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第三話:優雅なお茶会、二人だけが知ること

【揺れるティーカップ】


「素晴らしい香りですね」

 ティーカップを傾けながら、ラグナルが目を見張る。カレスト公爵領の名産、スフィリナの薬草茶。この琥珀色のお茶は、清涼感のある香りと、癒しの甘みを併せ持つ。更に、採れたての生葉から淹れたものだ。

「それは光栄ですわ」

 アデルもカップを置き、優雅に微笑んだ。

 先ほどまでの真剣な交渉が嘘のように、応接室には穏やかな時間が流れた。

「やはり原産地の茶は格別だ」

「生葉の味わいだけは、王都の皆様に届けることができませんからね」

 アデルはふと思いつき、悪戯を仕掛けた。

「加工茶葉をご愛顧いただけるお得意様でしたら、こっそり生葉もお譲りできるのですが」

 少量の生葉なら、冷却に気をつけて運べば、王都まで品質を維持できる。

 アデルの意図が伝わったのか、ラグナルは楽しそうに目を細めた。

「魅力的なお話だ。ただ僕の実家は、取引にも慎重でね――御用達となると、国内中が騒ぎになるものですから」

「まぁ、つれないこと。それで貴家のおもてなしでは、外国産の紅茶を使い続けるのですね」

 アデルのカウンターが決まった。ラグナルは苦笑いした。

「これは手厳しい。ですが、今後の事業投資を思うと、財布の紐も厳しくなるものです」

「残念ですわ。お気に召したなら、友人価格にして差し上げたのに」

 アデルがわざとらしくため息をついた。

「友人だからこそ、ですよ。でもまぁ、友人なら――」

 そこでラグナルは、不意に口角を上げた。

「卸のついでに、顔を見せに来てくれるものですよね? 例えば次の王国議会の終了後など」

 アデルのティーカップを持つ手が止まった。流石にこの返しは予想していなかった。

 しかし、ここで引くようでは、女公爵は務まらない。

「薬草茶のついで扱いなんて、酷い話ですわね」

「ごめん」

 ラグナルは茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべる――「素直に言うべきだったね。君に会いたいって」

 アデルは瞬間、言葉を失った。理性が追いつく前に、心が意味を理解してしまった。

 ラグナルは穏やかに笑みを浮かべ続ける。その余裕は王族由来の天然物なのか、それともアデルの理性を測っているのか。真意の輪郭は、ぼやけたまま。

「……お茶が冷めますわよ」

 気づけば、アデルは理知的に返すのが精一杯だ。それでも頬の熱が収まらない。


 ――今日一日、ずっと彼に翻弄されている。


 自分でも驚くほどに、アデルの胸のざわめきが止まらなかった。収穫祭の夫婦ごっこから始まり、一転して国政レベルの政治会合。そして今の駆け引き。このやり取りは商取引なのか、それとも別の何かなのか。アデルの心の境界線が溶け出すようだった。

 そしてアデルを最も惑わせたのは、この空気が――心地良かったこと。


「後ほど、薬草茶の発注書を作らせます。我が国の茶産業を発信しなくてはいけませんから」

 ラグナルは言い切った。最初から結論を決めていたかのように。

 そしてラグナルは、アデルにだけ聞こえるように囁いた。

「それと今月末の王国議会の後、お時間をください。会う目的は……会いたいから、で構いませんね」

 この筋書きも、最初から描いていたのだろうか。ラグナルの満面の笑みに、アデルは呆れた――のではなく――楽しさと、ときめきに、抗えなかった。

 商取引は大成功だった。にも関わらず、アデルは、久しぶりに敗北の味を舐めさせられていた。


【建前で己のわがままを通す】


 午後の陽光が窓から差し込む。

 二人のティーカップが空になりそうな頃、ラグナルが切り出した。

「そう言えば、市場で見かけた菓子、おいしそうでしたね」

「ああ、あれはこの領地の伝統菓子でして」

 アデルはすぐに思い当たった。毎年この時期にだけ作られる、郷土菓子。香ばしく優しい甘みが特徴の、小麦の生菓子だ。

「あれは魅力的でした。カレスト公爵領は、茶だけでなく菓子の文化も豊かだ」

「お褒めいただき光栄ですわ。ただ、あれは平民の文化ですから、王族の方の趣味に合うかはわかりませんが」

「食べてみないとわかりませんよ? 領主様がお勧めできないなら、仕方ないですが」

 ラグナルはわざとらしくため息をついた。その挑発する口ぶり。彼の意図は明らかだった。

 アデルは不敵に笑う。

「なるほど――カレスト公爵領のグルメを過小評価されたまま、王都にお返しすることはできませんわね」

 アデルの宣戦布告に、背後の侍従たちが互いに目配せをし始めた。

「晩餐でよろしければ、この屋敷でもお出しできます。ただ、ラグナル様のご都合は……」

 アデルは控え目に確認する。

 ラグナルは即座に立ち上がり、自分の従者の方を振り向いた。

「すぐに王都への帰還が遅れる旨を伝えろ」

「かしこまりました」

 従者は機敏に動き出し、ラグナルも当たり前のように椅子に戻る。


 ――さすがに、あまりにも迷いがなさすぎる。


 アデルは呆気に取られたが、さっと気を取り直した。

「大きな交渉がまとまった一日でもありますからね。これからの大きな仕事のためにも、お祝いをしましょう」

 アデルが言うと、ラグナルもそれに乗っかった。

「それは楽しみだ。ついに貴女の酒豪ぶりを拝見できますね」

「お約束していた通り、酔い潰してさしあげますわ」

 手紙のやり取りの中の一幕を思い出し、アデルは悪戯っぽく笑う。ラグナルは肩をすくめた。

「今日は覚悟しなければなりませんね。では、ゲストルームもお借りできますか?」

「ええ、もちろん。北部の険しい道に、酔いと馬車の揺れは危険ですもの」

 アデルは薄く笑う。

 しかし心の中では驚きが隠せなかった……この人、建前を使うのが上手い。というか、ここまでわがままを貫ける王族がいるだろうか、と。

「お客様をおもてなしするのは、屋敷の主人として当然のことですわ」

 アデルは一礼し、微笑んでみせる。表面上は、完璧な淑女の振る舞いだ。

 その傍ら、アデルも認めざるを得ないことがあった。彼女自身も、ラグナルと同じ思いを抱いているということを。

 結局、建前がすんなり通るのは、互いにそれを望んでいる時なのだ。


 一方、ラグナルは内心、当初からの目的を達成したことに満足していた。

 予定通り帰る気など、初めからなかった。ただ一日、アデルと過ごしたかった――純然たるわがままだ。

 しかし彼の立場で、そのわがままは簡単に成就されない。ゆえに慎重な準備が必要だった。

 理由もなく、終日の予定を入れるのは不自然すぎる。そこで、交渉成立を祝う宴からの宿泊という「筋書き」を描いた。貴族間の慣習として、ごく自然な行為。

 そして交渉が成功した今なら、その関係性を公にできる。政治の世界では、「何があったか」より「どう見せるか」が意味を持つ。「王家とカレスト公爵家の間に、新たな協定が結ばれた」と思わせるだけで、二人の円満な関係は承認される。

 ただしこれによって、男女の噂が流れることは避けられそうになかった。しかしそれも、悪いことではない。噂が真実味のない、滑稽なゴシップであればあるほど良い。分別のある貴族たちは本気にしない。噂を間に受けて、政策批判に利用しようとする者を封じ込められる。


 貴族社会はいつだって、複雑な利害と感情で蠢いている。その思惑を整理し、物語に変えて他者を動かす――それが、ラグナルという男の真価だった。

 彼の策略は、時に裏から王国の秩序を守り、近隣諸国間の戦争までも回避させてきた。その大いなる才能が、今、アデルただ一人に焦点を当てていた。


 唯一ラグナルの予想を超えたのは、示し合わせたかのように円滑だったことだけだ。交渉相手のはずの彼女は――最初から、全てを理解した共犯者だったのだ。話が早いことの喜び以上に横たわるのは、彼女への称賛。

 自身が書いた筋書きを、彼女はいち早く理解して、最高の演技で演じ切った。仕掛けたはずのラグナルが、その知性と狡猾さに魅了されるほどに。

 ラグナルはふとアデルに目をやる。冷静な表情を装う彼女も、どこか満足げな仕草が見え隠れしていた。ラグナルはそっと目を細めた。

「さて、楽しみですね」

 秋の夕陽が、窓の外を黄金に染めていた。

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