅前で、アデルとラグナルは最後の挨拶をしていた。彼らの背後には、それぞれの従者がずらりと並ぶ。
「心地よい滞在でした。そして、昨日の話、改めて感謝します」
まるで昨晩のことなどなかったかのように、ラグナルは礼儀正しい。アデルもまた、淑女らしく微笑み、深々と礼をした。
「こちらこそ、素晴らしいご提案をいただき感謝しております。ラグナル様の帰路が順調でありますように」
そのやり取りは、完璧な貴族同士の礼節に則った別れの挨拶だった。互いの従者たちも、形式的なその場に安心した様子で静かに控えている。
ラグナルは一歩、アデルへと近づいた。秋の陽光が彼の黒髪に柔らかな光を落とし、深い青の瞳が静かにアデルを映す。
「では、またお会いできる日を楽しみにしております」
一見、何の変哲もない別れの言葉だった。
しかし、その瞬間、アデルの胸中は、名残惜しさに埋め尽くされた。思わず彼の腕を引き留めたくなる衝動を制して、淑女の声を発した。
「ええ、月末の王国議会後でしたわね。目的は――お伝えいただいた通りで構いませんわ」
アデルの言葉の含みに、ラグナルは間を空けることなく返した。
「もちろん。必ずおもてなしいたします」
その返事は、まるで誓いのように深く、静かに響いた。
従者たちが二人のやり取りを見守っている。彼らが何かに気づく気配はなかった。貴族同士の予定確認にすぎない――そう思っていることだろう。
しかし二人だけは理解していた。その言葉が持つ誠意と、昨日からずっと心の中で渦巻く、まだ名付けていない感情を。
ラグナルはゆっくりと馬車へと向かう。そして乗り込むと、御者が手綱を軽く引き、車輪が音を立てて動き始めた。
アデルはその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる馬車をじっと見送る。視線を逸らすことなく、ただ彼の背中を見つめ続ける。やがて馬車が視界から完全に消えると、静寂が訪れる。風が微かに吹き、アデルの茶色い髪を優しく揺らした。
「必ず――」
ラグナルの最後の言葉が、何度もアデルの心の中で反芻される。温かくて、切なくて、それでいて不思議と心地よい響きだ。
気づけばアデルの唇には、ほんのりと柔らかな笑みが浮かんでいた。名前のつけられない感情が、少しずつ、少しずつ、色づこうとしている。彼女はその変化に戸惑いながらも、打ち消そうとはしなかった。
秋の風が静かに吹く。その風が、カレスト公爵邸の木々を揺らす。そしてアデルの心もまた、その風に吹かれ続けていた。