第二話:仮装の夫婦、真相は内政中
【収穫祭】
件の手紙から数週間が過ぎた。
秋の朝日が窓から差し込む。アデルは、鏡の前でため息をついた。
「……華やかさは少しだけ」
髪を整えながら、淡い金糸のブラウンドレスに袖を通す。実りの秋を象徴する一着だ。
今日はアデルの領地に、ラグナルが訪れる予定だ。
『せっかくなら収穫祭の日にいかがですか?』
そう誘ったのはアデルだが、『ぜひ』と即答され、彼女も面食らった。
「王族って、こんなに身軽に動けるの……?」
呆れつつも、迎えの準備は着々と進む。
屋敷の玄関前、アデルと侍従たちは、ラグナルの到着を待っていた。やがて馬車の音が近づき、彼が降り立つ。
「ようこそ、ラグナル様」
アデルはいつものように、凛とした所作で出迎えた。それに応じるラグナルも、堂々とした振る舞いだ。侍従たちは思わず背筋を伸ばした。
しかしアデルだけは、親しい人を前にした時の温かみで、微笑んでいた。
ふとラグナルの目が細められた。まるで、眩しい光でも見たかのように。
「今日は一段と……秋の景色にお似合いですね」
穏やかな声が、風に乗って届く。アデルの頬が、わずかに熱を持った。
「……すぐに収穫祭に行かれますか?」
気を取り直し、アデルが尋ねる。ラグナルは悪戯好きの少年のような笑みを見せた。
「ええ、できればお忍びで」
「……お忍び、とはまた唐突な」
しかし、王弟の参賀となれば祭りは一変する。それを避けたい意図は理解できた。
――だからと言って、随分な遊び心だこと。
「わかりました。変装はどうされます?」
「ご安心を。準備してあります」
ラグナルは用意された外套に身を包み、商人らしく変身した。
ラグナルは「これで目立ちません」と笑みを浮かべる。しかし外套で絹の衣は隠せても、品格は隠しきれていない。
「……もしかして、普段からやっているのでは?」
「さあ、どうでしょうね」
ラグナルが茶目っ気たっぷりに返した。
アデルは彼の日常に思いを馳せる。後ろに控える護衛たちは、その無表情の裏で相当苦労させられているのだろう――彼の部下たちに同情した。
しかし彼女の部下も別の意味で苦労しているが、それは棚上げした。
「貴女の分もご用意してありますよ」
「ご用意がよろしすぎではありませんこと?」
そう言いつつ、アデルも久しぶりに童心が疼いた。
ラグナルからアデル用の外套と眼鏡を受け取る。自身のトレードマークである口紅を落とし、アデルもまた「商人の妻」になりきった。
収穫祭に向かうと、会場は賑わっていた。
広場は露店と音楽、笑い声で満ちていた。豊かな実りが、領民たちの顔にも現れている。
「随分と賑やかですね」
「皆、今年の実りを祝っているのですわ」
二人は変装の甲斐もあり、何事もなく祭りに参加できていた。民たちと同じ目線で見る祭りは、とても騒々しく、楽しい。
「奥さんにお一ついかが?」
露天商の声が、アデルの耳に飛び込んだ。髪飾りを売るその店先には、手作りのアクセサリーが並んでいる。廃材の宝石をあしらった、素朴で愛らしい品だ。
「奥さん……?」
アデルの思考が一瞬止まる。その隣でラグナルが――とっても乗り気であった。
「アディ、何色がいい?」
まるで旦那然とした声色。自然すぎる演技。
皮肉の一つでも言ってやろうかしら、とアデルは思うのに、上手く言葉を紡げない。祭りの空気が、妙に彼女を無力にする。
観念したアデルは、妻らしい笑みを装った。
「あなた、これが良いわ」
アデルが指差したのは、黒曜石をあしらった髪飾り。
「君の瞳と同じ色だね。よく似合う」
ラグナルはその髪飾りを買い、アデルのまとめ髪に沿うようにつける。その仕草には澱みがなかった。
――いくら夫婦の演技とはいえ、やりすぎでは!?
しかし周囲には、ただの「仲睦まじい夫婦」に見えたようだ。露天商や道ゆく人々からの温かい視線を感じる。祭りを台無しにしないためにも、ここで取り乱すわけにはいかなかった。
アデルはぎこちない笑みで応じる。
「あなた、ありがとう」
アデルは演技に自信がなかったが、ラグナルは満足げだった。
その後も二人は、祭りの喧騒を楽しんだ。露天商の間を歩きながら、子どものように笑い合う。王弟と公爵――本来ならば雲の上の二人が、ただの夫婦として周囲に受け入れられる。
その仮初めの時間に、アデルは心地良さのまま身を委ねていた。
【政治会談】
午後の陽がカレスト公爵邸に降り注ぐ。収穫祭を一通り見学し終え、二人は屋敷へと戻った。
ラグナルを応接室で待たせている間、アデルは身だしなみを再度整えた。赤い口紅を塗り直し、黒曜石の髪飾りを外した。侍女に、髪のほつれとドレスのズレを直させる。
そしてアデルは黒曜石の髪飾りを、宝石箱の中にそっとしまい込んだ。
「お待たせいたしました、ラグナル様」
応接室では既にラグナルが待っていた。
「いえ、こちらこそ」
礼儀正しさと親しみが同居する微笑みが返ってきた。アデルが向かい合うように腰掛ける。
応接室の重厚な扉が閉じられた。ここからは、王弟と公爵による政治会談だ。
「どうしても貴女に直接お伝えしたかったこと――王都とカレスト公爵領を繋ぐ、交易幹路の開拓を共同で進めたいのです」
アデルの眉が動いた。
「交易幹路の開拓?」
「ええ。先日の王都での会合で、貴女が提案した構想――あれは、王家の国家展望『千年の団結』と一致していました」
アデルは瞠目する。あの日、アデルは確かに夢を語り、ラグナルが受け取った。それは大変な喜びだった。
しかしあの夢は――
「ラグナル様、あれは現実的な手段や工程を度外視した上での話ですわ。それを国家展望に組み込むというのは……」
無謀ではありませんか。
アデルはその言葉を飲み込んだ。思い直したのだ。目の前にいる男が、何も考えずに提案しているはずがない。
「……実現計画があるのでしょう。お聞かせいただけますか?」
アデルは前に乗り出した。
「予算、回収計画、労働力。どれも現実が壁になります」
これらは、いつもアデルの夢を諦めさせてきた。それをどう解決するのか。
ラグナルは、楽しげに口元を緩めた。
「その全てについて、策を用意しています」
ラグナルの宣言に、アデルは息を呑んだ。
「まず予算は、王家が初期投資の大半を負担します」
これはアデルの予想通りだった。カレスト公爵家を上回って資産がある家など、王家しかありえない。
「その代わり、物資量に応じた通行税によって回収します。貴女の構想にあった、治安維持費用としての料金とは別建てで」
「つまり、二段階での課金制ですか。それは、どのくらいの金額を想定されているのですか?」
利用者が耐えられる料金設定かどうか。アデルの懸念が移る。
「スフィリナの薬草茶を卸して王都で売れば、充分な利益が出る程度の金額設定を想定しています。王家としては、十年で投資回収できれば問題ありません」
「その財政余力、『千年の団結』を掲げるだけありますわね」
王都や王家直轄領、そして諸々の制度からの税収。王家の収益源は盤石だ。
「では、労働力の調達はどのように?」
「王都には仕事を求めて、連日多くの平民が流れ込んでいます。この労働力を活かさない手はありません」
人口流入の理由は、人口増加や他領での失業、王都への憧れなど複合的だ。しかしこのままでは働き口が不足し、社会不安に繋がる。その雇用対策として、大規模な建設業は打ってつけだった。
「領民を養える領主は、そんなに多くない。その尻拭いはいつだって我々です」
そう言ってラグナルは項垂れた。「王家と距離を置く地域ほど、領民が王都に流入するのは何故なのか……」と、ラグナルは頭を抱えた。王家の苦悩が滲む姿だった。
「ご心中お察しいたしますわ……」
苦労人の王弟を前にして、アデルは神妙な顔で慮った。
「しかしカレスト公爵領であれば、話は違います」
ラグナルの声に、再び力強さが宿る。
「今日、私は確信しました。この計画は必ず成功すると」
「……その根拠は?」
アデルは慎重に、ラグナルの次の言葉を引き出す。
「収穫祭です。あの熱気こそ、この土地の底力。工事を支え、交易を動かすに足る。あそこに、領地領民の理想がありました」
ラグナルの目、声、言葉。その全てに、一点の曇りもなかった。カレスト公爵領領主と領民に対する、最大の賛辞。
アデルは苦笑を浮かべる。
「そこまで言われて、疑うことなどできませんわね」
ここまでの話を踏まえ、アデルの長年の勘が言う――これは乗るべき勝ち馬だ。利益の見込み、実現可能性、社会的意義。何をとっても申し分ない。しかし――。
「……貴方は、なぜここまで」
アデルの声に戸惑いが混じる。素朴な疑問だった。王家の義務や投資だけでは説明できない。それを超えるラグナルの熱意が、目の前にある。
「――アデル・カレスト公爵」
名前を呼ぶ声に、空気が静まる。
「貴女と父君の夢を、現実にする時です。これは領地だけではなく、国全体の未来を変える事業だ」
ラグナルの言葉が、アデルの矜持を揺さぶる。
「そしてこれは、一人の政治家としての願いでもあります。私は貴女が描く未来を共に実現したい。そのために、ここに来たのです」
ラグナルの青い瞳が、アデルを真っ直ぐ射抜く。しかし、もう、アデルは動揺しなかった。
――この人となら、夢を現実にできる。
アデルは笑みを浮かべた。希望の女神に捧げるために。
「カレスト公爵家は、この提案に全面的に参画いたします。王家と共に、千年続く王国の礎となる。そして貴方とは――夢を現実にするパートナーとして、連帯と共闘をお約束しましょう」
アデルは立ち上がり、手袋を外して右手を差し出した。ラグナルも無言で立ち、力強くその手を取る。
互いが握る指先に、確かな覚悟と信頼が宿っていた。