第六話:アデル
【名外交官として】
それからほどなくして、ヴァルミール国内の緊張が高まる事態となった。
ヴァルミールとその隣国エルゼーンとの間で、貿易を巡る対立が勃発した。
「エルゼーン側がヴァルミールに対して貿易赤字だという。それで自由貿易協定を破棄したがっていると」
「こっちだって向こうの農作物の輸入はしている。我が国に檸檬入り紅茶が広まったのは、あちらからもたらされた文化じゃないか」
日を増すごとに、対立は激化した。エルゼーン側が国境付近で軍事演習を繰り返した。ヴァルミールに対する、明確な示威行為。
この件に関して、アヴェレート王国も無関係ではいられない。王国とヴァルミールは軍事同盟を結んでいる。ヴァルミールは東方防衛の要だ。また経済的にも重要な貿易相手である。
巻き込まれるのは避けられない。それが外交の段階か、戦禍の段階かの違いに過ぎない。
「ラグナル殿下。どうか貴殿に、両国の仲裁を頼みたい」
ラグナルは、ヴァルミール宮廷の支持を得て、仲裁に乗り出した。
時は早春。ヴァルミールの木花の芽が膨らみ始めた頃だった。湖のほとりにある慎ましやかな宮殿。そこが、運命を決する外交の舞台だった。その舞台に上がるのは、両国の宰相同士と、ラグナルの三者だ。
「ほう……趣深いですな。ヴァルミールから見る湖畔の景色というものも」
エルゼーンの宰相が、宮殿に到着するなり、そう言った。
「ええ。エルゼーンとも共有する湖。ぜひ、ヴァルミール側からの風景を一望いただきたく」
ラグナルが微笑みながら告げる。
そして交渉会場の広間に着くなり、両国の宰相が瞠目する。
「これはまた……アヴェレート王国流の、新しい文化なのでしょうかね」
「ラグナル殿下は、随分と大胆なことをなされるのですな」
ラグナルが用意した交渉の場は、外交常識から大きく外れていた。
通常、このような重大な外交局面においては、国家の威信をかけて豪奢な席を用意するものだ。しかしラグナルが選んだのは木のテーブルと素朴な食器、そして湖からの涼しい風が吹き込む静かな空間だった。
「形式を飾る必要はありません。今私たちに必要なのは、対話による相互理解です。そのためには、机に檸檬入り紅茶だけあれば充分です」
ラグナルの言葉は澱みなく、確信に満ちていた。両国の宰相は訝しみを残しつつも、渋々といった様子で席に着いた。
仲裁役として、ラグナルが切り出した。
「目の前の湖は、ヴァルミールとエルゼーンの両国に跨る自然の恵みです。両国は長らく、この水を分かち合い、双方が繁栄してきました。その共有の精神が、今回の問題を解決する鍵になると、我々アヴェレート王国も信じています」
それが開幕の宣誓となった。
エルゼーンの宰相が、木のテーブルに腕を乗せて身を乗り出す。
「ならば、この飾らない場に相応しく、私も率直に言わせていただきましょう。現在、エルゼーンの貿易赤字が拡大し、雇用の悪化と通貨流出が起きている。これは共有ではなく、一方的な搾取では?」
それは貴族の常識では考えられないほど、剥き出しの本音。
「ここまで明確に主張していただけると、こちらも誤解がなくて助かります。自由貿易とは、両国の交易の活性化と、産業競争の促進が、その真髄。貿易赤字の一点のみに目を向けるのではなく、産業競争力や、交易によりもたらされた経済効果にも着目していただきたい」
ヴァルミール宰相もまた、あけすけに反論した。
早速の一触即発の雰囲気。同席する使節団に緊張が走る。彼らには、この素朴な場が、両者の口を滑らせているように見えていた。
しかしラグナルだけが、微笑みを浮かべていた。彼の目論見が軌道に乗ったのだ。
「両国の主張が共有されましたね。エルゼーン側は、現在の貿易赤字を解消したい。ヴァルミール側は、自由貿易競争環境を維持したい。ではそれを実現するために、どうするか。遥か遠くの国にはこんな言葉があるそうです、『三人寄れば神の知恵』。今の我々に求められていることは、まさに三者で知恵を絞り、問題解決を図ることでしょう」
その言葉が会議の方向性を決めた。問題解決のために三者が揃った、という共通認識が形成された。
交渉は数日間にわたった。その様は難航そのものだった。
「貴国の産業が我が国の労働者を殺すのは、間接的な戦争と言っても過言ではないのでは?」
「その労働者の保護に乗り出しましょうか? 貴国が自治権を放棄したいのであれば」
気を抜けばすぐに、両者の敵意が顔を出す。
「本音を語り合うのは構いませんが、民の命をテーブルに乗せるのは、重すぎて食器が割れてしまいます。その代わりと言ってはなんですが、檸檬入り紅茶のおかわりはいかがです?」
それをラグナルが宥める。
こうしたやり取りを繰り返し、最終的に三つの合意に辿り着いた。
一、原則、自由貿易の維持
二、大規模な雇用創出に繋がるエルゼーンの産業(織物、鉱物)の特例関税措置
三、両国の出資による、湖の水質研究及び養殖研究
双方の妥協と、新たな連携を生み出した合意内容が、和平をもたらした。その長い交渉は、握手と共に締めくくられた。
この交渉は三者湖畔会談と名付けられ、ヴァルミールの歴史書にその一文を刻むこととなる。
「この時期にラグナル殿下が我が国に赴任していたことは僥倖だ」
「アヴェレート王国の文化の真髄は、建築や芸術ではなく、その精神にあり。ラグナル殿下を見れば、それは明らかだ」
ヴァルミールの貴族社会からの感謝と称賛は絶えなかった。彼らの口ぶりに、かつての嘲りは見られなかった。
その夜、ラグナルは湖のほとりに立ち、反射する月の光を見つめていた。
彼の胸には、アデルの姿が浮かんでいた。報告書に記されていた彼女の改革の数々――それはラグナルにとって、祖国が今なお希望を紡いでいる証そのものだった。
「アデル・カレスト……。貴女が灯した未来の光を、私も守り続ける」
ラグナルは自分自身に誓う。その心の内は、希望の光に照らされていた。
【アデルという希望】
ラグナルの記憶に、アデルの姿は幾度となく鮮やかに蘇る。
最初の出会いは、ラグナルが十三歳の時だった。
王城で開かれた夏のパーティ、ラグナルは冷徹な眼差しで人々を見渡していた。そこに、当時のカレスト公爵が小さな娘を連れて現れた。
幼いアデルは無邪気な洞察に富んでいた。父親の話に、未来を見据えた提案をした。ラグナルはその小さな才知に心を打たれ、「いっぱい考えるんだよ。それが、みんなを幸せにするからね」と微笑んだ。
彼女の存在は、暗雲立ち込める時代の中で微かな光だった。
時は流れ、ラグナルが二十五歳になった夏。
アデルは次期公爵として正式にお披露目された。その日、彼女は父の隣に立ち、堂々と宣言した。「新しい未来を切り開いていく覚悟でございます。例えそれが、荊の道であったとしても」と。
その凛々しい姿は、会場の貴族たちを圧倒した。ラグナル自身もまた、未来を担う者の気高さを感じた。あの無邪気な少女が、見事に花を咲かせた姿に、彼は心から感嘆した。
その後も、アデルはラグナルの記憶の中で鮮やかに輝き続けた。
年末会議に緊張を見せていた彼女。しかし後に、金山開拓や農地改革といった目覚ましい功績を成し遂げ、領地を王国の模範たる存在へと変えた。その報告をヴァルミールで耳にするたび、ラグナルは希望を抱き続けた。
八年ぶりに、ラグナルが帰国した。彼を出迎えたのは、雨上がりの虹と、活気ある街並みだ。アーサーの戴冠式を目前に控え、王都は賑わっていた。
ラグナルが知る風景ではなかった。彼の記憶にある王都は、政治的混乱と文化退廃により、王国の誇りが人々から失われた姿。
それが今、目の前に広がるのは、生き生きとした活気だった。市場は賑わいを取り戻し、街並みは整然と美しく改修されていた。
ラグナルは自分の足で、市場を見て回った。高級品専門の通りで、彼はスフィリナの薬草茶を見かけた。これはアデルの領地で生まれた商品で、八年前には存在していなかった。
アーサーの戴冠式の日、ラグナルはアデルと再会を果たした。
「アデル嬢」
ラグナルが声をかけ、アデルが振り向いた。
アデルの艶やかな茶髪、光あふれる黒目、今や王国女性の気高さの象徴となった赤の口紅。その色の全ては、彼の記憶に残るアデルのどの姿よりも美しかった。
「お帰りなさいませ、ラグナル殿下。八年ぶりですね」
アデルは裾を揺らし、優雅に礼をした。ラグナルは微笑むと、彼女の目を見つめた。
「国外にいながら、貴女のご活躍が耳に届く度に、嬉しく思ったものです」
「過分なお言葉、ありがとうございます」
一瞬の間の後、アデルが続けた。
「ラグナル殿下こそ、外交官としてご立派なご功績を残されていると伺っております。王国と周辺の平和が守られたのは殿下のお力あってこそ――心より感謝申し上げます」
ラグナルは彼女の微笑を受け止めた。胸の中で押しては引く、大きな感情のうねりを抱きながら。
――感謝したいのは、僕の方だ。
退廃し、混乱した祖国の中に生まれ、絶やされなかった希望の灯火。祖国の未来を支える彼女の存在、その努力と成果。それがどれだけラグナルの心を照らし出し、支えていたことか。
アデルに言葉多く伝えられないことを、ラグナルはもどかしく思う。一体どれだけの言葉を尽くせば、自分の誠意は伝わるのだろうか、と。それだけで、王都に新たな喧騒を生みかねないほどに。
伝えきれない伝えられない思いを、ラグナルはそっと胸にしまい込む。そして彼は微笑みを浮かべた。
アデルとの再会――それは、ラグナルの希望の物語の始まりだった。




