生娘娼婦と眼帯の用心棒:中編
【店外デート】
広場の灯りが、雨に濡れた石畳に反射して、何か不安定な美しさを見せていた。ナタリアはその輝く道を歩きながら、さる貴族と共に楽しげに話していた。彼はいつもナタリアに丁寧に接してくれる。加えて、オプション価格として高額な店外デートも、何の惜しみもなく支払える経済力。ナタリアの上客の一人である。
店外デートの際には、店の用心棒を護衛としてつけることができる。しかし、その時手が空いている用心棒はクロードしかいなかった。
――誰があのスケコマシになんて頼むものですか。
ナタリアはあの日以来、拗ねていた。拗ねすぎて、クロードと娼館内で鉢合わせる度に、勢いよく首をそっぽに向けていたら、悪い捻り方をしたらしく、思いっきり首を痛めた。あまりの痛さにその場で膝から崩れ落ちたが、その無様な姿にクロードは珍しく腹を抱えて笑い、それによってますますナタリアは不機嫌さを増した。
そんなわけで、彼女は護衛を頼まずに、客とともに気ままに町を歩いていた。
しかし、しばらくしてから広場に差し掛かったとき、ナタリアは急に視線を感じた。目を向けると、三人組の若い男たちが近寄ってきていた。その時点でナタリアは、何か不穏な空気を感じ取った。
男たちは、更に近づいてきた。そのうちの一人が、酔っ払っているのか、言葉がやや滑りながらも声をかけてきた。
「おい、お嬢さん、少しこっちに来ないか? 金もあるし、いいことができるぜ」
ナタリアは無視を決め込んだが、男たちは容赦なく金をちらつかせてきた。最初は軽いナンパのような言葉に過ぎなかったが、すぐにエスカレートしていった。
「一晩だけ、違う楽しみ方をしてくれよ、なぁ」
ナタリアの心の中で何かが冷やりとした。顔に笑みを浮かべながらも、彼女はその男たちの言葉に背を向け、歩き出そうとした。しかし、その時、客が慌てて身を引き、ナタリアを置いて逃げ出してしまう。
「え、待って!」
ナタリアは叫んだが、その背中は遠ざかる一方だった。無力感がじわじわと広がり、今まで経験したことのない恐怖が彼女を包み込む。
「置いてかれるなんて可哀想になぁ! あんな男忘れて、俺たちと楽しもうぜ」
男たちはますます執拗に絡んでくる。ナタリアが反応する間もなく、一人の男が無理やり彼女の腕を掴んで引き寄せた。その手には、アルコールの匂いと、無礼な力が混じっていた。
その瞬間、見慣れた眼帯の男が、男たちの背後から近づいてきていた。
「おい、その女はお前たちが触れて良い女じゃない」
男たちが振り返ると、そこに立っていたのはクロードだった。無駄のない動きと無表情な顔。その存在感に、ナタリアは驚きと安堵の入り混じった気持ちを覚えた。
クロードは感情的になることなく、男の手首を一瞬で掴み、力を加えた。その動きは慣れたもので、男たちが次々に萎縮していくのが見て取れた。
クロードはさらに一歩踏み込んで男に冷たく言い放った。
「選べ。今ここでくたばるか、逃げ出すか」
男たちは、顔色を変えて後退し始めた。クロードは掴んでいた男を軽く押し出す。最後の一人も急いでその場から逃げ去った。
「またかよ、全く」
ナタリアはクロードのいつもの冷静さに、自分が助けられたことをようやく実感した。
クロードが軽くため息をつきながら、言葉を続ける。
「店外で客と会うときは、護衛をつけろと、言っただろ?」
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で、ナタリアは呟く。その目には涙さえも浮かんでいた。これにはクロードも面食らう。
クロードは肩をすくめ、優しげなため息をついた。
「帰りますよ、お嬢様」
クロードが似合もしない敬語で、ナタリアの手を取る。ナタリアは掴まれた手のひらに驚きつつ、クロードにそのまま連れられる。
大通りを彩る万の灯が、二人を照らす。娼館までの帰り道の束の間の時間、ナタリアは握られた手の温かさに、胸の高鳴りを抑えられない。このまま時が止まってくれれば良いのに、と、ナタリアはそう願う自分に、「そんなわけないじゃない!」と顔を真っ赤にして叫んだ。その様子にクロードは笑い、「よくわからんが、もう大丈夫だな」と呟いた。
【忍び寄る霧の気配】
荒らされた城内で、赤茶髪の少女が泣き叫ぶ。
「お父様! お母様!」
その声が、胸の奥で鳴り響いていた。夢の中で彼女は無力で、誰よりも守らなければならない存在のように感じられた。その少女の叫びが耳にこだまし続ける。
そしてクロードは目を覚ます。冷や汗が背中を走り、胸に鈍い痛みが残った。
――また、あの夢か。
あの日以来、何度も見た悪夢。あの時の己の罪を思い出させるような夢だった。クロードは顔を手で覆い、右目をこすった。その時、ふいに目の前に人影が現れた。
「大丈夫?」
ナタリアだった。彼女の顔が、至近距離で覗き込んでくる。心配そうな表情で、しばらく彼を見守っていた。薄暗い事務所の床に背中を預けたまま、クロードは安堵の息を漏らした。寝ぼけているのもそのはず、この場所はデア・アマータの事務所の隅で、普段は用心棒たちが使っている一室だった。クロードはここで寝ていることが多い。クロードは体を起こす。
「まさか寝込みを襲われるとは思わなかったな」
寝ぼけたまま軽口を叩くと、ナタリアはすぐに反応した。
「バカじゃないの!」
その言葉に、クロードは思わず微笑みを浮かべる。いつも通りのナタリアが、少し嬉しく感じる。彼女が元気でいてくれることが、クロードには何よりも安心できることだった。
けれども、彼の心の奥では、別の思いが静かに芽生えていた。ナタリアを見つめながら、クロードはその思いを強く胸に刻み込む。
――こいつのことだけは、守らなければならない。
その決意は、軽いものではない。単なる娼婦と用心棒の関係を超えて、クロードはナタリアの庇護の責任を感じていた。それは、あの夜失った正義への贖罪とも言えるし、ナタリアから数多のものを奪った負目とも言えた。しかし、彼女を守るべきだという純粋な決意は、確かに胸の中で固く誓われていた。
ナタリアが怒ったように顔を赤らめているのを見て、クロードはつい笑ってしまう。すると、ますますナタリアはむくれて、クロードは余計に面白くなるのだった。
その後、クロードは娼館を出ると、隣の酒場の雑踏に包まれた。ここは町の中心で、昼夜問わず賑やかに人々が集う場所だ。商人たちの軽口や、酔っ払いの笑い声が響いている。クロードはそんな空気を無視するように、目の前のカウンターで酒を頼んだ。
クロードは酒を口に含みながら、ふと耳に入ってきた会話に注意を向けた。隣のテーブルに座っていた一部の貴族たちが、何やら低い声で囁いているのが聞こえた。
「あの赤茶髪の娘、もしかしてフォルケンの血筋じゃないか?」
「いや、流石にそれはないだろう。本当にフォルケンの血筋なら、その物珍しさで、どこかの好事家にとっくに囲われてるだろうさ」
「でも、あの顔立ちといい、動きといい、大貴族のご落胤というのもあながち……」
クロードは耳を澄ませ、その言葉に眉をひそめる。ナタリアのことを指していることは明白だった。
ナタリアをフォルケンと結びつける者が出てくることは、その宣伝の仕方から言ってもおかしなことではなかった。ただ、既に直系は断絶したと思われている家系ゆえに、あくまで都市伝説として扱われるのが関の山のはずだった。しかしナタリアの見た目と振る舞いが、真実味を帯びさせてしまっているようだ。
クロードの心に小さく引っ掛かったのは、「本当にフォルケンの血筋なら、その物珍しさで、どこかの好事家にとっくに囲われてる」という言葉だった。その小骨のような引っ掛かりが、クロードの日常を微かに霧がからせ始めていた。
【高貴な血筋】
「別に、お客様のことなんて好きじゃありませんわ」
ツン、とナタリアが口を尖らせながらソッポを向く。そのツレない様子に、客はますます笑みを深める。
「ナタリア、貴女は本当に愛い」
ナタリアの上客の一人、さる貴族が、ナタリアの隣に腰掛けながら愛を囁く。ナタリアはツンとした態度を崩さないものの、時折相手に目を合わせた後、躊躇いながら、「本当に好きなんかじゃありません」と意味深に呟く。
ナタリアは自分の何が男心をくすぐるのか、よくよく理解していた。
そんな遊戯めいた男女のやり取りをしていると、部屋の窓から徐々に異臭が漂い始めた。
窓から微かな煙の匂いが漂い、ナタリアは眉をひそめる。最初は気のせいかと思ったが、やがてその匂いは徐々に強くなり、建物内にまで届き始めた。隣の酒場から火の手が上がったらしい。ナタリアの心臓がわずかに高鳴る。
「おい、火事だ! すぐに避難しろ!」
突然、どこかから大声が響き渡り、慌ただしくなった娼館の中で、ナタリアはその声に反応した。お客様の顔を見ると、彼も焦りを見せている。
「ちょっと待ってください」と、ナタリアは冷静に言ったが、客の顔には不安の色が広がる。
その時、クロードが部屋に入ってきた。普段は無愛想な顔をしているが、今はどこか緊張感を帯びた様子で、すぐに一歩踏み出した。
「皆さん、落ち着いて。外に出るように」
クロードの指示に、ナタリアはすぐに従った。避難のために、客と共にデア・アマータを出る。広場に出ると、煙と歓声が混じり、野次馬たちが集まってきていた。ナタリアはその場に立ちすくむようにして、しばらく火事の様子を見守った。
火元からはただならぬ熱気が伝わり、空気が歪んでいる。興奮したような声が周囲から飛び交う。何が起こっているのか、皆が焦りながらも興味津々で見守っていた。
その瞬間、背後から不意に腕が回され、強引に体が引き寄せられた。ナタリアは反射的に身をよじらせ、振り向こうとしたが、すでに鳩尾に一発強烈な痛みが走り、意識が途切れた。
ナタリアが次に目を開けたとき、周囲はどこか不安定で、揺れ動く光景が目に入った。柔らかな布に包まれた体が、馬車の揺れに合わせてゆっくりと上下している。頭がぼんやりとしていたが、すぐに自分がどこにいるのかを理解した。
馬車の中。窓から見えるのは、荒れた街並みが通り過ぎる様子。自分の左右に誰かが座っている。そして、自分の前に座っている太った男の影が、無遠慮に近づいてきた。
「目を覚ましましたか、フォルケンの末裔」
男の声は不快なほどにゆったりとして、口調にはどこかのめり込んだような喜びが感じられた。ナタリアはその巨体を見て、思わず息を呑む。
「フォルケンの血筋が途絶えていなかったと知り、どれだけ私が歓喜したか、貴女にはわからないでしょうね」
男の言葉には、奇妙なほどの恍惚と満足が込められていた。
ナタリアはその言葉に思わず反応することなく、じっと男を見つめた。彼が何を言おうと構うものか、と心に誓う。
男は続けた。
「建国以来、この国の荘厳な文化を司ってきたフォルケン家。かの家がもたらした数々の絵画や建築、音楽だけでなく、もはやその血筋さえも伝統芸術の一部だ。金なんかで買えるものではない」
男はナタリアの赤茶色の髪を一房取り、愛しそうに撫でた。
「どんな美術品も、貴女の高貴な血の前には霞むでしょう。だから、私が貴女を保護して差し上げます、どこの馬の骨ともわからぬ輩に汚される前に」
ナタリアはその独善と傲慢にまみれた言葉に吐き気を覚え、すぐに冷徹に答えた。
「反吐が出るわね」
その返答に、男の顔が一瞬歪んだ。しかし、すぐに彼はナタリアに強烈なビンタを見舞った。
「高貴な血筋に相応しくない言葉遣いをするな」
ナタリアはその痛みを感じながらも、顔をゆっくりと上げた。馬車の窓から差し込む月明かりに、醜悪な男の顔が浮かんだ。




